月が綺麗ですね→Watch your back!
どうも。チャットgptとチョットだけ会話してみました、落語家の #立川談慶 師匠いさめるように「ちょっとだけ」信用して。利口者は時々与太郎のように真っ直ぐ前を向いたまま嘘をつきます、笑ふべし。
彼奴(きゃつ)がどのサイトから持ってきた例示なのかが解りませんが(調べようとしたら大量のアフィリエイトが付属される重いサイトばっかり😅)児童虐待が疑われる児童、及び虐待を行う親への「声かけ」の具体例だそう。
信頼できない語り手、という言葉があります。米国の文芸評論家ウェイン・ブースという人が初めて紹介したそう。主に小説や映画で語り手や主人公として物語を進めるも、その語りが後半で矛盾を孕んでいる事が明かされる、行動に最初から口にする善意とは別の意図がはかられている。そういう人物を指します。個人的に印象深いのは映画ユージュアル・サスペクツのかの人物でしょうか?あれはロープを巻いた柱の視線をさも人間のものの様に描写したから反則、騙された人間はそう感嘆するものです。
旧来的な新聞の一面報道、ニュース番組やワイドショーは、それぞれの質はともかくこの信頼できない語り手が犯罪者であった場合、こぞってその部分を取り上げます。
「そんな事する人だと思わなかった」
「まさかそこまでとは…」という周辺の人物の言質を取ることで信頼できない語り手である犯人の実像に迫ろうとします。
社会意識の向上により児童虐待に関しては以前より何倍も犯罪を防ぐための関心、関与が払われる事は記事からも解ると思いますが、容疑者は、信頼できない語り手は最大の嘘で、最後にそれをひっくり返してしまいます。
「自分の子供だから、愛している。」
殺人事件の親族殺人割合は現在40%ほどで、永年で知人や他人のケースを圧倒します。関係が深い人間同士は愛してるとか、愛し合うべきだとかで殻を被せると最後の段階まで行ってしまう事が有るのは常識。ここについては、少々反社会的かもしれませんが「無償の愛」とか「慈愛」なんてものは信用してはいけないと思います。無償の愛、慈愛、信じていたのに…信頼できない語り手への信頼。騙されたものの言い訳です。
最近の少学校では不審者対策に逆転の発想で登下校の際知らない大人にもきちんと挨拶しようという指導がされているようです。そして知らない大人が「どこに住んでるの?」等と応えてきたら決して個人情報を教えてはならないとも指導されてるそう。ははは信用できないよな俺、利口な子供達。んじゃ、最低限地域の大人の方とは面識を合わせつつ、なにか疑いの角があったら冒頭の様な言葉をかけるとしましょ。小説の中ではない現実世界の信頼できない語り手として。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?