志賀直哉「リズム」
なるほどAI脅威論がかまびすしいが、志賀直哉のエッセイである「リズム」こそ、その脅威に対する不安を緩和してくれるものではあるまいか。
「人間」が死ぬ、ということだが、すでにニーチェの時代に「神」は死に、バルトの時代に「人間」は死んだ。あとはテクノロジーの主人になるのか、協力しあえるバディになるのか、奴隷になるのかの3択に過ぎない。時間の問題である。
「リズム」は短いエッセイで、武者小路実篤の「二宮尊徳」という本を褒める意図で書かれたものらしいけれども、今の時代にそれは残っていない。全集の中で探せば見られるくらいか。しかし、「リズム」の方は、時代を超えて残っている。「リズム」の中で志賀が行なっている主張を実践できたのは、武者小路ではなく、志賀自身だった。歴史の皮肉である。
何が書いてあるのか。
小説論だが、うまい小説は確かにうまいが響いてこない。人に響く小説とは、その人のリズムが現れた小説で、それは巧拙とは別のものであるという。
AIもうまい文章を書く。そして、サイバースペース内の情報が完備されればされるほど、オペレーションによってはきちんとしたエビデンスに基づくものを書いてくるだろう。しかし、リズムはどうだろうか。
最終的には習得してしまうかもしれない。しかし、それはまだ「こちらのもの」である期間がしばしあるように思われる。
谷崎潤一郎の『文章読本』にも、この志賀の「リズム」を相同的に指す言葉として「調子」とか「品格」というものがあったと思われる。
いわば語り手の「声」ではないか。
単に澱みなく上手であることが価値になるのではなく、今まで、その澱みなさや上手さを阻害する要素としての「抑揚」や「言い回し」や「タイミング」や「気の使い方」が、新たな価値として称揚されるのではないか。
私たちは、ただうまいだけのものにエンターテインメントを感じない。最初はいいかもしれないが、そのうち飽きてくる。そこを狙う(長期間ではないだろうが)のが肝要であろう。
ただ志賀はそうした小賢しい戦略なるものを嫌う。そのような小器用さから離れた場所で「ほんとうのこと」を行うのが良いと言う。それはすでに経済的なベースを気にしなくていい志賀だからではないか、と私は思う。まずは食えないと話にならない、と思う。
食うために「うまい」ものを書こうと修行すること。ある程度「うまさ」が生じて、「リズム」が弱まる。自己模倣になる。そこから離れた境地に至る。「リズム」を回復して、個性が生じる。そんなうまく行くのか、志賀だからできたんじゃないか。私もそう思ってしまう。
ただ、そう思っているうちは嫉妬であり、書くことよりも書いたものが評価されて、他人の上に立っていると評価されることを望んでいるに過ぎない、と志賀に思われてしまうかもしれない。
それは少し嫌である。
「尊徳」ではなく、これはきっと「あなた」への文章である。
時代の流れに乗って仕事をする奴はその時、時代の流れがなければ何もしなかったかも知れぬ弱味がある。あなたは時代の流れには没交渉な奴だった。むしろ時代の流れはあなたには合わなかった。それでもあなたは我流の一本槍で、これ日も足らず、捨身に進んでいかなる時代にも普遍である教えを身をもって残していった。実に強い。
私からのエールである。
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