チェルフィッチュ「三月の5日間」評

  ちょうど今、神奈川芸術劇場でリクリエーション版として上演されている「三月の5日間」。2006年にSuperDeluxeでの再演を観て、初めて書いた劇評をそのまま掲載する。小劇場レビューマガジン「ワンダーランド」の北嶋孝さんに声をかけてもらい劇評を載せたのが2008年のことだから、それより一年ちょっと前のこと。
 そもそもこんなものを掘り起こしたのは、今回のリクリエーション版で自分があまり揺さぶられることのなかったのはどういうことなのか、考えるためであった。で、かつての上演とリクリエーション版の違いについて考えたい人には記録としては意味もあるかなと、お蔵入りさせておくのは忍びないと載せることにした。
 かなり気負いのある、それでいてほとんど観劇もしたことがなかったので薄っぺらくて自分でもよく判らない部分もある劇評だけれど、これくらいの筆力でも10年くらい150~250本の舞台を観ながら書きつづけていると、たまに仕事をもらえる演劇ライターにはなれるもんだという、物書きになりたい若者へのわたしなりのエールでもある。

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 ポストモダン思想の提灯持ちであった軽薄な「知識人」たちによって、絶対的価値がいたずらに否定され、多様であることがもてはやされる風潮の中で、ある価値を説教くさく押し付けるような啓蒙的芝居は疎んじられ、いかようにも解釈できるような曖昧な表現が溢れている。
 絶対的な価値を声高に主張し押し付けるような表現が素晴らしいとは全く思わないのだが、単に「なんでもあり」というものでは、「なんでもない」ということの鏡像に過ぎず、それに替わるものにはなりえないだろう。
 現代における表現とは、自分の足場を確かなものとせず、もっと言えば自分の存在や思想を確定する/されることを拒み、宙ぶらりんの場所からなされる他はないようにも思われる。
 岡田利規の『三月の5日間』は、そのような表現と呼ぶにふさわしい数少ないもののうちで、演劇という形態をとっているさらに稀少な作品のひとつである。この期に及んでの、表現に残された可能性を彼に導かれて綴ってみたいと思う。

 彼の操る言葉は「超リアル日本語」といわれるが、演劇界の「リアル」を牽引して来た平田オリザ・岩松了・宮沢章夫などの「静かな演劇」を意識しての命名であるとすれば、彼の演劇はさしずめ「ポスト静かな演劇」とでも言えばよいだろうか。そう、腹式呼吸で大仰な話法を用いる従来の演劇の単なるアンチテーゼなのではないかとすら見えた、初期の平田作品における日常の会話のごとき遣り取りにも通じる話法で役者は語るのだが、それは「ミノベって男の話なんですけど」という形式だったり、ときおり当人を演じているようでもあり、次第にほんとうは誰が誰なのだか、伝聞なのか、いややはり独白かもしれない、と観る者は確信を持てなくなっていく。話法は日常会話のようではあるが、延々と続く伝聞調や過剰な繰り返しは、明らかに意図的な不自然さを纏っている。「超リアル」とは「すごくリアル」ということではなくて、リアルを超えるものであるというのは言うまでもないが、それは「日本語」にではなく「リアリズム」という手法に掛かるべきで、岡田の「ポスト静かな演劇」は《超リアリズム》もしくは《リアリズムのオルタナティヴ》を表す演劇なのだといいたい。
 読点を多用してだらだらと連なりなかなか句点を打たない保坂和志の文章に似ているものの、一応一文内の主述や呼応は破綻していない彼の文体とは異なり、おんなじことを繰りかえしたり言い換えたりしつつ、ダビングによって膨らませていく音楽さながら、観る者の内へと表現を静かに堆積させていく。
 岡田がリアリズムそのものを志向しているのではなく、それのオルタナティヴを目論んでいると感じさせるのには、前述の「発話の形態と話法との間のズレ」だけでなく、身体の動きも重要な役割を果たしている。山の手事情社の安田雅弘が試みている「四畳半」のように様式の確立を目標としていないため、それぞれの役者がかなりバラバラの各々のかたちを持っているのだが、不自然な身体の動きを伴いつつ、自然な語り口を装って不自然な言い換えや繰り言をするとでもいおうか。
