『障害/健常』をゆさぶる

先にお詫びしておきますが、わたしは障害について専門的に学んだことはありません。アートについても同様です。なのに障害とアートについてお話します。

今日の話の中で用いる障害という言葉は、おもに古い世界保健機構の国際障害分類の「社会的不利益」を意識しています。機能や構造やもっといえば姿かたちに違いがあることや、何かができなかったり苦手だったりすることそのものではなく、それら諸々のことによって不利益を被るという様態に焦点をあてます。

そもそもわたしは障害というものを、差異があることよりも、差異があることで差障りがあったり被害を受けたりすることとして捉えています。なので、障害がある人と表現しますが、障害があるのは人にではなく「人と人の間」、つまり「関係」にあるのだと考えています。(そのために表記を「がい」とか「碍」としません。名指されて嫌悪を抱く人々が表記を変えることの意味は理解します。それでも、字面の変更で対応するのではなく、差異は人にあるが障害は関係にあるという“概念そのものの変更”をしなければ、問題の本質に迫れないと考えているからです。)

で、この関係にこそ障害の根っこがあるというのは重要なことだと思っていて、だからこそ「障害者」と括られた人たちの問題ではなくて、これはわたしたち全員の問題なんだということです。

 「障害」は個人にではなく「関係」に、そう人と人との関わりの中にあって、それゆえに誰もが他人事ではなく当事者なんだという確認から始めたい。まるで前提のように思われている既存の価値観を揺さぶることで「障害/健常」の垣根を無化しうるのは、まさに当事者であるわたしたちなんだというところから始めていきたいのです。それはわたしたち自身の足場が揺らぐことなんだけれども、けっして不安をもたらすのではなく、豊かさをもたらしてくれるんだという話を、今日はできたらいいなぁと思っています。

だから、だれでもどこでも揺さぶれるんですけれど、その手立てとして「アート」というものがあるんじゃないかと思っているんです。とっても不純で「そんなのアートじゃない」って言われそうだけれど、まぁ、そんなアート(?)なカプカプの日々の様子を見ていただきましょうか。

スライド(80枚くらいの写真を見ていただきました。その一部はカプカプホームページでご覧いただけますので、ぜひ!)

とにかく雑然というか混沌というか。一人ひとりが違うので、当たり前なんですけれど。とはいえ、それぞれが持つ何らかの差異がもとで「みんな違ってみんないい」ってお気楽に言い切れないシビアな現実がどっかりと横たわっている。

ではどうするか。

わたしの考えを述べる前に、福祉業界の現状をみてみましょう。数年前から「就労支援」という流れがかまびすしいんです。それはえてして既存の「労働」のカタチにいかに障害がある人たちを押し込んでいくか、矯正していくかという発想になってしまいます。素人目にも明らかなまでに失敗した経済の仕組みを性懲りもなくわたしたちが護持しようとしながら、その尺度の中でこぼれそうな人たちに鞭打って頑張らせている。

ちなみに、わたしは「頑張らない」ってのは、どうにも行き詰ってしまった人を救うためのひとつの一時避難場所のようなものだとは思いますが、「頑張る」こと自体が悪いとは思っていません。頑張った際に評価される価値基準があまりに狭くて貧しいことに問題があると思っています。それぞれが“思う存分に”自己を表現して、それをいろんな観点から認められ受け容れられる土壌を育てられなければ、避難せざるを得ないような状況は変わらないということです。社会が、世界が、変わらなければ、たとえどうにか避難できたとしても、息が詰まるような状況はいっときではなくて延々とつづいてしまう。それはやはりきついなあと思うのです。

つまり、「仕事」というものの捉え方自体を多様にしていかないと、障害がある人たちはいつまでたっても窮屈で不寛容な仕事の仕方しか許されず、「一般就労」の中での補欠のような扱いか、「福祉的就労」という二軍のような扱いを受ける、まさにスティグマ(烙印)を押されつづけなければならない。

現に、企業で上手く立ち回れなかった人たちが、精神科に通わねばならぬくらいに苦しい思いをしたり、「福祉的就労」へ移行する際に気の毒になるくらい落胆したりする様を、幾度となく目にしているんですが、過労死や仕事に追い込まれて自殺する人たちと通底した問題なんだと思います。

