7月26日に「応答」せねばならぬこと

あれから6年ということでテレビで朝から特集が組まれていた。新たな園では昼食時に4~5種のふりかけの中から選べたり施設内に「模擬店」を設けて缶ジュースやカップラーメンを選べる時間をつくったり、入所する人たちの意思決定支援が進められている様子が映し出されていた……改善されてまだそこなのかと眩暈がした。

そういえば、事件の少し前、横浜のある大きな施設の若い職員がこんな感じの「模擬店」の取り組みについて話しているのを聞いて、「あっ、『模擬店』って模擬の店ってことか」とヘンに腑に落ちたことがあった。施設の外に出られない人たちが商店に模したところで買い物の真似事をする。それが取り組みの工夫のように語られていて、今でも違和感が残っている。

朝のテレビを見ながら、ああこの人たちは、あれだけの大きな問いを投げかけられた後もまた、相変わらず世間から緩やかに隔離されて、まるで存在しないかのように扱われるのかと思った。
「外からも見えるように」していくことで虐待も防げるようなコメントをしている職員もいたが、意識的に「外」に出ていくことが肝心だろう。建てかえられた園には50人が入所しているとのことだったが、うちのような15~20名くらいの規模の3~4ヶ所にして街に開放的に点在させたら、当たり前に地域の一員としての日常があったのではないかとも思うけれど、その手の意見にはきっと各方面から反対が起こる。
それはいったいどういうことなのか?

開放的でなくとも大規模施設の方が「手厚い」介助があると思う家族が多いのは事実だ。「隔離」と捉えるか「安全」と感じるかは価値観の違いだとしても、管理される「安全」によって失いかねない他者との関わり(大げさに言えば社会との関わり)は、個々の機会喪失というだけでなく、この社会の価値観の転換の機会も奪ってしまっているとさえ感じている。
本人にとってもどのような暮らしが幸せなのか、選択肢は多い方がよいし、模索し試行錯誤をつづける人が寄り添っていてほしい。家族どころか、本人だって「正解」を持っているとは限らない。決めつけないこと、ずっと探りつづけることがとても大切だ。

それから、福祉側からも「大規模施設でないと暮らせない人もいる」という意見が少なからず出てくる。
そんな人にはまず「道草」という映画を観てもらいたい。施設入所で人が変わったかのように「問題行動」を繰り返すようになった青年が、介助者と一人暮らしする中で恢復していく様子が映し出される。

また、福祉関係者から「強度行動障害はそんな生易しいものではない」と言われたことは何度もある。そういうことを言うのは日々「格闘」しているプロ意識が高い人が多い。言いたくなる背景はわからないでもない。けれど、「問題行動」は個人の障害(機能や能力)のせいにすることで、社会の不寛容のせいで起こさせられているとは考えないようにしているのではないかとも思ってしまう。
50年以上も前に、個人のせいにするような障害観は「個人モデル(または医学モデル)」とされ、それに対し社会の価値観を問う「社会モデル」が提唱された。国連の「障害者権利条約」(2006年)やこの国の「改正障害者基本法」(2011年)でも「社会モデル」が基調にされて久しい。にもかかわらず、「個人モデル」的な発想は現場に根強く残っていて、善意の指導によって変化を強いられるのはいつだって「障害者」と括られた側だ。

「そうは言っても社会の価値観は変わらない」という意見は、残念なことに強く否定しえない。だからといって、「問題」を障害がある人に押し付けてよいわけではないし、「指導」のみが福祉の「仕事」だと諦念する正当性の根拠にもならない。彼や彼女を「隔離」するのはわたしたちの社会の問題とするところから始めたい。
「ならば問題を起こす人にきみも対処してみろ」みたいなこともよく言われる。その都度、わたしたちがともに過ごしている人たちが管理的な施設に入れられていたら、少なからず「問題を起こす人」にされていたであろうと思いつつ、その不快感をこいつの施設をいかに解体するかというエネルギーへと転化させることにしている。

たしかに少しでも周りと違うことが「生きづらさ」になってしまうわたしたちのこの社会は不寛容になる一方にも見える。だから孤立し追い込まれた家族は、法外な費用をかけてでも個人の方を社会に適応できるよう「矯正」してもらおうとするのかもしれない。社会に絶望した先に。

あんな所にまで至ってしまったのに相変わらず個人に責めを負わせて、変わるそぶりもないわたしたちの社会。それどころかこの日に"また"処刑が執行された。「同情の余地もないよね?」というくらいの「絶対悪」としての咎人を処刑することで、社会の側の問題から目を逸らせたい人たちがいて、自分もそんな社会の一員であると問うことから逃げたい人たちの利害とヘンに一致するからではないのかとさえ思ってしまう。(2018年7月26日に元幹部6名が処刑されたオウム真理教の事件が発覚した当初、「こっちへ帰っておいで」とサティアンの外で泣き叫ぶ親族を映していたメディアのことを思い出した。教団の凶行が断じて許されるものではないからといって、それがすなわち"こっち"に問題がないことはならないのに、対立構造の単純化はものごとを「わかりやすく」するが、大切なことを見失わせがちだ。それにしても、同じようなカルトに対して昨今のメディアはあのように叩かないのも不思議な話ではある)
相模原事件がわたしたちの社会のせいでもあるということを覆い隠すために、この人は今日の日に処刑された気がしてならない。

6年も経ってしまったのに、このザンネンな社会の「空気を読む」ことだけには長けていたもう一人の彼の、愚かな忖度により実行されてしまった極端に偏った暴力に対して、福祉の現場からほぼ何の応答もできていない。
障害福祉からの応答は、制限や隔離によって管理しながら表層的な「多様性」を授けることではない。個人を矯正するのではなく、差異が生きづらさにならないように社会の方を変えていくことだ。それは、個々人の差異を(他の誰かの差異を否定しない範囲において)肯定できるような社会にしていくということだ。
そして、わたしたちマジョリティからの応答は、たとえ自分たちの既得権益が危うくなったとしても、自分たちに有利につくって来た仕組みを問い直すところからだ。ほんとうに、「生産性」「効率」「マーケティング」「経済成長」「所有」なんてもろもろが、一部の人たちを否定してまで崇められるべきものなのか、立ち止まって問い直すところから始まるのではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?