『沈黙』の裏側 〜recycle articles 4〜


遠藤周作の『沈黙』が、マーティン・スコセッシによって映画化され、上映されたのが2017年1月。私はなんと六本木ヒルズの映画館で、これを観たのです。私とヒルズ、異質の組み合わせ。普段は寂れたイオンの映画館で、五人くらいの観客で観てるよ。

『沈黙』の内容を考えるために、参考書として読んだのが、山本博文さんによる新書『殉教 日本人は何を信仰したか』でした。予習野郎極まれり、ですな。だって『沈黙』、難しいんだもん。

『殉教 日本人は何を信仰したか』の刊行は2009年であり、スコセッシ版『沈黙』の上映の8年前でありながら、『沈黙』と併せて読むと良いと思えるような内容にビックリしました。シンクロ率高め。

この本の冒頭では、『沈黙』のストーリーが提示され、そのなかのどこが歴史的事実と異なる部分なのか、当時の考え方とは異なる部分などを、比較対照していきます。

例えば、日本人の村人が殉教する場面をみて、主人公のロドリゴが「みじめ」と報告書簡にしたためる場面などがそれにあたります。殉教する姿を「みじめ」と記載することは、当時の発想としてはなかった、と書かれます。

現代と異質な舞台設定を、現代人が共感できる思考法、感情表現で染め上げる、というのが歴史小説の手法ですが、遠藤周作もまた、それを使っているということです。それはそれとして、事実は違った。

本書は、それを批判しているわけではなく、そこを経由して、「殉教」の実態に迫ろうとしているだけであります。それにしても、今の献金による家族崩壊もまた緩慢な殉教みたいなものですね。

殉教する意識

さて、弾圧時代に日本人キリシタン(キリスト教徒)が読んだ冊子に、「マルチリヨの栞」というものがあるといいます。

「マルチリヨ」は殉教のことで、「マルチル」は殉教者のことです。マルチルには「丸血留」という文字があてられました。

この文字について「まさに血だらけになって死ぬイメージである」と解説されています。私はその辺をあまり理解できなかったが、でも「血」という文字が入るだけで、なんとなくまがまがしい感じがする、というところまではわかります。

埼玉県にも平将門の親族が処刑された血が流れたという由来の残る「大血川」という名称がありますが、やはりまがまがしい雰囲気があります。いや、そもそもあの甲武信岳周辺の山々は異様にトゲトゲしいイメージ。中央線に乗ってて、東京から山梨に入ったあたりの山岳地帯は、ちょっとおどろおどろしいものね。


この「栞」には「マルチル」としての栄光が書かれていますが、栄光を最大限にまで高めるには、積極的に死へ赴き(望みにもえ)、艱難辛苦にも喜んで耐え、嫌がったり逃げたりしてはダメだ、ということらしいです。うーん、示唆に富んでいますね。今読むと皮肉にも聞こえます。

こういった価値観を読んで忠実にしたがう信徒が大勢出たがゆえに、日本においては他国に見られぬ大迫害時代が生じたのではないか、と山本さんは述べていました。

この忠実さというメンタリティが、日本の特異性として抽出できるかもしれないので、「切腹」や「殉死」という現象を、山本さんは追っているといいます。

バテレン追放令と「ここまでなら」という妥協


第二章では、秀吉が「バテレン追放令」を出したのはなぜか、ということが考察されています。

追放令の目的は、秀吉が目指す国家体制の妨げになる者を排除するためだと、ざっくりとらえておけばいいのですが、「妨げになる」という認識を秀吉が得る前に、彼が見聞し報告を受けた出来事が、この本には豊富に紹介されています。

例えば、ポルトガル船を視察して、軍艦のようだといった場面とか。それをみていたキリシタン大名たちが、これを秀吉に献上したほうがいいと進言したことだとか。結果、人身売買や他宗門への迫害など様々な利権や既得権の侵害をもって、「追放」という結論に達したようです。


それが、「弾圧」に移行するのは、なぜなのでしょうか。

例えば、京都で宗門改めをした際に、キリシタンはさほど名乗り出てはこないだろうと思っていたら、ぞろぞろと積極的に表れて、3000人を超えるような人数の登録があって、全員処刑したら都中の人がいなくなっちゃうなあ、なんていう感慨を石田三成が抱いたり、という場面であったりします。おそろしいですね。

もちろん、ポルトガル系のイエズス会とスペイン系のフランシスコ会の対立も含まれています。

イエズス会が「追放」宣告をうけたあと、それでも秀吉はポルトガルとの貿易に固執していたので、人格者である宣教師長(日本での実績もあるヴァリニャーノ)が懇切丁寧に交渉し、一旦事態を鎮静化したんですね。