なので、窮屈な仕事の仕方を緩めていくためにスタッフはあれこれと考えるんです。「速く」「たくさん」「的確に」というのが美徳であると育ってしまったわたしたちには、なかなか価値転換が難しいのですが、それぞれの一生懸命を目指すわけで、そのために道具を工夫したり説明の仕方をあれこれ試したり工程を見直したりする。バイトさんたちにも「隙あらばメンバーの仕事にできないか」と考えるようにしてくださいと徹底するようにしていて、やりたいと思う人にいかにやってもらえるかという試行錯誤がつづく。でも、言うまでもなく、「ゆっくり」「ちょびっと」「雑」なのが良いってことでもないので、訓練的なものを全否定しているわけではありません。ただ、至るべきモデルがあって、しかもそれはあんまり幅のないモデルであって、それに向かって一様に努力するってのは気味が悪いなと、自分が働く場合にもですが、思うのです。

で、今までのは既存の仕事にいかに多様なアプローチをして緩めていけるかということでしたけれど、この先がカプカプの開き直りというか悪ふざけというかの部分で、はたらき方というものを組み替えてしまおうということなんですけれど、ご覧いただいたように高齢化がすさまじい、なにせ三人にひとりが高齢者という地域の団地の中にカプカプはあるので、じいさんばあさんが多数ご来店なさる。

で、喫茶店をやっているので飲んでいく人もあるし、トイレを借りていくだけの人も結構いる。近くのスーパーも飲食店もバリアだらけなので、もよおしたらうちに来ざるを得ないという感じですが、トイレの常連さんはたまにトイレットペーパーの差し入れをしてくれたりもするんです。飲んでいく人たちも、確かにコーヒー好きの方もあるけれど、なんだか人恋しくてという様子の人も多い。さっきのスライドの「旅の方ゆっくりどうぞ~」というウェイトレスもそうなんですけれど、こだわっている左利きの子どもの話をふっかけたり、自分のなくなった母親を重ねて話し込んだりするメンバーがいて、じいさんばあさんも会話を楽しみにしているようです。「愛してるよ~」というメンバーに照れちゃったりね。

だから、いつも言うことなんですが、はたらくというのは「傍が楽になる」ってことだと親父に言われたってのは、ホームページにも掲載してあるので、くわしくは話しませんけど、とにかく、周りの人に経済的な楽さだけではなくて、生きることにおける楽さ/豊かさを与えられる在り方、それがはたらくだとしたら、彼/女たちのはたらきは対価をもらってもいいだろうと思うんです。どんなにいい珈琲豆を使ったところで原価はたかが知れています。御代から原価を引いた分は、彼女や彼の“接客”という名のパフォーマンスに支払われているというのがカプカプの喫茶の考え方です。

既存の就労形態を疑い/問い直すことで「補欠」扱いが根拠のないことを示していく、と同時に部品組み立てとか生産価値ピラミッドの底辺を担うことくらいしかできないと思われている現在の福祉的就労という枠組みを揺さぶって、オルタナティブな(もうひとつの)働き方を模索していく。

楽さ/豊かさについてももう少し言及しておきます。

経済的な楽さではない“楽”というのは、「安楽の全体主義」で藤田省三さんの言っていたように、不快を排除したポジティヴな感情のみの「安楽」とはちがうもので、まさに心が満たされるような豊かな感情だと思うんですが、そこには多少の不快も含まれているんじゃないかということです。山あり谷ありだからこその喜びがあったり、つらく苦しいことがかけがえのない経験にもなったりするということはおわかりいただけると思います。ということはカプカプが創出しようとしている「はたらく」のかたちは、傍が楽になる、つまり周りを豊かにするというのは、周りを楽しくするということだけではないようです。

関わることで自分が自分であると思っていた枠が揺さぶられ、拡がるとでもいいましょうか。

そして、そのような関わりの機会を増やしていくことが、障害というものを組み直していくことにもなると思っています。だからこそ、大切なのはとにかく人と人を繋ぐということではないかと。人と人が出会い関わらねば快も不快もないわけですからね。

施設経営としてはえてして「問題行動」を起こす人を分けて、他のメンバーを護ろうとするんですけど、確かに本人にとっても周りにとってもクールダウンが必要な状況というのはあるのでしょうが、隔離や排除をせねばならない事態だからというのではなく、相性云々とか作業効率とかなんとかいうレベルで分離されてしまうことが多いような気がします。「先回りをして問題の芽を摘む」なんてのはよく語られそうですが、それは、かけがえのない機会まで台無しにしているのではないかと思うのです。

カプカプという場が持っている可能性は、利用している人たちそれから家族、地域の人たち、バイトや職員たち、だれひとりとして同じではない、差異をもった人たちをつなぎ/むすぶという場としての可能性です。つなぎ/むすぶことから開ける多様な豊かさの生まれる場所としての可能性です。

