なんだよこれ(笑) 〜斎藤緑雨『油地獄』〜
斎藤緑雨。明治の作家だ。
明治とは、日本の明治時代のこと。江戸時代と大正時代に挟まれたおおよそ45年間が、明治時代。西暦にすると、大ざっぱに言って、1868年から1912年までのこと。
江戸時代後半、特に19世紀になってから、培われた文化の中に、西洋近代の文化が大小とりまぜて入ってくるのが特徴。あるものは、そのまま移植されたり、別のものはローカライズされて受容されたり、色々な形で「近代」を咀嚼する時期だった。そこには、歓迎、反撥、過剰適応、色々な態度があった。
小説形式も、西洋から入って来たものの一つ。
もちろん、日本にだって「物語」はあったわけだけれど、それと西洋における「小説」は異なっていた、というのは一般的な定見だ。
そんな中で、明治期の文学者たちは、自分たちの読んできた漢詩などの《文学》が育んだ頭で、外来の新形式である「小説」を理解し、実践しようとしていた。
斎藤緑雨も、その1人だった。
*
その緑雨が書いた短編を3篇集めた『油地獄 他二篇』は、岩波文庫から出ている。
いつ買ったのか、見当もつかないが、値札が付いているから、おそらく均一本コーナーで買ったものだろう。
いままで、ずっと寝かしてしまっていた。
で、帯を見る。
えっ、これだけ?
そう、実際、ストーリーラインは、これだけ。
もっと、驚くのは、
「出世作」?
このストーリーラインで「出世作」になるんかな。
他の作家の『出世作」といったら、
村上春樹は『ノルウェイの森』?
村上龍は『コインロッカーベイビーズ』?
阿部和重は『インディヴィジュアル・プロジェクション』?
それに値するものが、この『油地獄』だと考えると、クラクラする。
「出世作」といったら、まあまあの野心作が並ぶし、それなりに尺も長い。
内容には、それなりの文学的自負が含まれている。
それに比べて緑雨の『油地獄』は、書生が芸者に惚れ、その芸者にふられ、恨みのあまり芸者の写真を油で煮る。それだけ。しかも、短編だ。
はてさて、これが「出世作」?
近松門左衛門の「女殺油地獄」とタイトルの字面は似ているが、ストーリーラインだけを比べてみても、類縁性は薄いようだ。作中で油が象徴的に使われている、というだけが共通項みたい。
*
『油地獄』が刊行されたのは明治24年。
明治24年は、1891年。
のちのロシア皇帝のニコライ2世が来日、滋賀県の大津で巡査に切りつけられるという「大津事件」のあった年だ。
この事件に象徴されるように、外来文化を条約改正のために無批判で受容しようとした「鹿鳴館時代」の揺り返しで、ナショナリズムと排外主義風潮が強まった時期にあたる。
日清戦争まであと3年。日本も、近代を消化しつつあり、列強に対して挑戦を開始し、帝国主義への道を辿ろうとしている、そんな時期。
そんな時期に、「惚れた芸者に去られたうぶな田舎書生が恨みに耐えかね女の写真を油で煮つめて呪う」小説。
内容が問題ではないのかもしれない。ちょっと引用しよう。
一文が長い、と思わなくていい。
好きなところで息継ぎをして、読み流していけばいいわけだが、「長い」と感じられるのは、きっと、句読点によって、文を塊でとらえる癖が、無意識のうちについているからだと思う。
「大丈夫當さに雄飛すべし」と述べているのは、親だったり、地元の教師だったり、世間だったりという具体的な人称を欠いた不定形の集合だろう。
そんな世間が、無責任な「智恵」を刷り込み、そのせいで「目賀田貞之進」君は、「鋤だの鍬だの見るも賤しい心地」になった、いわば尊大なプライドの肥大した若者の1人だった。
《目賀田貞之進は〜だった》という形で書かれていればわかりやすかったかもしれない。
そんな目賀田貞之進は、世間の期待を自分の意識として内面化、同一化し、その結果、彼の心持ちは尊大に変化し、都会を望み、自分を「琢磨き」に出てくる。
