スズキレイジ

障害福祉、喫茶店主、演劇ライター。週末はほぼ劇場にいる。「ユリイカ」や「埼玉アーツシア…

スズキレイジ

障害福祉、喫茶店主、演劇ライター。週末はほぼ劇場にいる。「ユリイカ」や「埼玉アーツシアター通信」や「げきぴあ」などに寄稿。師匠の栗原彬さん(政治社会学)との対談は『ソーシャルアート 障害のある人とアートで社会を変える』(学芸出版社、2016年)に掲載されている。

最近の記事

7月26日に「応答」せねばならぬこと

あれから6年ということでテレビで朝から特集が組まれていた。新たな園では昼食時に4~5種のふりかけの中から選べたり施設内に「模擬店」を設けて缶ジュースやカップラーメンを選べる時間をつくったり、入所する人たちの意思決定支援が進められている様子が映し出されていた……改善されてまだそこなのかと眩暈がした。 そういえば、事件の少し前、横浜のある大きな施設の若い職員がこんな感じの「模擬店」の取り組みについて話しているのを聞いて、「あっ、『模擬店』って模擬の店ってことか」とヘンに腑に落ち

    • 「ワンダフルライフ」評

      20代の半ば、どこに出すあてもなく書いていた時期がある。劇場にも行かれない夏期休暇、あまりに暇なのでそれを覗いてみたら、今と同じようなことを書いている。しかも勝手に連載形式で……でもこれは書き上げたいな。そのためにも、映画をまた観はじめるか。 ************************************************************** 前回取り上げた『フェノミナン』のラスト近くに、温もりを帯びた印象的なシーンがある。死を目の前にしたジョージ

      • 五十嵐大介「魔女」

        ここに描かれているのは魔女の話。 「“大いなる魔女”は大きな力や、ずっと昔から未来へとつながる“流れ”の呼び名。わたしはその一部にすぎない。“森”はそこにはえている木のことではなくて、そこにある全ての命、光や時間がかたちづくるものでしょう。そこにいる事に気づいたときから、誰だってその森の一部になる。それと同じ。わたしは…ただ、気づいただけ。」(「PETRA GENITALIX」) 有限の世界の住人が挑むのは至難の業であるものの、五十嵐大介は選りすぐりの言葉と全身全霊を解き

        • 「東京デスロック」のこと

          東京デスロック主宰の多田淳之介が「演劇LOVE」を標榜して久しい。ややもすれば多田は、演劇を愛しているというよりも、枠組みを壊してしまうくらい演劇に対して果敢に挑んでいる印象を持たれがちだが。それは彼がこれまで、開演前の挨拶であらすじをほとんど語り、冒頭四〇分以上無言で女優を立たせ、ひとつの「作品」を何度も繰り返して見せ、俳優は出さずスクリーンに映る字幕と音楽と照明だけで作品を構成し、八時間の上演時間内で途中退場自由……夥しい数の試みをしてきたからである。 それゆえ彼には「実

        7月26日に「応答」せねばならぬこと

          チェルフィッチュ「三月の5日間」評

            ちょうど今、神奈川芸術劇場でリクリエーション版として上演されている「三月の5日間」。2006年にSuperDeluxeでの再演を観て、初めて書いた劇評をそのまま掲載する。小劇場レビューマガジン「ワンダーランド」の北嶋孝さんに声をかけてもらい劇評を載せたのが2008年のことだから、それより一年ちょっと前のこと。  そもそもこんなものを掘り起こしたのは、今回のリクリエーション版で自分があまり揺さぶられることのなかったのはどういうことなのか、考えるためであった。で、かつての上演

          チェルフィッチュ「三月の5日間」評

          はたらくということ

          (この原稿は2005年7月に横浜学校労働者組合からの依頼で、機関誌に掲載する記事として寄稿したものである。そのために以下のようなリード文が添えられていた)  現在国会で審議されている 「障害者自立支援法」 について、 中身がどんなものかご存知だろうか。 「応能負担」 から 「応益負担」 への転換だとか、 障害についての一本化だとか、 細切れで情報は伝わってくるが、 その問題点や、 そもそも障害者が働いていくということの現実について多くの人々は知らないことが多すぎるのではないか

          はたらくということ

          伝えないメディアと諦めない青年

          昨晩というか日付は今日となっていた未明、NHKは委員会室で議事が始まらない様を映すのみで、まさにそのとき議事堂を取り囲んでいた人たちの存在を映像でも言葉でも一切報じなかった。 それを見ていて想起したのは、18歳の予備校の現国の教室。石牟礼道子さんの文章が問題文だったために水俣病の話になり「今日、この今も患者さんは抗議の活動をされている」と講師が言った。 あの時わたしの中で何かが起った。それまでは、歴史とわたしは途切れていた。厳密に言えば、社会問題とわたしは関係ないと思って

          伝えないメディアと諦めない青年

          『障害/健常』をゆさぶる

          先にお詫びしておきますが、わたしは障害について専門的に学んだことはありません。アートについても同様です。なのに障害とアートについてお話します。 今日の話の中で用いる障害という言葉は、おもに古い世界保健機構の国際障害分類の「社会的不利益」を意識しています。機能や構造やもっといえば姿かたちに違いがあることや、何かができなかったり苦手だったりすることそのものではなく、それら諸々のことによって不利益を被るという様態に焦点をあてます。 そもそもわたしは障害というものを、差異があるこ

          『障害/健常』をゆさぶる

          ハイバイのゆかいなたくらみ

          ハイバイは2003年に『ヒッキー・カンクーントルネード』でのろしを上げた。主宰の岩井秀人が自身の引きこもり時代を描き、昨年で6回目の再演で全国を回ったまさしく代表作である。身を切るかのように見える劇作だが、岩井は、不幸ネタを披瀝して可哀想がってほしいのではないし、自分の傷を癒そうとしているのでもない。ましてや「生まれ変わろうぜ、そこのキミも!」と悩める若者あたりにエールを送っているのでもない。ハイバイはそんなにやわなものではない。きわめてやっかいな連中なのだ。 わたしには、

          ハイバイのゆかいなたくらみ