誰かを排除することで場を成り立たせるのではなくて、「場の度量」みたいなものがきっとあって、いろんな在り方を肯定していける豊かな場には、場自体が経験を積んでいき、その度量が増していき、「問題」と呼ばれるものも受け容れてしまえるような場所に育っていくのだと思います。疑心暗鬼に過剰防衛に「不可解なもの」を排除せずに、自分たちが培ってきた場所の力を信じてみてもいいんじゃないかと思うのです。

そんな風に、つまり、周りの人を楽しく豊かにするのがはたらくことなんじゃないかという風に考えているので、一部の「就労支援」の中で理不尽な思いをさせられる人たちがあることには憤りを覚えます。ですが、憤りのまま世に問うたところでダメなんじゃないかとも思います。

「みんな違ってみんなよくない」現状の中で不利益を被っているのは、狭義の「障害者」ではなく、わたしたちすべての人たちなんですから、今までのものではない働き方/生き方/在り方を示して、それで周りの人たちを魅了して巻き込んでいくしかないんじゃないか。

今までになかった価値観を差し出すような、そんな生きていくための技術のことを、アートと名乗ってもよいだろうと思っています。

つなぎ/むすぶということは、だれをも諦めないということでもあります。しかもそのような世界像で魅了するというのはアートの得意とするところではないでしょうか。

さっきも見ていただきましたけれど、いろんな創作活動もしているので、アートはメンバーそれぞれのなんだか判らないけれどすごい力を形にし、お金を稼ぐひとつの手段となっています。渡邊鮎彦さんはエイブルアートカンパニーの登録作家として数々の商品にデザインを採用されました。でも、それが唯一の正解とはもちろん考えていなくて、喫茶でのあらゆる接客や、バザーのやかましい店番なんかもアートだって思っているんです。いや、別にアートでなくてもいいんですけどね。

とにかく、いろんなかたちでお客さんに関わりを持つカプカプの人々がいて、あらゆる接客があるということを言いましたが、それはゴロゴロスペースと名付けられた一段高くなっている場所で寝っ転がっている星子(せいこ)さんというメンバーに会いに来るお客さんもいて、彼女も喫茶の接客をしているんだとカプカプでは考える。そこに存在することは言うまでもなく関わりの端緒です。で、彼女とは他のメンバーも当たり前ですが関わりがあって、全盲の彼女が立ち上がってふらふらと歩き出すと、一段高いところですからね、「おぉおぉ」と気に懸ける。ま、でも彼女は空間を感覚していて、知った場所では落っこちるなんてことはないんですが。で、「おぉおぉ」いう声を聞いた星子さんに察知された誰かは、彼女に近寄られくっつかれる。ベテランさんはいちいち動じることもなく傍らに居る。

鮎彦くんも星子さんがそばにいると寝ている背中をトントン叩いたりして彼女に「ガーガー」言われるのを喜んでいるのですが、彼が描いている絵ができたという場合、彼が描いている空間を、雰囲気を作っている人たちのはたらきも作品に反映されているんじゃないかとも思うのです。(ちなみに星子さんは、鮎彦くんよりも有名なメンバーです。なにせ『星子が居る』(世織書房)という本の題名になっているのですから。著者はお父さんである最首悟さんです。)

ここで勘違いしてほしくないのですが、わたしが言っているのは成果主義ではありません。もちろん鮎彦くんの表現が多くの人と繋がる機会は嬉しいことです。けれど、彼も売れる絵を描けるから価値があるわけではない。そして、絵を描かない人たちの多様な在り方が、作品に実を結ぶから価値があると言っているのでもない。

「生産」に反映されるからゆえにではなくて、関わりの中で周りの人をさまざまに豊かにするような存在というもの自体に、何が何でも、断固として価値があるのだということを言っているのです。

最初の方で言った既存の価値観を揺さぶれるというのは、つまり、どんな命でも肯定できるように多様な価値を模索するということとも繋がります。そしてそれは、誰でもどこでもできるとも言いましたが、どこか「障害福祉の現場」みたいな所がホットな場所だと限定することで、闘えない/闘わない言い訳にするのではなく、それぞれの存在するところが常に闘いの場所なんだと腹を括るしかないのだ、という意味です。

障害と健常をいたずらに二分しないということも連なっていて、分けることによって自分とは関係のない、どこかの誰かの問題とするのではなく、まぎれもなくわたしの問題であるのだということを確認するところから、わたしたちの闘いを、ようやく始めることができるのだ、と考えています。

それは、わたしたち誰しもがかけがえのない存在であることを、証明する闘いなのだと思います。

~これは2011年3月2日にアーツ千代田3331で開催されたセミナー「臨床するアート」第3回の際に用いた読み原稿を、加筆修正したものです。~ 

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