ニコライ・ゴーゴリ『昔気質の地主たち』

新訳がすでにあるかもしれないが、私の読んだ版は、1934年の伊吹山三郎による翻訳で、読めない漢字もあり、手ごわいものでした。

しかし、ロシアの大地主の老夫婦の晩年が、淡々とつづられています。「淡々と」といっても、それは冷たく突き放したものではなく、感情が溢れないように抑制して書いた、という文体で、短編ながらも中盤から読むスピードは上がり、結末に向けて感情が揺さぶられるのがわかりました。

あらすじ

あらすじは、簡単なものです。

昔気質の善良で、事に頓着しない老夫婦が、仲睦まじく暮らしていました。使用人たち、農奴たちは、その老夫婦の人の良さにつけこんで、樹を切り倒して、売りさばいたり、倉庫からモノを盗って家に持ち帰ったりしていました。

そんな老婆の方が可愛がっていた猫がいました。その猫が、家の後ろにある森林に住んでいた野良猫にたぶらかされて、家を出てしまいました。一度は戻って、食事をするのですが、野生に戻った猫がそのまま外に出てしまいました。

老婆は悲しみ、これは自分の死期が近いものと確信します。心残りは、老爺のことでした。家事や彼の身の回りのことをテキパキとこなしていた彼女がいたからこそ、この家の清潔さや裕福さは保たれていたのでした。そんな自分が亡くなったら、と、老婆は女中頭に後を頼むと言い残して、本当に亡くなってしまいました。

老爺は、呆けてしまい、気力は失われ、家は荒れ放題になりました。ときおり何かの拍子に老婆を思い出すと、とめどなく涙があふれるのでした。

そんな老爺も、ある時森で、老婆の声を聞きました。いない人の声を聞くのは向こうの国から自分が呼ばれているしるしだと思い、老爺もまた自分の死期が近いことを悟りました。そして、しばらくして、亡くなりました。

使用人たちは、地主亡きあと、好き勝手にしていましたが、遠くから相続人なる新地主がきて、様々なものを整理して、皆追い出してしまいました。しかし、上手に土地活用ができたかというと、できなかったようです。

感想

このあらすじだけを読んでも、何が面白いのこれ、となるのは必定だと思います。私も、物語におけるサスペンスや、変転の妙の面白さという点については、それほど感じ入るものはありませんでした。

ただ、老婆が単なる現象を、予兆と錯覚して、本当に亡くなってしまうシーンや、その老婆を送る老爺の呆けた姿についての描写は、昨年義父を見送った私の経験とリンクして、何とも言えない感覚を引き起こしました。

老いた晩年、に伴走した経験がある人であれば、葬式の場面では涙は出ず、部屋に帰った後に、記憶が鮮明になって、嗚咽するということを切実に感じられると思います。まさに、老爺は、糟糠の妻を亡くして、そのように悲嘆にくれました。

義母は、認知症でした。義父が亡くなったあとも、亡くなったことを理解しきれずにいました。もちろん、式の途中では、理解していましたが、初七日の儀式に入る際に転倒し、病院に救急車で搬送され、私がそれに付き添って、事なきを得た診断をいただいたときにはもう、忘れていたのです。

しかしながら、心には何か引っかかるものがあったようで、深夜にホームに到着して、「さあ、婆ちゃん、ここだよ」と車から降ろしたあと、しばらく、足腰が転倒したことで痛いはずなのに、じっと動かずに、背中を押してもそれに抵抗するそぶりを見せていました。

そのとき私もまた、どれだけ相性の悪い夫婦であっても、晩年、暴力や迷惑をかけられた経験があっても、50年以上連れ添った記憶というものは、人の心に重くのしかかるものなのだな、と思い至って、悲しくなりました。

ましてや、この地主たちは、仲睦まじい夫婦でした。その悲しみは、より深いものだったでしょう。その深さを、ゴーゴリは極めて平明に描写し得ていると思うわけです。翻訳が、1934年で、昭和9年のものだったとしても、伝わってきました。

老婆が亡くなる前の、仲睦まじさを示すシーンに、老爺がわざと老婆を心配させるような言葉をかけるものがありました。家が焼けたらどうする?とか、家だけじゃなく納屋がやけたらどうする?とか、すべて土地を失ったらどうする?とか、そういう心配をさせるようなことをいって、老婆をやきもきさせて喜ぶシーンです。

その中に、老爺さんが、またナポレオンが攻め込んできたら自分が出征して戦うよ、と述べ、それに対して、老婆があなたが行っても足手まといですよ、とか、ピストルすら納屋に置きっぱなしにしているくせに、とか軽口をたたくシーンがあります。

そうか、この老地主は、若いときにナポレオン戦争を経験した世代なのか、と思いました。祖国戦争と言われる対仏戦争は、アレクサンドル1世が都市をわざと焼いて、ナポレオンを冬のさなかに孤立させる持久戦による勝利を得た戦争です。

私はこの祖国戦争は、アンリ・トロワイヤの『アレクサンドル1世 ナポレオンを敗走させた男』(中公文庫)でしか知りませんが、この老爺は、その戦争を記憶している世代なのだと言えます。ゴーゴリは1809年生まれで、1852年に亡くなっていますから、地主は40-50代くらいにナポレオン戦争を経験した世代ではないでしょうか。

この短編は、1834-35年ごろ歴史を教えているときに『ミルゴロド』というウクライナの小話を集めたものに入っていて、1825年がツァーリ制の打倒と農奴の解放を目指したデカブリストの乱なので、この小説に登場する地主は皇帝権力が安定している時期ののんびりとした気質の人びとだと考えられます。

人は危機に陥ると、心も余裕がなくなっていくので、この昔気質の地主は、鷹揚でおおらかな気質が、好き勝手やる農奴たちと、バランスが取れていたのでしょう。これが19世紀前半、ニコライ1世の治世には、自分たちの危機から農奴制を強化する方向に動いて、かつてのおおらかさ、人の良さがなくなっていくとゴーゴリはみたのではないでしょうか。

そう考えると、歴史を教えていたゴーゴリが、老爺にナポレオン戦争のことを語らせているのは興味深いものだと思います。なぜなら、ナポレオン戦争によって、ロシアにおいても近代化への欲求が強まり、それによって危機感を感じた地主たちは、規律の引き締めに躍起になり、昔気質を忘れてしまうからです。

ゴーゴリはそんな地主と農奴のギブアンドテイクによってゆるく時が過ぎていたころを、夢想するような小説でもあるわけです。

私たちも、昔はよかったと夢想しがちです。私の親たちは昭和30年代を夢想していました。私の父は、大学時代新宿の百人町に住んでいたらしいのですが、そこはまだのんびりとした住宅街だったそうです。私の母は、1960年代後半を懐かしく思っていました。ミニスカート世代なわけです。

私もまた、1980年代の青い空を思い出します。小学生のころ見た空は、今見る空よりも青く、澄んだ空気に満ちていたような気がします。失われた時の錯覚に過ぎないのでしょうけれども。記録をみると、今に比べて、陰惨な事件も多く、決して天国ではなかったことは明らかです。しかし、私たちは、なぜか自分の若い頃を理想化して、回顧しがちですが、ゴーゴリもまた地主の老夫婦を、昔ながらの気質をもった人物として、美しく描き出しています。

寅さんを見て、昭和の人情を、しみじみと思い出す感じでしょうか。















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