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金木犀の咲く庭で。

雨ざらしの玄関の扉は、
板が剥がれてめくれ上がっていた。
西側の窓硝子はひび割れて、
台所の棚に乗っている計量カップが
ここからもまる見えだった。
人の手の入らない庭は、
手を切りそうな
細く尖った葉を持つ草に占領されていた。
風にさわさわ揺れるたびに、
草の青い呟きが聞こえる。

主人を失くした家は哀しい。
其処此処に明るい声が響き、
夕餉の団欒で温められた空気が
満ちていた証だけは残るのに。
錆びた三輪車のくすんだペダルが、
もう行くことはない公園の記憶を留めて
懐かしんでいる。

朽ちてうち棄てられる運命の空き家の前を
何度となく通り過ぎて。
ある朝ふと気づくのだ。
ここには秋の使者がいるのだと。
蔦が盛大に絡まるフェンス越しに、
庭を覗く。
縁側の脇に、
大きな大きな金木犀が立っていた。
黒々とした幹の先から
千手観音の腕のように枝分かれしている。
艶のある深緑の葉の間から、
黄金色の、小さな星型の花の集まりが
静かに咲きほころんでいる。
ようやく秋を数え始めた頃に
金木犀は香り出し、
肌寒くなった雨の後には
いっそう強く香るのだった。
雲の切れ間からまっすぐに差す陽の光が、
ちょうどその金木犀をやわらかく囲んでいた。

長い間、
木が見つめてきた暮らしは幻になり、
あるのは胸焦がれる名残りばかりだけれど。
毎年、金木犀は律儀に蕾を膨らませ、
誰にも聞こえない
微かな破裂音を伴って咲き、
あたりに秋の訪れを知らせるのだった。
こんなにもしっかりと
季節に結びつく花木は、
春の桜と
秋の金木犀くらいのものだろう。
自転車を押して歩く
二人連れの女性たちが
「あら、いい匂い」
と言いながら
足を止めて、
しばらくその家の前で話し込んでいた。

よく見ると門扉には
建て替えを予告する看板。
この家も
金木犀も
街の記憶から消えてゆく。
更地になってしばらくすると、
何が建っていたのか思い出せない。
それが街の新陳代謝の常。

秋の知らせは、今年が最後。
それを知っているのか、
金木犀は例年より早く長く
香っている。
もしかしたら、
主人と、この家のことを、
覚えていてほしいと
願っているのかもしれない。

木の姿が消えても
香りの記憶だけは
いつまでも人の心に棲みつくから。
此処ではないどこかにいても、
金木犀は香りとともに
忘れたくない思い出も
永遠のものにするのだろう。

花が終わるか
木が切られるか
掘り起こされて運ばれるか。
その時まで、
私はこの香りの前で
何度も深呼吸しておこうと思う。
私の住む街が変わっていく様を、
そうして何度も胸に刻んでいこうと思う。



文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。