ハイバイのゆかいなたくらみ

ハイバイは2003年に『ヒッキー・カンクーントルネード』でのろしを上げた。主宰の岩井秀人が自身の引きこもり時代を描き、昨年で6回目の再演で全国を回ったまさしく代表作である。身を切るかのように見える劇作だが、岩井は、不幸ネタを披瀝して可哀想がってほしいのではないし、自分の傷を癒そうとしているのでもない。ましてや「生まれ変わろうぜ、そこのキミも!」と悩める若者あたりにエールを送っているのでもない。ハイバイはそんなにやわなものではない。きわめてやっかいな連中なのだ。

わたしには、そんな執拗なまでの『ヒッキー』の再演は、外の世界に無言ながらも異を唱えていた、かつての自分を切り捨てないための手立てのように思えてならない。あの日の自分のことを否定しなくてよいように、“世界”の方をハイバイは揺さぶってきたのではないか。世界を多様で寛容なものに変えるために。自己完結した癒しでもなく他人事のような応援でもなく、それはすべての人のための、なんとも切実で根本的で徹底的な、まさに革命なんじゃないか?

その上、ハイバイはそれを笑いや涙に包んで巧みに遂行している。彼らは『ヒッキー』以降の作品でも、生きていくことにまつわる残念なことや理不尽に思える状況をあえて取り上げてきた。ほとんどの登場人物がどこかしらおかしいというか過剰で、そんなヤツらが逃げ場所もなくぶつからざるを得ない状況に追い込まれ、パニックにも似た突き抜けかたをする様子は、バカバカしいほど滑稽なのだが、なぜか気づくと泣かされていたりする。そして、観客は知らずしらずのうちに不可解な他者のことがすこし想像できるようになり、そこからあらゆる他者と関係を結べる可能性がうっすらと見えてくる。はたまた、その前に屈するしかなく思えていた「運命」とやらの意外な一面を見せつけられて、やみくもに畏れることもなくなっていたりする。唯一の在り方しかないと感じられていた世界の像がぶれて見えてきて、そこに「すき間」が立ち現れる。

あぁ、そういうのもアリだよねという「価値の転回」をもたらす表現は、緩やかに世界を変える。そして、既存の尺度の中で行き詰ってしまった者への慰めにとどまることなく、あらたな関係の中で生きていける余地をも差し出すことができるのではないか。政治やイデオロギー闘争などと比すると、それはまことにかすかな営みなのだが、わたしはこういう地道でささやかな価値観の揺さぶりによって波を起こしていくことにしか、わたしたちの生き難さをほどく可能性は残されていないと思っている。

劇場を出て景色がすこし変わっていたとしたら、それはまんまとハイバイのすてきな罠にはまった証拠である。だれもが居てもいいんじゃないかと思えるような世の中に向かって、やさしい革命集団、ハイバイの愉快な世界転覆計画はまだまだつづいてゆくのである。(2011年1月19日~2月20日、『投げられやすい石』全国6都市ツアー、当日パンフレットに寄稿)

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