 「○○の場面をやります」とか「○○なんですけど」という語り口や、ミニマルなダンスのような不自然な所作は、観る者に違和感をもたらし、劇世界への没頭を許さない。観客は日常と非日常との侵蝕しあう不安定なところに止め置かれる。いや、そもそも観客という特権的な立場を奪われてしまっていると言ってもよい。
 そのようにして、役者や観客にも不自然で宙ぶらりんな状況を与える岡田は、物語自体にも完結するような安定を与えることはない。
 イラク空爆が始まる直前からの5日間を渋谷のラブホテルで過ごすミノベとユッキー、二人が出会うきっかけとなったライヴにミノベを連れてきたアズマ、彼がハンドルネーム・ミッフィーちゃんとそのライヴで再会したかもしれなかったことを後日話して聞かせた友人のスズキ。それから、ミノベもユッキーも遭遇しているデモに参加していたヤスイとイシハラ。マツキヨでコンドームを買っていたミノベたちと「超立体」マスクを買いに来たヤスイはすれ違っていたかもしれないし、そんな風に登場人物たちは緩やかにつながっている。けれども、野田秀樹の戯曲のように、点在する人々や物語の断片がラストに向かって収斂していくなんてことは全くなく、となり合うホテルの部屋の三組の人々の様子を表した作品と同時刻の離れた五つの都市を走るタクシーの車内を描いた作品で、映画監督として揺るぎない評価を得たジム・ジャームッシュを想起させる。
 物語を力業で収斂させるような方法での判りやすい結末が提示されないことから、ジャームッシュ作品さながらに観る者にはカタルシスはもたらされないのだが、なかでも「休憩の前にスズキくんの話をするって言って休憩に十分(じゅっぷん)入ったと思うんですけど、(中略)これからもうすぐやっとスズキくんの話にいけるかなっていう感じなんで、っていうのを今からやります。」というような度重なる予告を反故にして、結局スズキの話は語られないというのが、とりわけ見事な仕掛である。あたかも、物語世界が閉じてしまわないように穿たれた穴のようだ。
 あらゆる手を使い、執拗に試みられる揺さぶりかけは、自らの表現を非日常の一コマとして消費されることの決してないようにとの、岡田の想いの切実な表れに思えてならない。
 それにしても、そこまでして紡がれる物語が「やりまくり」の話ではないかという向きもあるかもしれない。たしかに、互いの連絡先どころか名前さえも知らないまま、二人は男の性器が擦り切れんばかりにホテルで交わりを重ね、その上で女に対して男は「これからもそしていつまでも、みたいなの、やりたい?とか思わないでしょ俺と」なんてことを言い放つ。さらに、自分たちが選ぶであろう関係の仕方に比して「いつまでも系」のランクが上なんてことは絶対ないじゃない?とも言うのだが、その論理展開は刹那的享楽を求め生きる者の自己弁護のように聞こえさえするかもしれない。
 モーレツに勉強してエリートになるというかつての輝かしい選択肢もなんだか怪しいものとなり、かといってなにかのために、たとえば劇中に示されるようなイスラエルに殺されたパレスチナ(原文はアラブ)の子供たちの写真をディズニーストアに買い物に来ている子供とその親に見せ付けるような「えぐい」反戦運動などに身を投じるなんてことは馬鹿馬鹿しく、宗教団体に入って「絶対的真理」を追究するほどストイックでもなく、こんな感覚で生きている若者は実際に増える一方なのかもしれず、この辺を捉えてこの作品が現代を表しているという評価も少なくはない。
 しかし、ミノベはこのとき、単に「いつまでも系」が上でないと言い放つと同時に、そう思えたならば戦争なんか始まらないとも思っていたのである。
