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私の敵は私かもしれない

自分がしんどい時、「それは甘えだ」と社会から思われないかと不安に駆られるけど、その社会って実は自分自身かもしれないなと思った話。

自ら厳しく縛り付けていたのかもしれない。

前の会社を辞めるとき、辞めようと決意する前に人から言われたことがある。

「見た目は全部パシッと決まっているのに、顔の表情だけが見合っていない。すごく疲れている。」

と。
そう言われてハッとしてそこで初めて、私って辛かったのに耐えていたんだなと気が付き、退職を決意した。

そして退職して次(今)の会社に勤めたわけだけど、またしても昨日言われてしまった。

「自分で思ってるより、しんどそうやで」
と。

自分の限界は決めていたはずだし、自分の課題と相手の課題を整理して、これ以上は相手の課題だから無理して引き受けないと理解していたはずなのに、いつの間にか少しずつそれが薄れていた。

その事実に、人に言われるまで気付けなかった。いや、しんどいなと薄々気づいてはいたけどこれは甘えではないかと思っていた。

甘えってそもそも禁止なんだろうか。
誰かに甘えるのではなくて、自分に甘えること。それは全然禁止ではない気がする。甘えると言うか、許すが正しいか。甘えを許す。許可する。認める。

我慢することはいつだってつらい。誰かがどこかで我慢しなくちゃ成り立たない社会なんて、そんなの成り立ってるっていえない。

辛い時は正直に声を上げる。そのまま声を上げる。正当な理由はいらない。
それを自分が真っ先にやらないと、誰もしてくれないよ、と思い知った。

誰も我慢しないで心地よく過ごせる場所はあると信じたい。
そんな呑気なこと言ってられるか、と誰かに笑われそうだけど、もしかしたらその誰かも自分の中の社会に染まった部分かもしれないけど、でもやっぱり、心地の良い場所、関係ってのはこの世界には絶対にあると信じたい。


社会はしんどいもの、現実は厳しいもの、そんな認識ひっくり返したい。
と、自分に言っている。

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