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環が捕まえた痴漢と、もう会えないという美頼……20年後から浮かぶあの頃の少女たち。或いは『フワつく身体』第五回。

※文学フリマ頒布したミステリー小説、『フワつく身体』(25万文字 366ページ)の連載第五回です。(できるだけ毎日更新の予定)

初回から読みたい方はこちら:「カナはアタシの全て……。1997年渋谷。むず痒いほど懐かしい時代を背景にした百合から全ては始まる。」

前回分はこちら:貸し剥がし、倒産……平成不況で追い詰められた大人たちの上を、カナとミヨリ、二人の天女は浮遊する。或いは『フワつく身体』第四回。

『フワつく身体』ってどんな作品?と見出し一覧はこちら:【プロフィール記事】そもそも『フワつく身体』ってどういう作品?

八割方無料で公開いたしますが、最終章のみ有料とし、全部読み終わると、通販で実物を買ったのと同じ1500円になる予定です。

本文:ここから

■二〇一七年(平成二十九年) 九月四日

 朝、七時五十四分。湘南新宿ライン、快速籠原行き。白のブラウスにカーキ色のクロップドパンツを履いた私服姿の環は前方の頭頂部のやや薄くなった三十代の男を追いながら、武蔵小杉駅で乗車する。二人挟んで後方にはスキニーデニムにTシャツ姿の、女子大生にしか見えない葉月がいる。

 目標の男は中肉中背。頭頂部の髪がやや薄く、黒縁メガネをかけた、口元にほくろのある男。

 車内はすし詰めだった。今日は九月の初旬だと言うのにやや肌寒いが、車内は人いきれで蒸し暑い。ドアガラスには、びっしりと露がついていた。

 湘南新宿ラインは横浜~大崎間が最も乗車率が高い。環はスマートフォンを眺めるふりをして男の姿を追っている。

 男の目印は、左手に嵌められた赤い文字盤のフランク・ミュラー。

 環は男の腕時計などに興味はないので詳しくは知らないが、百万円以上するらしい。その時計を嵌めた手が、吊り革を掴んでいる。

 けっ、金持ちめ。

 右手はどうなっているのか環の位置からは見えない。だが、目標の男の周りには、男性しかいない。混み過ぎていて手が出せないか。

 目標の男は二ヶ月前、痴漢を働いたと二十代の女性に突き出されたが、証拠不十分で起訴できなかった。

 本人は一貫して否認し、目撃証言もなく、被害者の衣服からDNAや採取できなかった。痴漢は被害者の申告だけで逮捕することが可能だが、それだけでは冤罪の可能性もある。故にその時は立件を見送ることにしたのだった。

 だが、DNA採取を切り出した時の態度から、環はこいつは常習だと判断した。布の上に残るのは微量の指紋やDNAに過ぎず、必ずしも採取できるとは限らない。

 ならば、現行犯で捕まえてやるしかない。

 電車は多摩川を超えて、東京都に入る。

 七時五十九分、西大井駅。

 都心を目前にして、さらに乗客が乗り込んでくる。乗客が増えたせいで車内の人の位置がずれる。環はフランク・ミュラーを見失わないようにする。男の周りには相変わらず男性しかいない。

 八時三分。大崎駅。

 ここから下車する人が増える。降車する乗客の邪魔にならないよう男は一旦ドアの外に出から、再度乗り込む。先程よりは空いたものの、車内はまだ混んでいる。

 一旦外に出て立ち位置を変えた男は、ドア横の女子高生の後ろにぴったりとくっついていた。左手は吊り革を掴んでいる。

 右手は。フランク・ミュラーをしてない方の手は。

 乗客の間を縫うように立ち位置をずらしながら、男の腰の位置を追う。他の乗客の鞄が邪魔をしていて見えない。

 クソ。

 だが、その鞄を持った乗客が、覗いていたスマートフォンが手から滑りそうになったのと同時に鞄を持ち直した。鞄の位置がずれて男の手が見える。間違いなく男の手は女子高生のスカートの中に入っている。

