消費の時代が終わるとき
オリンピックという一大イベントが開かれる2020年。移行期の元年を終え、令和も本当の始まりを迎えるように思う。
ここ数年ずっと社会の二極化と個人の多様化という大きな流れを感じてきた。
貧富や都市人口など社会の大きな動きと、個人としての嗜好や価値観の変化。この両方が同時に起きている。
しかもそれはものすごいスピードで加速しているのに、なぜか毎日の生活の中では実感しにくい。
何かに追われているような気がしていても、何に追われているのか分からずに一日一日が淡々と過ぎていく。
社会には確実に大きな流れの変化があるのに、その流れについていけていないように思う。
だから、それはずっとずっと前から始まっていたことなのに、事が起きたときに突然目の前に来たように感じる。
“生き残り”という言葉を使うとしたら、単純にそれに備えていたかどうかだけなのだろうと思う。
形はないけれど、次の時代のキーワードとしてぞわぞわ感じているものは、あなたは誰?ということ。そして高次元の豊かさというもの。
個人の考え方が多様化して、これが正解!という時代から、それもありだよねってなっていく世の中でいつも思うのは、そうなった時に自分は何者なんだろうって。
何が好きで、何をしたくて、どう生きるのか?
それを問われている感覚がずっとある。
その感覚の中で、日本にいま求められるのは、高次元の豊かさなのだと思う。
物を欲して物に囲まれて生きることが豊かさの象徴だった時代から、物余りになってコト消費という言葉が生まれた世の中。
それでも、コト消費に飽きたら次はどうするのだろう。
そう考えると、自然と思うのは、消費が前提にある豊かさは結局のところ表面だけの豊かさなのだろうということ。
今の日本人に求められることは、消費ではなく生産なのだと思う。
生産とは、自分自身が何かを生み出すこと。物ではなくても、コトでもヒトでも感情でも、お金以外の何かを生み出す“生産”に目を向ける。
お金そのものに価値はないということに気付くことが、令和におけるぼくらの課題であり、その先には新しい豊かさを感じる毎日がきっとある。
それがぼくの考える21世紀の幸福論の始まりです。
SURF CAPP
金曜日のナガサキ
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