かなり乱暴にその想いを換言すると、突き詰めると人殺しをするような生き方であるならば、どんな立派な信念を抱いていても肯定できないということだ。「○○だったらいいな」という理想が「○○でなくてはならない」という「教義」や「真理」の類へと変奏されていったときに、そうでない/相容れない存在を排除するのであれば「いつまでも系」は無価値だということでもある。何かに拘泥しないというのはシラケともいえるが、絶対的真理を欲せず、自我にさえ固執しないというような方向へと進む入り口となるのであれば、「いつまでも系」でなくまさにこのように宙ぶらりんでいるというオルタナティヴな在り方の可能性が、他になすすべもなくやりまくる二人の遣る瀬無さの先にほのかに立ち現れるのではなかろうか。
 自我を揺さぶるという点においては、数人の登場人物を役者が入れ替わりながら演ずるという空間再生事業の山田恵理香の演出(サム・シェパードの『埋められた子供』)のように、ミノベやユッキーを複数の役者が演じているとか、ヤスイのことを語っ/演じていた役者が次第にアメリカ大使館付近の住民へと転じていくなどという企てがなされるが、ユッキーが一人になった渋谷で、野糞するホームレスを犬と見間違え嘔吐するというくだりは、「僕、メガネかけてて目が悪いんですけど、だからかな?ってのもあるんですけど、」とメガネをかけた男優の口から一人称で語られている。
 この「見間違い」は戦争などの異常事態が他者を人間と考えなくさせるということの暗喩にはとどまらず、現代そのものが他者を人間とは看取させなくする性質を孕んでいることを表している。もちろん、この「人間」にはユッキー本人も含まれているのだから、彼女は人間を犬と見間違えたことに衝撃したと同時に自らもそう見做されうることに意識下であっても戦慄せざるを得ず、その様を観るわたしたちにも、彼女に生じた感情は伝播してくる。メガネをかけていた彼が一瞬自らのこととしてこのことを語ったことは、その感情を彼女ひとりの主観にとどまらせるのではなく、普遍的な方へ向かわせる推力となり、それゆえ、この作品自体を「反戦」というテーマを扱っているのだと評価するのでは不十分で、競争原理や他者消費という現代の病巣の根源的な問題を、ひいてはカルマや業と名指される人間の本質に関わる問いをも突きつけるところまで、岡田利規/チェルフィッチュの試みは射程となしえていると思うのだ。
 そして、岡田のさまざまな揺さぶりに対しても耐性ができてきたころ、最後の仕掛が用意されている。さっきのメガネの彼が「三月の5日間の最後の朝に銀行で男が金おろして、っていう、女のコがそれを待っているっていうのを今からやって、それで『三月の5日間』を終わりにします。」というと暗転し、明転するとそれまでラフな格好をしていた女は三月の朝に似合うような厚手の「衣装」を身に着け、バッグをさげて立っている。そこに男が登場し女に金を手渡し二人は退場する。その間わずか十数秒。「はい」「はーい」「じゃあ・・・・・・って、駅まで一緒か」クネクネすることもなく奇妙な言い回しも使わず、ここで初めて演者たちはいわゆる「リアルな演技」をする。会場から一歩外に踏み出せばそこここで見かける光景。観る者は虚をつかれる。日常と非日常の境界を揺さぶられるのみならず、この作品は「自然な語り口を装って不自然な言い換えや繰り言をさせる演出」というひとつの定型により作られているのだと納得しかけたところで、頑なに分類・整理されることを拒むかのごとき最後の仕掛けによって、『三月の5日間』という表現は、さまざまな違和感とともに観た者の中に宙ぶらりんと在り続けざるをえなくなる。
 作中の若者たちの言動や想いを追体験することで現代が見えてくるというのではなく、宙ぶらりんにされたわたしたちが感覚知覚することになるのが、岡田利規が感じ取っている現実世界なのだ。カタルシスも得られず、かといって陶酔できるほどに明快な罪悪感も与えられないが、それでも生きて行って良いのではないかと思える希望は、かすかにではあるものの、そこからしか見えないはずだ。

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