 環は静かに乗客をかき分けて男の二の腕を掴んだ。

 環は男の耳元で囁く。

「現行犯逮捕。私の顔見忘れた?」

 八時七分。恵比寿駅。

 他の乗客が降りて行く。その波と一緒に男が環を振り切ろうとする。だが環はより腕に力を込める。

「逃げんじゃねえよ、このクズが」

 他に聞こえないように、男の耳元で凄む。

 向かいでは、葉月が女子高生の手を掴んで、保護していた。

「ここで降りますか」

「いや、次の渋谷まで乗ってこ」


「こないだと違って、現行犯だからね、言い訳はできないよ。私がこの目で見たんだから」

 痴漢の男は分駐所まで連行されて、パイプ椅子に座らせられていた。男は何も答えない。

「なんか本人確認できるもん出してもらおうか。ま、こないだから張ってたから、名前は分かってるんだけどね」

 だが、男はうつむいて黙り込んでいる。

 環の少し後ろには瀧山と赤城が腕組みして事態を見守っている。

 さらに、離れた分駐所の入り口の辺りで葉月が被害者の女子高生を慰めていた。女子高生はやや小柄で化粧などはしていない地味なタイプだ。痴漢は性欲よりも支配欲の犯罪であると最近分かってきており、被害者は、身長は高いよりも低い、服装や化粧は派手よりも地味といった傾向がある。正直、顔立ちはあまり関係ない。

「怖かったでしょ。怖かった。怖かった」

 優しくそう言いながら、葉月は女子高生の背中を撫でていた。

 男はパイプ椅子に座ったままうなだれている。

「何してんの? 出しなよ早く。竹谷さん。」

 男は無言でグッチの財布を出し、そこから運転免許証を出した。

「竹谷光宏。昭和五十三年生まれ。三十九歳。住所は川崎市中原区武蔵小杉。ムサコのタワマンね。いいとこ住んでること。ま、こんなとこ住んでるってことは独り身じゃないよね。で、職業は?」

 竹谷は胸ポケットから名刺入れも取り出し、机の上に置いた。

「へえ、渋谷のデザイン事務所の社長とね。いいとこ住んで、いい肩書きでいらっしゃること」

 男は変わらず黙り込んでいた。

「こないだはね、自分はやってない、冤罪だ、弁護士を呼べってうるさかったよね。まー我々も慎重になるよね。そりゃ。実際に冤罪だったら、こっちもメンツ丸つぶれだからね。あんたの言うことをね、多少聞いてやるしかなかった。だから、指紋採りましょうか、DNA鑑定しましょうかってこっちから提案してやった訳。そんなこと言ってあげるの私ぐらいだよ。基本、被害者の供述だけで立件できるもんだからね。でも、あんたはそん時、目が泳いだ。冤罪だったらホッとするよね。残念ながら、そん時は鑑定に出なかったけど。あんた、常習だ、間違いないって、ずっと張ってた訳。もう言い逃れできないでしょう。なんか言うことある?」

