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アーンドラ・グループ総料理長、ラマナイヤ・シェフ。人生で必要なことのすべてをレストランで学び、大成功したインド人料理人。

その町の名はUdupi 、星たちの支配者の土地、すなわち月の町という意味です。南インド、カルナータカ州のその町に生まれたやせっぽちの少年は、十歳でレストランの床掃除を振り出しに、マサラ挽き、ドーサ担当、部門シェフと、料理人として少しづつウデを上げ、さらには名門ホテルを渡り歩き、グランシェフになって、いまでは「東京のインド料理界のラジニカーント」と呼ばれています。いったいどんな生涯なんでしょう。


その町はカルナータカ州にあって、カルナータカ州は南インドの交差点です。ラマナイア少年は十歳、カルナータカ州のUdupi という田舎町のホテルのレストランで、自分の背丈ほどのモップを持って、広い床をぴかぴかに磨いています。ラマナイヤくんは痩せっぽちで背もちっちゃい、睫が長く瞳はくりくりしています。ショコラ色の肌、笑うと白い歯並びがニッと見えます。ホテルには毎日いろんな国から、旅行者たちがやって来ます、アラビア半島から、ヨーロッパから、アメリカから。ラマナイヤくんは毎日毎日テーブルを拭き、床をクリーニングしながら、すぐに覚えた、いつも自分を清潔にしておくこと、微笑むこと。当時のかれにとって、英語の教科書で山のような例文を覚えるよりも、満面の微笑みで、Thank you,madam.Thank you,sir.と囁くことこそが、
人生の扉を開く魔法の言葉だった。お客さんが好印象を持ってくれればときにはチップもいただける。上司の笑顔も返ってくる。逆に、客に不快な印象を与えでもしたら、怒鳴られ、こずかれ、最悪の場合職場から追い出されかねない。なぜって、自分の替わりなどいくらだっているのだから。


ラマナイヤくんは床掃除をしながら、厨房の先輩たちを見ます。タンドールスぺシャリストは誇らしげに金串にヨーグルトにマリネされた肉を刺して、高熱の釜が自分の慣れ親しんだ道具であることを見せつけています。ドーサスぺシャリストは磨き上げ油の染み込んで黒光りする鉄板の上に、魔法のペーストのように乳白色のタネを拡げ、またたくまに美しく大きなドーサを焼きあげています。カレースペシャリストは、夢のような香りのカレーをいともたやすく多彩に作り上げます。料理長は眩しいくらいに純白のシェフコートに身を包み、各ポジションをまわり、味と香りをチェックし、威厳をもってうなずきます。それに比べてラマナイヤくんはただの掃除の小僧です。一日も早く階級を上に登ること。一日も早く料理人になること。そしていつか立派な料理人になること。


かれは二番目めの職場、Janata Hotelに移ります。
ラマナイヤ少年は細い腕で、石ミルを挽いています、汗をかきながら。コリアンダー・シード、クミン・シード、メティ・シード・・・。ミルのなかでさまざまなスパイスが潰れ、一体となってその美しい香りがラマナイヤ少年のちいさな体をつつみます。当時はまだインドに電動ミルなど存在しません。ラマナイヤ少年は、朝から晩までただゴリゴリゴリゴリ石ミルを挽きます。挽きつづけます。日が暮れれば腕はくたくたです。つらい仕事だ。でも、それは理に叶った職業教育でもあって。なぜって、そんな日々のなかで人は自然と、
サンバルの香りを、ラッサムの香りを、肉料理のスパイスの構成を、体が覚えてゆきます。当時のかれにとっては三桁の掛け算よりも各種マサラの調合がよほど大事だった。



やがてラマナイヤ少年は野菜のカットのポジションを獲得します、大量のタマネギの、ニンニク、生姜、グリーンチリ・・・をカットしてゆく。
均一なカットでなければ火の入り方が均等になりません。おまけに要求されるスピードがきわめて速い。


つづいてラマナイヤ少年は調理アシスタントになります。上司の料理人の次の行動を読み、さっとアシストしてゆく。調理技術をまざまざと見ることができることにラマナイヤ少年はドキドキ興奮します。


三番目の職場はアーンドラ・プラデーシュ州の州都バンガロールの郊外にある、古都マイソールにあるSuda Hotel。ラマナイヤ少年はドーサ担当に。
熱い鉄板の上に乳白色のタネを円形に拡げ、油をふりかけ、具を乗せ、焼き上げます。色合い、均一な仕上がり、薄くクリスピーな食感が大事です。毎日毎日ドーサを百も二百も焼き上げているうちに、おのずと知らず体が自然に動くようになってくる。当時のかれにとっては、地理や歴史の暗記よりも、おいしいドーサを俊敏にどんどん焼きあげることがよほど重要だった。なぜなら、高い質を維持しながら、なおかつ仕事が速い者こそが厨房の勝者だから。神々に見守られた避暑地のホテルで、当時かれは十六歳でした。


そしてかれがラマナイヤ青年になった頃、かれは五つ星ホテル、バンガロールの Hotel Ashok に勤めます。いかにもアメリカンな、白亜の宮殿のようなホテルです、中庭にはプールがあって、棕櫚の木が風に吹かれています。室内は大理石をふんだんに使い木材も上等です。天井にはシャンデリアが宝石のように輝きます。あらゆる場所は清潔に磨き上げられ、花々があしらわれています。厳しいセキュリティ、礼儀正しく教育されたサーヴィス、レストランも、カウンターも交代制で二十四時間機能しています。いかにも貴族的な世界がそこにあって。Hotel Ashok は、中華料理、ヨーロッパ料理、南インド料理、ムガル料理、そしてタンドール料理をふるまっています。


