量か質か・ことば・パターン ~村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』22~

今年読んだ本について、年末にざっと振り返ってみようとしたのだけれども、数えてみたら大したことがなかったので、振り返るのはやめた。

そもそも、頭も混濁して長い文章を早く読み、正確に理解することが困難になってきた昨今、今までざっとしか読んでこなかったものを、ゆっくりと読んでみようとして、noteをつけ始めたのだから、量を提示することは趣旨に反するだろう。

量を読むことと、深く読むこととが同時に出来れば最高なのだが、人間、この二つは反比例の関係になることが多い。多くの人が抱える、悩ましい問題である。ただ、若いときは量を読みながら深く切り込む集中力があると思うので、それにチャレンジすることは悪くないと思う。自分も、チャレンジしてきたつもりだけれども、あまり覚えていなかった。

ただ、量を読むことで浅くなったとしても、繰り返しその浅さを体験してトータルとして深く読むことと同等の効果があるとは思うので、一知半解を大量に行うことに意味がないとは思わない。

深く読む派、量をこなす派の対立は、昔(90年代中頃)からあったし、もっと昔にもあっただろう。それは、思想家の本でもあって、ある思想書の原典をじっくり読むのがいいのか、翻訳でもさらっとでも全体を読むのがいいのか、意見を交わしあったことはある。結論としては、どっちもやったほうがいいよね、だったけれども、若いときの私は量をこなす派だった。

深さとは何だろう、と、量がこなせなくなったときに考えるようになった。村上春樹の作品は、垂直に登って行ったり、下りて行ったりするモチーフが多い。同じ主題をくり返し、そして、少しずつ長く、違う視点から書き起こしていっているように感じるのも、「深さ」なのかもしれない。

ある一冊の本を理解しようとすることは、とても難しい。理解したつもりになれる、だけだと思う。それは、他人に対しても同じだ。ある人を理解したつもりになっているだけ、と自分を常に戒めている。

人を理解するときは、
①「その人の言っている(きた)こと」
②「その人がやっている(きた)こと」
③「その人の歴史・背景・環境」
④「その人の外見と持ち物とふるまい」
の4点に注意する。ただ、観察で得られるものは④が圧倒的に多く、①と②がそれに次ぐ。

私は、①をあまり信じなくて、②を信じる。②に①が矛盾する人がやっぱりいるが、これは信じられない。②と①の矛盾や齟齬を①で糊塗しようとする人も、同じく信じない。逆に①が困ったことを言う人でも、②がしっかりしていれば信じることはある。でも普通は①と②が一貫している人なんてそんなにいなくて、相互にゆるくつながっているのが普通だ。

小説を他人として、①~④を考えると、小説は言語構築物だから①が圧倒的に情報量としては多くて、②は③と関係づけないと見えてこなかったりする。私はこの言語行為論と言われるものが好きで、カフェとかで他のテーブルの人の話を聞きながら、話の内容ではなく、この話をすることで話者は何をしようとしているのか、を考えたりするのが趣味である。いい趣味ではない。

ここは、留置所から出された「僕」が、調書を書けと圧をかけてくる二人の刑事とやりとりしたのちになんとか釈放されるシーンだったはず。

あらすじ部分、なんでこんなにざっくりした感じなのかというと、川端にハマってそっちの話をしているうちに、『ダンス・ダンス・ダンス』上巻の文庫本が、本の波に吞み込まれて、どこかにいってしまったからだ。

大変遺憾である。

なぜか文庫本の下巻は手元にあり、すでに上巻は読み終わっているので、22~24のあらすじを飛ばすことになるが、感想は用意できる。

学生運動の世代の人と話をすると、ジグザグデモのやり方とか、火炎瓶の作り方とか、セクトの違いでヘルメットの色が違っているとか、留置場はどうだったか、という話をしてくれることがある。村上春樹もその世代なので、留置場や尋問などの経験もあるのかもしれない。

私はその経験は幸いなことにないが、逆に被害を訴えるときの調書の取り方は、結構圧が強くて困る。被害者なのに圧が強いってどういうことだろう。

さっきまで、読みの深さとかなんとか言っていたくせに、サラリとした感想しか出ないのは、私の技倆の浅さゆえである。

でも、本を読んだ感想って、実際はそんなものじゃないか。

まず、面白かったとか、ためになったとか、つまらなかったとか、時間を無駄にしたとか、スッキリしたとか、そういう第一印象がある。

そして、その印象を抱いたのはなぜか、と、もう一歩踏み込むと、本の中の言葉だったり、エピソードだったり、自分の中にある本の内容とシンクロした経験だったり、という印象の根拠を探し始める。

第一印象を表現するフレーズと、印象の根拠の組み合わせにつまるところ読書感想文も帰着するのではないか。

私自身も、自分と社会との齟齬というものは抱えていて、確定診断をしたことがないけれど、何かに当てはまる気はしている。

異常だとは自分を感じたことはないが、人との距離感を感じることはあった。その距離感を無理に埋めようとは思わず、一人でいることを自己合理化するような生き方をしてきたので、そこで問題は起きなかった(と思う)が、多かれ少なかれ人は誰でも足を引きずって生きるものだ、という『戦争の法』の結末部には、若干の真理があるように思う。

先の①~④にしても、読書感想文を言語のパターンの組み合わせ、と表現してしまうことも、あまりに機械的だと言われることもあるが、私はむしろ、それで最も分かりづらかった「他人」についても理解する糸口を見つけ、なんとか社会と折り合う道を見つけたように感じる。


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