「ワンダフルライフ」評

20代の半ば、どこに出すあてもなく書いていた時期がある。劇場にも行かれない夏期休暇、あまりに暇なのでそれを覗いてみたら、今と同じようなことを書いている。しかも勝手に連載形式で……でもこれは書き上げたいな。そのためにも、映画をまた観はじめるか。

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前回取り上げた『フェノミナン』のラスト近くに、温もりを帯びた印象的なシーンがある。死を目の前にしたジョージが子供たちとリンゴを食べるシーンだ。
ジョージは言う。
「もしも、このリンゴを落として放っておけば、腐っていつか消えていく。でも僕らがかじれば、僕らの一部になる、思い出として永遠に……」
このシーンと共に感動的なのは病院のジョージ を見舞ったレイスが
「僕が死ぬまで愛してくれるかい」という彼の問いかけに
「いいえ。私が死ぬまでずっとよ」と答えるシーンだ。
どちらも先立つジョージが、それでもレイスやアルやグローリーの記憶の中で生き続けるということを示している。
だれかの記憶に残るということは、死別という断絶を乗り越えるために、とても効力を持つように思われがちだ。だが、それは完璧無比なる「正解」なのだろうか。
もちろんすでに記したように、『フェノミナン』の中で提示された断絶の越え方は「記憶」にのみ依拠したわけではなく、その先を予感させるに十分な作品であるが。

そこで今回は、他者の記憶に残らないことも断絶ではないという、一見して語義矛盾を思わせるようなテーマを、是枝裕和の『ワンダフルライフ』のなかのある登場人物を取り上げつつ考察し、「記憶」の呪縛から解き放たれる道を探りたい。

その前に前々回に論じた『イル・ポスティーノ』の1シーンをもとに、ひとつの問いを投げかけよう。
マルコが命を落とすあの集会で、彼が読み上げることになっていたパブロに捧げる詩は、混乱する群衆の中に塵と消える。
執着心の強い私は、それがどんな詩であったのかとても気にかかるのだが、もはや誰であってもその詩を読むことはできない。
けれどもそれは、単なる虚しさを呼び起こすだけなのだろうか?

 是枝裕和が『ワンダフルライフ』のなかで描いたのは、誰もが死んだ後で「あちらの世界」へ行く前に立ち寄る施設での、とある月曜日から次の月曜日までの出来事である。
誰もがそこで自らの人生の中で最も印象に残った大切な記憶をひとつだけ選ぶ。そしてその瞬間のみを携えて旅立つのだという。
 「ひとつだけ」というのが観る者の気持ちを揺さぶる。たったひとつの永続する記憶。つまりそれ以外の記憶は一切残らないということに他ならず、その問いかけに「自分ならば...」と考えた者は少なくないだろう。
 果たして、作品の中でも記憶を選べない渡辺一朗という老人が登場する。
「生きた証」が判るような記憶を選びたいという彼の要望に応じて、施設の職員望月は彼の生涯を記録した膨大なテープを取り寄せる。渡辺はビデオで自らの一生を振り返っていく。(註1
 彼は戦後の高度成長を支えたごくありふれた企業戦士で、見合いで結婚した妻との平凡な日々がそこに映し出される。
 自らの人生に大きな不満があるわけではないが、若い頃に望んだ「生きた証」を残すというような人生ではなかったと、さらに悩みを募らせてしまう。なかなか記憶を選べない渡辺に対して望月は、若くして死んだために青年の風体であるが本当はあなたと同世代なのだと明かし、自分たちの世代の多くがそんな人生を過ごしたのではないかと話しかける。
結局渡辺は、定年後に妻と出かけ映画を観た後の昼下がりの公園で、子供もいない二人だけのこれからの生活を想っている場面の記憶を選ぶ。
彼が立ち去った後の部屋に残された手紙を読んだ望月は、自分がかつて渡辺の妻京子の許婚(いいなづけ)であったことを彼に覚(さと)られていたのだと知る。そしてその上で、渡辺が望月との出会いをとおして、亡き許婚である望月のことを想い続けていた京子への複雑な感情を乗り越え、夫婦で培った時間を肯定できたからこそ、彼女とのシーンを選ぶことができたのだと手紙により伝えられる。
芝居でも映画でもできるだけ観賞前には細かい情報は得ないようにしているのだが、『ワンダフルライフ』の設定はたまたま耳にしてしまい、正直言うと、この辺が落としどころなのではないかと勝手に想像していた。
私たち多くの凡庸なる人間はより意味のある記憶を選ぼうとするも、つまるところ、日常の他愛もない記憶を選ぶのだろうし、歴史的/社会的に価値のある事柄でないとしてもそれはかけがえのないものだ
そんな辺りまでの。
京子が一朗の選んだような二人の日常の一場面を選んでいれば予想の範囲に収まったのであるが、すでに亡くなっていた彼女が選んだのが、出征直前の望月との思い出であったことが明るみになり、この作品は更なる深遠へと私たちを導いていく。

死生観によっても異なるだろうが、死ねば未生の闇に帰すと考えるようなひとつの極をなす思考に対してさえ、記憶というものによって生者との断絶は超越を図れるといえなくもない。
だが、そこにはどうしてもひとつの壁が立ちはだかる。それは、わたしのことを自らの死後も憶えていてくれるはずの誰かもいずれいなくなるということである。(註2
この作品では「永続する記憶」という仕掛けでその壁を越えていくように見えがちである。誰かの記憶の中に永遠に残るという形での。
ただし、この仕掛けにはもうひとつ付帯条件があることを忘れてはならない。「たったひとつの」という。
そう、「たったひとつの永続する記憶」である。
それは「お互いの記憶をずぅーっと持ち続けられるね」などという観賞後の恋人たちの束の間の戯言に「唯一無二性」を加えてより甘みを増す効果もあるかもしれぬが、そんなものを目論んだ演出なのだろうか?
京子が望月との思い出を選んだくだりで生じる戸惑いは、「たったひとつの」という制限に由来している。望月は京子に選ばれ、京子は一朗に選ばれたのだが、一朗との記憶を選んだ者は描かれてはおらず、彼のことをずっと憶えている人はきっと誰ひとりいなくなってしまうのではないかということによる戸惑いである。
そうすると、「たったひとつの永続する記憶」という装置は、選ばれない存在にとっては、絶対的な虚無しか与えないということにはならないのか?

