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脳よ、静かに眠れ。

本屋には今日もたくさんの本が並んでいた。
著者別の棚から平台までぎっしりと。
本の顔を眺めながら彷徨っていると、
ふと、視線を感じた気がした。


私はたくさんの脳に囲まれていた。
ここには書いた人の脳みそが
並んでいるようなものなのだ。
誰かが夜通し頭のなかで考えたものが
目に見える文章となり、
本となってここにある。
そのことに少し畏れを感じたのだった。
こんなにもたくさんの書き手がいて、
その脳が読み手との出会いの瞬間を
じっと待っているのだ。


特に目指す本があるわけではなくても、
私は本屋に行く。
それは
「なにかないかな」
と、本との出会いを期待しているからだ。
背表紙のタイトルや表紙の美しさ、
見返しのあらすじ。
それらを見て、
自分の中に新たな種を蒔いてくれるものを
探している。

泣きたいのか
笑いたいのか
揺れたいのか
知りたいのか

今の自分が求めるものと
他の誰かの脳が共鳴する時、
その本の背表紙はとても光って見えて、
私は手を伸ばす。
あなたが欲しいもの、ここにあるよ。
本は静かにそうアピールしてくるのだった。



なかには誰にも手に取られない本もある。
広い店内に無数にある本の中には、
いつからここにあるのだろうと思うような
忘れられた脳(本)もあるのだろう。
(ある程度の時期がきたら返されたりするのだろうか。その辺りの本屋のシステムはわからない)
ひっそりと辛抱強く待機していた本は、
今日も誰にも出会えなかったことに
失望しているのかもしれない。
それでも本は毎日どこかで生まれ
次々と本屋にやってくる。



誰にも手に取られない本がある一方で、
本のかたちを持たなくても
受け継がれる物語もある。
古典的な物語などはそうだ。
たとえば竹取物語や一寸法師、
おやゆび姫や幸福な王子。
本を持っていなくても大抵の人は
内容を知っている。
大昔のものなのに
現代の皆が知っているなんて!
紙の本自体は何度も生まれ変わっても、
人々は物語を忘れない。
それは物語の究極の姿で、
うらやましいほど幸せなことだ。
いつまでも心に棲み続ける究極の一文が、
そこにひとつでもあればいい。
それが自分の底に根を張って
心身を支えてくれることだろう。

書いた人の脳を取り込んで、
私のなかにその人を飼う。
私という物語と
何人もの作者の思いが混ざり合い、
人生の色は豊かになってゆく。
体験していないことを味わい、
知らなかった感情を得た時、
そこに新しい自分をみつけることになる。

もう一度、本屋の棚をぐるりと見回す。
たくさんの本、たくさんの脳が、
読んでほしいと声なき声で呟いている。
ふらふらと本屋にやってきた人が
手に取り目を通すまで、
ひんやりした棚の上で
騒がしく静かに、
通り過ぎようとする人を呼んでいる。








文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。