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おいでよ記憶の中の森へ。

本降りだけれど大人しい雨の日には、
頭の中で音楽が鳴っている。
昔遊んだ場所で聴いたメロディ。



今日はゲームの話。

私はゲームをしない。
それは今も昔も変わらない。
でもひとつだけ
長く親しんだものがあったのだった。
《おいでよどうぶつの森》
あれは何年前のことだろうか。
ずいぶん流行った記憶がある。
ニンテンドーDS。

このゲームはきっと向いてると思うよ。
やってみてよ。
従姉妹に渡されたゲーム機を見ても
私は半信半疑だった。
けれどもいざやってみると、
ほっこりゆったりしていて
なかなか楽しいものだった。

ゲームの中で雨が降る日は、
雨の日のサウンドが流れるのだった。
私はそれがとても好きだった。
雨の日を嫌いじゃなくなる音の魔法があった。
画面の中の住民たちは
色とりどりの傘をさして歩き回り、
誰ひとり雨を憂いたりしていなかった。

雨の日は雨を楽しめばいい。

チャイムのような、
ビブラフォンのようなサウンドは、
雨の日を素敵な一日に変えてくれた。
ゲームの中の私は
馬だったり羊だったりカエルだったりする
ともだちの家へ、
傘をさして遊びに行ったりした。
好きな家具や壁紙を買い、
お気に入りの部屋を模様替えして
過ごしたりもした。
その部屋へネコのともだちを招くと

『いい部屋だね!
アンタにしては、なかなかやるじゃん!』

などと、気の利いたことを
言ってくれたりした。

《おいでよどうぶつの森》の
すれ違い通信という機能も
トキメクものだった。
名前も知らない誰かと、
いつのまにかメッセージを交換しているという
機能、
まだSNSに触れてもいなかった私は、
その楽しさにもハマった。
誰かとメッセージを交換できていると、
画面を開いた時に
波打ち際にメッセージボトルが浮かんでいる。
その設定もいい。
メッセージボトルは浪漫だ。


あけてみると中には手紙が入っていた。

『今日も暑いね!体に気をつけてね』

などというちょっとした内容ながら、
私はいたく感動して、はしゃいだ。
悪い言葉や個人情報が書かれていたことなど、
一度もなかった。
そんなわけで私も、
受け取った人が
にっこりするようなメッセージを書いては
メッセージボトルに詰め、
ゲームの海へと流した。

たとえば

『今日から1週間後にうれしいことがあるよ!』
『明日はきっとラッキーな日になるよ。』
『あなたの優しさを誰かが見ていてくれるよ』

いつどこで誰に渡るかもわからないメッセージを
忍ばせて、現実の街を歩いた。
そわそわとわくわくが入り混じる道行きだった。
私の言葉を
誰かが受け取ってくれることを想像するのは、
とても楽しいことだった。
あれを読んで、
笑顔になってくれた人は
いたのだろうか。


しかしながら
時代も人も飽きるのは早い。
潮がさぁっと引くように、
このゲームが人々の中から忘れられていくと、
すれ違い通信をやる人も居なくなってしまった。

画面を開いても

『まだ誰ともすれ違ってないよ。やめる?』

というさびしい言葉。
これには本当にがっかりしたものだ。
私のメッセージボトルは、
ゲームの中の海を永遠に漂うのだった。
どこの砂浜にも辿り着かずに。
哀しい。

そして私の中でも
《おいでよどうぶつの森》ブームは去り、
ゲームをしない生活が戻ってきた。
現実を生きるのに精一杯な毎日を
過ごすようになった。


それでも
今日のような雨の日には、
あのサウンドとともに、
楽しかった記憶として
私の森での暮らしをそっと思い出すのだ。
今でも雨音に混じって、
メロディが聴こえてくるから、
音の記憶というのは
不思議で深いものだなと思う。


文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。