結婚してからも望月の命日には墓参を欠かさなかったという京子。彼女から想われつづけていたことを知って意を決した望月が選んだのは、京子との記憶ではなく施設で過ごした記憶を“特例”として選ぶ。それはもちろん一朗との個別具体的な時間ではないのだが、望月は「自分も他人の幸せに参加している」ことに気づき歩を進められたのであるのだから、一朗も含む膨大な人々との出会いや別れのときが望月の背中を押したのだ、といえまいか。(註3
愛し愛されることが形に残る〈結果〉のみ重んじられるものではないように、人生そのものも一朗が探したような確固とした「生きた証」となるような記憶が選び取れるようなものではないはずだ。私たちがすごしている時間は、印象の薄い、いや記憶にも残っていないような数限りない他者とのかかわりに彩られているからこそ、豊かに美しいのだろう。
唯一の記憶を選びそれのみが永続するという仕掛けは、だれにも選ばれない渡辺一朗という存在によって、より鮮明に是枝に担わされた装置としての本性を現すのではなかろうか。選からもれるその他すべての記憶の、いかに切要であるかを証明するという役割を。
だから、それは記憶されない(もうすでに何人(なんびと)にも記憶されていない)無数の人間/無限の事象に絶対的虚無を差し出すのでは断じてなく、誰にも記憶されていない人たちや事柄にわたしたちが想いを廻らせる契機こそを秘めている。この是枝の企ては、森羅万象遍く存在に対する絶対的な肯定を頑なに要請している。
たったひとつの記憶を選ぶという揺さぶりが照らし出すのは、誰かの唯一の記憶となることによる「救い」ではなくて、誰しもが多くの人々の関係の網の目の結束点のような現れであるという喜びに違いない。永遠に続く記憶ではなく、かけがえのない現象である/あったことの喜びだ。
私たちがすごしている時間がだれかとのかかわりによって彩られているのであれば、たとえ相手も自分も忘れ去ろうが気づかなかろうが、私たちもまた、だれかの人生を豊かに美しくするようなかかわりを、日々織り成しているのだともいえる。別段そうしなくても良いにもかかわらず、それでもそうであったとしたら、最後には何にもなくなってしまう私たちだとしても、そんな生に感謝を見出せないだろうか。

ここでふたたび問おう。もう誰もあのマルコの詩を読むことは能わないのだが、それは単に虚しいことなのであろうか?

いや、私たちは知っているはずだ。そこに記されているのが類い希なる美しい詩であることを。私たちは知っているはずだ、その存立を支えている愛について。マルコという人間がパブロ・ネルーダやベアトリーチェ・ロッソや彼女との子供や、さらにはその他諸々周りの人々、世界のすべてへ惜しみなく注ごうとしていた愛について。そしてそれが、私たちの誰もが必ず持っているはずの、この世界に遍在するに違いない愛というものであることを。
マルコの詩が、形として残らず、たとえ記憶されなかったとしても。

(註1 この設定はとてもユニークで、記録と記憶が同じものではないということを示している。記憶=記録であるのならば、みんながそのようなテープを見直して選べばいいのだが、そのような運びにはならない。選んだ記憶の再現VTRを作り、それを観ながら記憶が鮮明になったときに旅立つ。ということは、客観的に厳密な記録ではなく、その者がいかに記憶しているかということにより意義をみているということだ。仮にその記憶が「正しく」はないものであったとしても。
 この辺りのテーマは、現実と虚構の狭間から浮かび上がる「真実」というものを描き続けているイランの映画作家アッバス・キアロスタミやモフセン・マフマルバフの作品に通じるものがある。
(註2 ごく一部の「偉人」を除き、私たちのほとんどがわずかに痕跡を残せるかどうかという一生をすごす。当たり前のことだが、私たちの引っかき傷のような足跡などすぐに風化してしまうだろう。のみならず、どんな「偉人」のいかなる「歴史的偉業」であろうが、いわゆる“宇宙の死”を待つまでもなく消え去る宿命であるのは、避けようもない事実だ。まさにこのことを主題とし、その乗り越え方のひとつを論じた真木悠介の『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)は示唆に富んだ書物であるが、本稿の射程を越えるため、ここでは言及しない。
(註3 岡真理の『記憶/物語』(岩波書店、2000年)では、望月がようやく記憶を選んだことに関しての批判が展開されている。是枝は岡の批判に応答したようだが、残念ながら私はその文章を入手できていないため内容についてわからない。ただ、岡は『ワンダフルライフ』の中で望月が出征前に婚約者と共にいた時間を選んだのだという、あまりにひどい誤読をしていて、『記憶/物語』は版を重ねているにもかかわらずに訂正もされていないところを見ると、是枝と岡の間にしっかりとした対話があったとは思えない。

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