 だが、竹谷は沈黙を破らない。

「言うことは?」

 机の上に環は手をついた。

「言うことは?」

 もう一度念押ししたところで、竹谷はボソボソと口を開いた。

「女が、女が強くなったのが、いけないんだ」

「はあ、お前がやったことと、その話、なんの関係があんの?」

「女が強くなって、お前みたいのが……いるから。みんな家に閉じ込めておけば」

 環は竹谷の胸ぐらを掴んだ。

「おいこら、テメエ自分が何言ってんのか分かってんのかよ! 女が外に出てくるから触っちゃうってどういう理屈だ!」

 慌てて後ろにいた赤城が環の背中から肩に両腕を回し、竹谷から環を引き離した。

「やめて下さいよ。取調べ時に脅迫的な行為があったって後で問題になります」

「うるせえ、赤城離せ!」

「深川いい加減にしろ!」

 小隊長の瀧山も、環の腰を押さえる。

 男二人に取り押さえられても環は抵抗しながら叫んだ。

「女の賃金が男の七割のこの国で、女の管理職が七%以下のこの国で、お前は何をぬかしてやがるんだ!」

「もういいか、深川。気が済んだか」

 小隊長がそう言うと、

「取調べに不適切な言動があったことをお詫び致します」

 赤城が竹谷に向かって、慇懃に頭を下げた後、続けた。

「続きは渋谷署の方に引き継ぎ致します。ですが、今度ばかりは観念なさって下さい」

 その後ろで引き離されても興奮が収まらない環が叫んだ。

「失え! 仕事も家族もマンションも! そういうの得たくても得られない人間がいっぱいいる中で、お前みたいのに回ってるなんて世界がクソ過ぎて反吐が出るわ!」

「深川! いい加減にしろ!」

 瀧山が怒鳴る。

「重ねて、お詫び申し上げます」

 と再び赤城が竹谷に頭を下げた。

「って、もういい加減にして下さいよ、タマ姉!」

 赤城は頭を上げて、環の方を見てキレた。

「わぁった」

 環はふてくされながら、興奮して乱れた前髪をかきあげた。

 被害者の女子高生は連絡先を聞いた後、

 しばらくして、渋谷署から警察官が二人やってきて、竹谷を連行して行った。

「あいつを現行犯で捕まえたのはいいが、その後がさ」

 渋谷署の捜査員がいなくなってから、瀧山はため息をついた。

「痴漢でググってみて下さい。冤罪前提の弁護士広告ばっかですから。実際の冤罪が少なくても、奴らは冤罪だと言いたがる。だからこっちも慎重に行かなきゃならない」

 赤城も口を開いた。

「分かってる。んなこと、充分、分かってる。ただムカついて」

「ガキか」

 瀧山はさらにため息をついた。

「出かけてくる」

 環は踵を返して、出口の方に向かおうとする。

「どこに? 単独行動は禁止だぞ!」

「見舞い。ただプライベートに同級生の見舞いに行くだけ。悪い?」

 環は振り向いて吐き捨てた。

「勤務中だぞ!」

「じゃあ代休。まだ未消化のが残ってるから」

 そう言って、環は分駐所を出て行った。


 分駐所を出て、環はマークシティーの連絡通路を通り、井の頭線に向かう。

 マークシティーができたのは二〇〇〇年だった。環たちが高校生だった頃は井の頭線の渋谷駅は道玄坂の途中にあった。

 当時の環はコギャルだの女子高生ブームだのといったカルチャーを遠巻きに見ていた。調布の都立高校の剣道部の主将が渋谷に来たのは、高校時代を通じてあまりない。しかも大体が乗り換えのためだけで、街へ遊びに来たことは殆どなかったはずだ。

 女子高生だった環にとって、渋谷は場違い以上の何者でもなかった。

 だが、加奈と美頼はあの頃、この街に何度も来ていたのだろうか。道玄坂に繋がる改札を出て、この街を浮遊して行ったのだろうか。

 広い連絡通路の中央から、岡本太郎の明日の神話がこちらを見ていた。

 メキシコで長らく行方不明になっていた、岡本太郎の巨大壁画が発見され、連絡通路に設置されたのは二〇〇八年だった。

 原色の煙のような、帯のようなものを幾重にもまとった、白い骸骨に似た何かが、連絡通路を行き交う人を見つめていた。

 改札を抜けて、井の頭線に乗った。あの頃の美頼と加奈のことをもっと知らなければならない。

 ……カナは生きている……

 その真相をどうしても確かめたかった。

 改めて調べて見ると、失踪から七年が過ぎて、年が開けた二〇〇五年の一月に、立花加奈については失踪宣告が出されていた。つまり、戸籍上はほぼ死亡と同等の扱いになっていた。

 巻紙が死ぬ前にやり取りをしていたアカウントは一体何なのだ。

 無論、犯罪性を伴うやり取りに本名を使うとは通常は考え難い。タチバナカナというアカウント名だけなら、偶然の一致と考えた方が良いだろう。

 だが、@hine_19800815というアカウントの方も、環は気になった。hineが何なのかは分からないが、19800815という数字、これが気になって失踪届のデータベースを参照した。すると、環が予感した通りだった。

 そう、加奈の誕生日は、一九八〇年。昭和五十五年の終戦記念日だった。

 加奈本人なのかは分からないが、関わりのある人物と見做せるだろう。無論、一九八〇年の八月十五日生まれの立花加奈がもう一人いるだけの可能性もあるが。

 環は、明大前で乗り換え、分倍河原で下車して美頼の入院する病院へ向かった。


「ごめんなさい、もう美頼は深川さんには会わないって言ってます。それにもう体調も良くありません」

 美頼の入院する病院のエントランスで、美頼の母親は環に言った。

 美頼の母親、世良田紀美子は看病疲れかぐったりしていた。服装も襟ぐりの伸びたTシャツに、足元はクロックスで、服装など気にしている余裕はないようだった。

「そこをなんとか、って、なんとかなりませんよね」

「何度ご連絡頂いても、こうやって実際に足を運んで頂いても、お答えは一緒です」

「ま、そうですよね」

 環は頭を掻いた。

 やはり、重病人から聞き出すのは無理があるのか。しかも本人は環を拒絶している。

「分かりました。今日のところは諦めましょう。ですが、もう一つお伺いしたかったのは、オバサン、っていう言い方もおかしいか。私ももうオバサンだしな。美頼ちゃんのお母さん、あなたです」

「はい?」

 紀美子は驚いた顔をした。

「立花さんがいなくなった頃の美頼ちゃんの様子を少しお伺いできればな、と。私は鉄道警察隊ですし、駅構内で家出人を保護するのは別ですが、捜索は管轄外です。ですが、普通の人に比べればノウハウは持っています。いなくなった同級生の消息を知りたい。今はあくまでも個人的な興味です。でも、何かきっかけがあればいなくなった場所の担当課に働きかけることもできます」