このときに「玉でもないものを」と、「目賀田貞之進」のポテンシャルについて判断しているのは、語り手である。
この一文がわかりにくいのは、主語の異なる様々な叙述が、一文の中に混ぜ合わされているからだ。
しかし、こうした叙述形式は当時としては普通で、その都度主語を補足してやれば、易しいし、余分な定型文が省略されているだけに、さらに古い文よりはわかりやすいものとなっている。
冒頭文は、古色の強い流れになっているけれども、それ以降は、読点をおくべきところに、句点があるだけで、非常に読みやすいものとなっている。
このように、貞之進の性格を、語り手が集中的に記述するあたりは、途端に読みやすくなる。
樋口一葉や坪内逍遥よりは読みやすいし、二葉亭四迷の『浮雲』に比べても、読みやすいのではないか(そんなこともないか)。
もちろん、その刊行よりは、「油地獄」の刊行は遅いのだけれども、言文一致のレベルは格段に上がっているといえる。
『浮雲』の主人公・文三。キャラである文三と作者の四迷との距離は近い。
ともすると、文三は四迷そのものの分身であるようにも、読めなくはない。
一方、緑雨の貞之進は、まったくの別人だ(そうともいえないか)。
それは、緑雨が、貞之進の感情を突き放して記述しているから、そう感じられるのだ。
貞之進が、のちに振られることになる芸妓「小歌」に「惚れる」場面について、緑雨はかなり分析的に叙述している。
一般論から始めて、
振る舞いを描写し、最後、内面が描かれる。
一般論、外見、内面とシームレスに展開する滑らかさ。
せいぜい、当てられている漢語が、今と用法が違うくらいで、組み立てとカメラワークは現在に似ている。
同時代の作品として、北村透谷や二葉亭四迷といった人たちのそれと並べたとき、「油地獄」の主題が、恋慕そのものではなく、恋慕の分析と批評、であることにも気づく。
では、内容はつまらないのかというと、面白い。
特に芸妓の「小歌」と出会った懇親会会場から帰った次の日に、帰り際の小歌から云われた一言である「あら儂のではお厭なの」は、この節に6回も7回も出てくる。
小歌を想う内面を記述する緑雨は、ここで小歌の声を外部から何度も繰返し、貞之進に聞かせることで、完全に貞之進が小歌に支配される様相を表現しているのだが、確かにこの内面の揺動は、映像ではやりにくく、やろうとするとあからさまで、文章ならでは、という心持ちがする。
これも小歌が至る所に見えてしまう恋情の高まりを示すシーン。
最もダイナミックな文章のうねりが特徴で、男の片思いの粘着さをあますところなく書いている。
加えて、このように、恋情が外部から到来して自分を苛んでいると貞之進は思っているから、好きになった自分の責任を問うことなく、振った女を恨む、という逆の気持ちへと反転することが可能なのだろう。
恋情が自分から生じたものではなく、相手が勝手に植え付けたものなのだから、それに応じようとしたら、叶えられず、それでも恋情が自分を苛むものだから、被害者意識を持ち、恋情が恨みに転化するという、ストーカーのメカニズムのようなものが抜き出せて面白い。
*
やっぱり外部に責任転嫁しがちなパーソナリティの人、難しいですよね。
そんな知見を思いつくくらいには、鋭い緑雨の観察と叙述。
結果、小歌に入れあげた貞之進は、旦那のあることを知り、疑いつつ信じるも、徐々に疑いが大きくなり、そして、最終的には小歌の真相を知って、帯文のような仕儀に至る。
こんな小さな出来事について、ここまで文章を引き延ばして読ませる、というのはなかなかと凄いと思った。
「なんだよこれ(笑)」と思った次第。
褒めてる。
以上。
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