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「いただきます。」をいただきたい。

ご飯を食べる前には、いただきます。

食べ終えたら、ごちそうさまでした。

誰しもが教えられた言葉なのに、どうして大人になるにつれて言える人は少なくなるんだろう。

そもそも「いただきます。」「ごちそうさま。」って

なんのために、だれに対して言ってるんだっけ?


わたしは肉じゃがが大好きだ。

肉じゃがと白いごはんと、お味噌汁。

それだけでごはん3杯はいける。(いまはダイエット中なので食べないけど)

でもその肉じゃがって、魔法みたいにポンと出てくるわけじゃない。

(ドラえもんの秘密道具に大根?カブ?を割ると自分の食べたいものが入っている…ってのがあったけど、あれ、すごく憧れたなぁ。)


家庭を持ち母になった私は、毎日子どもにご飯を作って食べさせなくてはいけない。

だからもう、肉じゃがは「ポン」とは出てこないことを知っている。


スーパーに赴き、数ある中から「こっちの方が新鮮」とか「こっちの方が大きい」とかブツブツ言いながら野菜を選び、次はお肉だ。(ちなみに我が家は肉じゃがは豚肉派です。)

国産がいいとかブランド肉だとか、家庭によりけりな選別方法でお肉をカゴに入れたら、わたしの大好物「しらたき」をちょっと多めに買う。(業務用のものがあればベスト!)作る側にまわるとその権限で具材の割合を決められるのは、めんどくさい家事ではあるがかなりのメリットだと思う。

つまみ食いもバレないしね。

そうして具材をそろえるところから始まり、やっと、肉じゃがづくりは始まるのだ。


正直、子どもの頃はこの大変さが全く分かっていなかった。

学校を終え家に帰れば当たり前のようにご飯はあったし、部活終わりで育ち盛りのわたしは、女の子といえどよく食べた。

当時のわたしの前には、今のわたしにとっての最上の幸せ、

「据え膳」が毎日用意されてあったのだ。


「ああ、あの頃はよかったなぁ。」

きれいに剥かれ、芽を落とされたジャガイモを見つめそう思う。

あの頃はこうやってジャガイモの目をくりぬく面倒臭さも、どこまで皮を剥いたか忘れる人参も、玉ねぎの匂いが染みつく指のことも

なにも知らなかった。

実家では圧力鍋を使わずに作られていた肉じゃがは、きっと煮込まれている間にまた別の料理が増えていき、そして本日のメインディッシュとして大皿に盛られるのだ。


仕事から帰宅した足でそのまま晩御飯の用意をする母。

それが当たり前だと思っていた。

あの頃のわたしは、ちゃんとお母さんに「いただきます。」と「ごちそうさま。」を言えてたかな。


実はうちの子どもたちは「いただきます。」と「ごちそうさま。」を、

しっかりいえる子どもだ。

例えば言うのを忘れて食べ始めてしまったとき。

「あ!忘れてた!いただきます!」

なんて、一度食べるのを止めて、しっかり手を合わせていただきますという。

我が子ながら「素敵だな」と感じる瞬間でもある。

そしてなによりも、言われるとわたしがうれしい。

こんな小さなことで幸せを感じれるのは、家族の特権かもしれない。


このあいだふと、長男が言っていたことがある。

「僕、将来の夢決まった。」

(ちなみに長男の将来の夢は随時追加されていく。)

「牛とか、豚とかをつかわなくてもいいお肉を作りたい。そうしたら牛も豚も殺さなくていいでしょ?ほかの動物だって。」

びっくりした。

普段何も考えてないような、その瞬間が楽しければいいみたいな、

自由の塊みたいな小学生男児である長男が、そんなことを言うなんて。

「ふとんだって、羊の毛をもらってるから…。そういうのも発明したい。」

…羊の毛はもしかしたら刈ってあげた方が羊的にもありがたい話なのかもしれないけど。


いただきますの裏にある意味を、小学生男児は知っていた。

それは「いただきます。」と「ごちそうさま。」を口に出す以上に大切で、

喜ばしいことなのかもしれない。


食べる前と、食べた後に発するその言葉には

感謝と哲学と幸せと、未来が詰まっていた。








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