 無論、巻紙が最期にやり取りしたLINEアカウントの件は伏せておいた。

 紀美子は少し間を置いてから口を開いた。

「正直、扱いかねていました。高校になってから仲良くなった加奈ちゃんはしっかりしたお家の子で、最初は加奈ちゃんの家に泊まると言って家に帰って来ない日があっても、あまり心配はしていませんでした。ただ、あの子のお小遣いじゃ買えないものが周りに増え始めて、最初は加奈ちゃんからもらったという話を信じてあげようと思っていたんです。でも、あまりにもそれが多いので不自然だなと思うようになりました。当時、夕方のニュースで良くやっていた悪いことをやっているんじゃないのか、と不安になりました」

「悪いこと? つまり、援助交際ですか」

 あまり詰問している感じを出さないように、なるべく優しい口調で環は聞いた。

 紀美子は黙って頷いた。

「でも、うちの美頼に限ってと思っていました。テレビに出てくる子たちは、みんな髪を金髪にして肌を焼いて、なんですか黒板にチョークで描いたようなメイクをしていた訳ですし」

「ガングロとか、ヤマンバとか、美頼はそういう感じではなかったですよね」

「はい。ただ、カラオケに一緒に行くだけでお金をもらう、みたいなこともあるとテレビでは言っていましたから、きっとそうだったんだろうと思っています」

「立花さんが失踪してから、当時どんなことをしていたのか、美頼ちゃんから聞いたことはありましたか」

「いえ、聞いていません。ただ私は美頼を信じています」

「ごめんなさい」

 これ以上はこの件は、聞いてはいけないと環は思った。人としての倫理でもあり、母親まで怒らせる訳にはいかない、という聞き取りの上でのテクニックでもあった。環は続けた。

「私が覚えている限り、立花さんと美頼ちゃんの二人は高二の二学期から、殆ど学校に来なくなりました。家には帰って来ていましたか」

 美頼の母親は首を横に振った。

「もちろん、ここはお母さんを責めている訳ではないので、誤解して欲しくないんですが、家にあまり寄り付かなくなった美頼ちゃんを叱ったりしたことはありましたか」

「はい。もちろんです。いつも言い合いになりました。美頼が言うのはいつも同じでした。『ママの望み通り、痩せて流行りの服を着れるようになったんだから、これ以上なんの文句があるの?』と」

「ママの望み通り、ですか」

「はい。知っての通り、中学の頃の美頼は太っていました。やっぱり、娘を産んだからには、痩せて綺麗にして欲しい、そう思って結構、美頼を責めるようなことも言っていたんです。高校に入ってダイエットしたのも、痩せ方に無理があることを心配しつつも嬉しかった。それが、美頼を追い込んでいたと分かったのは、摂食障害が重篤になってからです」

 紀美子が目頭に手を当てた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 その腕をさすりながら、環は謝った。そして続けた。
「美頼ちゃんはあんなこと言ってましたけど、私、中学の時の美頼ちゃん、好きでした。優しくて、はにかんだように笑うところとか」

「私もです。体重の増減なんて、美頼の本質に関わりがない、そう気づいた時には遅かったんです」

 そう言い終わると、紀美子の目からは涙が一筋溢れた。

 環が病院の外に出ると、湿って冷たい空気が半袖の腕を差してくる。見上げると空はどんよりと曇っている。今年は八月から気温の上がらない日が多い。

 援助交際をしていたという噂は本当だったのか。母親として信じたくないのだろうが、家に寄り付かなかった間の金のことを考えると、一緒に成人男性とカラオケに行ったりしただけでは済んでいなかったろう。家に寄り付かなくなった後の寝泊まりする場所を考えると、デートクラブのようなところに所属させられていたのかもしれない。

 やはり加奈はその中でトラブルに巻き込まれて失踪したのだろうか。

 美頼はその中で何かを見たはずだ。一体何を見たのだ。

 そして、LINEアカウント、タチバナカナ@hine_19800815との関係については全く見えない。

 少なくとも、現時点でもう一人話を聞かなくてはいけない人物がいる。環は改めて確信した。

本文:ここまで

続きはこちら:第六回

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読者の皆様へ:

※この話はフィクションであり、現実の人物、団体、施設などとは一切関係がありません。

※警視庁の鉄道警察隊に渋谷分駐所は存在しません。渋谷駅、及び周辺でトラブルにあった場合は、各路線の駅員、ハチ公前の駅前交番、渋谷警察署などにご連絡ください。

※現在では、一九九九年に成立した児童買春・児童ポルノ禁止法において、
性的好奇心を満たす目的で、一八歳以下の児童と、性交若くは、性交類似行為を行った場合、
五年以下の懲役若くは五百万円以下の罰金、又はその両方を併科されます。
本作品は、こういった違法行為を推奨、若しくは擁護するものでは決してありません。


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