レストランに雇われたかれはもう一度床掃除からやらされました。でも、ラマナイヤ青年は苦にはなりませんでした、なぜって、そこは五つ星ホテルのレストランだから。ラマナイヤ青年は決心しました、すぐに厨房に立ってやる。そして数ヶ月後、決心どおり願いを叶え、野菜のカットのポジションを獲得し、ほどなくして北インド料理を作らせてもらえるようになります。二十三歳の青年料理人になっていました。そしてかれはその五つ星ホテルの厨房で、あらゆるポジションも勤めあげます。


しかし、順風満帆に見えるラマナイヤさんの人生にも悲しい出来事もまたありました。かれが三十代半ばになった頃、かれは満を持してアーンドラプラデーシュ州のアナンダプールでちいさなレストランのオウナー・シェフになりました。かれがメニューを組み立て、かれが料理を作りました。
レストランは、評判になり、最初のうちは好調でした。気をよくしたかれは、さらに二軒のレストランを作り、計六十席をまわしました。しかし、やがて経営はおもいどおりにはゆかず、傾きはじめ、あの手この手の営業努力の甲斐もなく、けっきょく1989年、かれはすべてを失ってしまいます。ラマナイヤ・シェフは、当時を振り返って、つぶやきます、
"I lost everything!" 肩をすくめ、両手を広げて。


その後ラマナイヤさんはふたたびホテル・レストランの厨房に復帰します。アーンドラ・プラデーシュ州の州都ハイデラバードの五つ星ホテル、Taj に職を求め、活躍し、その評判で、Holiday Inn に、さらには、Oberoi Hotels & Resortsで、
それぞれスー・シェフ、シェフを務めます。


そしてラマナイア・シェフが名声を獲得した時期に、かれは2003年東京八重洲のダバ・インディアに開店とともに呼ばれ、2008年秋まで6年間にわたってダバ・インディアの黄金時代を築きます。当時ラマナイヤ・シェフは第一次安倍内閣のとき総理大臣がインドの要人をお招きする晩餐会の料理長も勤めています。ラマナイヤ・シェフは、シェフコートのポケットにデジタルカメラを持っていて、にこにこうれしそうに当時の安倍総理とラマナイヤ・シェフのツー・ショットを見せてくれます。(余談ながら、この時期のダバインディアの日本人スタッフたちのなかから、新大塚のカッチャルバッチャルが、木場のカマルプールが生まれ、そして千駄ヶ谷にディルセが誕生しました。)


そしてラマナイア・シェフは御徒町アーンドラキッチン開店とともにシェフに就任、あっというまに成功を収めます。つづいて銀座の一等地に旗艦店アーンドラダイニングを出店。さらには渋谷店も。一説にはいまラマナイヤ・シェフご自身は大門のアーンドラ・ダイニングにおられるという噂もありますが、いずれにせよ、アーンドラ全店すべてラマナイヤ・シェフが料理を監督しておられます。


いまではインドにあってなおラマナイア・シェフのような人生は過去のものになりつつある。なぜって、いまやインドの5大都市― チェンナイ、ニューデリー、ムンバイ、バンガロール、カルカッタは、(細かな違いに目をつぶるならば)東京・横浜となんら変わらない都市で、中産階級の層も厚い。そんな現代にあっては、料理人もまた中産階級の男の子がハイスクールを卒業して、それこそ日本の辻調理師専門学校さながらの、オベロイホテル併設の料理学校に入学し、まずはフランス料理、中国料理、インド料理を学び、その後専門の料理を選び、卒業後は(たとえば)オベロイホテルの厨房で揉まれながら、スペシャリストになってゆきます。かれらは野菜のカットの大きさの指示出しも、フランス料理の流儀で、デとか、コンカッセとか、ジュリエンヌの基準でカットしていて、それは料理を見ればすぐにわかります。とうぜんそんなかれらは、教養として、ボキューズ、ロブション、デュカス、ブラスを(食べたことはなくとも)よく知っています。(もっとも、来日するインド人料理人にはさまざまな履歴の人が混じっていて、けっして誰もがそうだというわけではありませんけれど。)


でも、だからといって、かれらとはまったく対照的なラマナイヤ・シェフの人生とともにある料理のすばらしさは依然圧倒的であって。なぜって、義務教育社会は平均的に人間の教養を高めるけれど、しかし、その代償として天才を作ることができない。いいえ、一般教養を身に着け18歳から料理を学ぶことで得られるものももちろんたくさんあるでしょう。しかし、十歳からレストランに入り、それこそ人生で必要なもののすべてをレストランとホテルで身に着けてゆく、そんな人生もまたあって、はたしてどちらが良いとは一概には言えません。いずれにせよ、ラマナイヤ・シェフの料理がなんとも魅惑的にすばらしいことはインド料理を愛する者には疑いの余地はありません。なお、かれの給料はアーンドラ全店の売上げからパーセンテージ契約になっていて、かれがたいへんな高給取りであることが伺えます。東京で雇われシェフとしてこんなにも大成功したインド人料理人を、ラマナイヤ・シェフ以外に誰も知りません。ついでながら、ぼくの友達のインド人たちに言わせると、かれのタミル語も、かれのヒンディもとても紳士的で流暢とのこと。

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