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耳物語 1. 【ショートショート】

生まれたての朝の光が
ベッドの上に差し込む頃、
僕は彼女の耳の形を指でそっとなぞっていた。
立ち上がる外側のふちのカーブは、
夜明けの静かな湾。
耳たぶにあるぷつりとしたピアスホールは、
僕をこの場所にとどめる錨だった。

神の彫刻みたいな耳の
透明なうぶ毛の連なりを無心で撫でていると、
彼女の暗い耳の穴の中で
何かがざわざわと波打っているのが見えた。
何だろう。
もっとよく見てみてみようと
僕は彼女のからだにぴったりと寄り添い、
耳に顔を近づけた。


ちゃぷん。


水の音がする。

みるみるうちに
耳の穴から青い海が迫り上がってきて、
ざざあ、と溢れ出した。
そしてその後に
小さな小さな人魚が跳ねた。


人魚は耳の縁に腰掛けると、
濡れた長い髪を右肩に垂らしてぎゅっと絞った。
海水に浸る下半身の
青碧色の鱗がぎらりと翻った。



「知らない方が幸せなことって
いろいろあるけど、あなたはどう思う?
知りたい?」

人魚は僕を上目遣いに見ながら言った。

「なんの話?」

驚く僕を
人魚はサファイアの瞳でじっくり見つめてきた。

僕の返事など端から気にする風もなく、
人魚は鱗で覆われた下半身の
腰骨の辺りに手を入れて、
中から煙草を取り出した。
小さな小さな煙草だ。
白い肌と鱗の境い目が
ポケット仕様になっているなんて、
全然知らなかった。
人魚のくちびるから吐き出された紫色の煙が
渦を巻いて漂った。


「今夜、このヒトは
ほかの男とドライブに行くわよ。
昨日電話で話してるのを聞いたの。
私はこのヒトの耳の中に棲んでいるから、
全部知ってるわ」

彼女の耳の海の中に
人魚は煙草の灰を落とした。

「ねえ。わたしと一緒に
耳の中に潜りに行かない?
ネオンみたいにぴかぴか光る魚とか
たくさんいるのよ」

「僕は生憎、泳げないんだ。
子供の頃に近くの沢で溺れて以来、
水が怖くてね」

「そう」

人魚は横を向いて
つまらなそうに煙を吐き出すと、
やわらかな耳の縁に
煙草を押しつけて火を消した。

「そろそろ彼女が起きるから、
きみは帰った方がいいんじゃない?」

人魚は口を半開きにして
しばらく僕を見ていたけれど、
やがてため息をつくと

「鈍感な奴」

と言葉を残して耳の中の海に飛び込んだ。
凪いだ水面に白い波の泡が立ち、
人魚の髪が水の中で海藻のように広がった。
人魚は尾ひれで一度大きく水面を叩くと、
耳の穴の深みを目指して潜っていった。
小さな小さな水飛沫が
僕の顔にぴしゃりとかかった。

彼女が目を醒ました。
睫毛を二度しばたたいて大きく伸びをした。
体を起こして僕に尋ねる。

「いま、何時?」

けだるくぽわぁっとあくびをすると、
彼女は言った。

「これからドライブに行かない?
買い物したいな。新しいピアスがほしいの」

彼女がドライブに行く約束をしていたのは
僕だったのだろうか。
それとも人魚が言ったように
他の男、なのだろうか。
他の男との約束が反故になったから、
代わりに僕を誘っているのだろうか。
曖昧な記憶の中を
青碧色の人魚が横切って泳いでいった。


「貝がらのかたちのピアスにしようかな」


彼女は鏡の前で髪をたくしあげ、
自分の耳を見た。
小さな小さな煙草の火傷跡があるけれど、
彼女はきっとそれを
ほくろだと思っているのだろう。
彼女を失いたくない僕は
貝殻のピアスを買うために車を出す。
ピアスはやっぱり僕にとって
錨のようなものなのだ。

fin.

初回のボディパーツは『耳』

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文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。