ところが、そこに空気を読まないフランシスコ会が来て、しかも、托鉢修道会ということで、貧しいなりで貧者にも平等にほどこしを授けていたこともあって、ふたたび京都でのフランシスコ会信者の増加をみてしまったわけですね。

これには、イエズス会も困り果てる。せっかく、怒りを解いて、細々とやっていこうとしたところで、こんなに派手にやってくれちゃってまあ、みたいな気持ちに、なんとなくなったようです。


そんなおりに、さらなるスペイン船が土佐に漂着し、問答の末に、侵略の前には宣教師が入る、という解釈が可能な回答をしてしまって、ふたたび秀吉の逆鱗に触れます。これによって、京都中のキリシタン宗門改めを行い、先のような膨大な信者の積極的な登録をみた、というわけであります。


それで、スペイン系フランシスコ会の修道士たちと数名の日本人信者が、初めて殉教者となりました。

その報を聞いて、イエズス会の責任者マルティンスは、殉教の場に行き、祝福を授けています。殉教者は殉教者ですから。そして、その行為は咎められませんでした。その後、マルティンスは合理的な判断に基づき、日本を離れました。ここでは、ヴァリニャーノやマルティンスという人々の穏当な行動や判断もまた注目に値しますね。

家康はどう宣教師を遇しようとしたか?


第三章は家康時代の「殉教」が取り上げられます。家康は顧問に新教系の人物(三浦按針)がいたから、迫害に対してはそこまで積極的ではありませんでした。意外ですね。

貿易にも野心があったため、公式には禁止してましたが、布教自体は黙認という状況が続きました。。1612年に、再度禁令が出されますが、秀吉死去から10年あまりで、布教は結構な速度で進行していたという状況があったようです。

この時期における史料から、日本人はなぜ信仰したのか、という問題を追究する節があります。純粋な信仰、病気の治癒、生活手段の獲得、平等な取り扱いという世俗的な理由も含めて、あったといいます。

そして、ふたたび弾圧へと至ります。九州では、布教に関して、特に厳しく当たられたといます。

本書でとりあげているのは、加藤清正の領地ですが、内政の失敗は家康による改易につながるという恐怖もあったでしょうから、布教の拡大を見逃すことはできませんでした。

熱烈な日本人の信者がおり、布教していました。捕縛、説得、対立、入牢、そして、殉教というプロセスをたどります。

その地区の宣教師は、布教をほどほどにするように諭したといいます。穏当な判断ですね。しかし、それは守られず、過剰な布教が目についたのだと本では述べられます。


九州における迫害に際して、日本人キリシタンが処刑の場にあっても落ち着いていることは、宣教師たちに驚きをもたらしました。

その理路は、「そこに到着すると、彼の名誉のために日本の習慣どおりに彼が自ら死を選んだことを態度で示す方がよいと考えていた馬之丞は」という報告に表れているといいます。

先の「マルチリヨの栞」にも、武士が君主のために命を惜しまないのと信者が神のために命を惜しまないのは同じ、という比喩を使って、その理屈を理解させていた、ということを明らかにしています。

当初、黙認していた家康は、何を見、報告されて、再度の禁教を判断したのでしょうか。

家康は学究的・実際的な人でしたから、体制の支柱として日本化された儒教精神を、仏教と折衷して、民衆を組織化することを考えていたと思います。そうした政治的判断で共存から弾圧へと政策転換をしたのかもしれません。

けれども、本書で示されるのは、聖遺物信仰における、死体の一部や服の一部を喜んで持ち帰り、崇める姿に、家康は戦慄したという様子です。

江戸幕府における儒教精神と日常化した仏教解釈の融合。ついでに神は仏の姿をとって日本に現れたと解釈する本地垂迹説。神道は本体、儒教は枝葉という折衷。神道、仏教、儒教という、教義的差異を融合させる日本的な解釈。キリスト教に対しても、そうした立場を堅持すると思われました。

きっとケガレの感覚なども含め、家康も共有していましたし、ともすると敏感だったかもしれません。だからこそ、こうした信仰のありかたに対して、家康は感覚的に恐怖したのかもしれません。

感覚的なものは理屈ではないから、否定しづらいし、内省的に検討もしづらいものです。こうした、家康の肉体的な恐怖が、追放と弾圧を組織化した、ともいえなくはありません。

それにしても、秀吉の主力だった高山右近が、この時期まで、前田家の重職にいたというのも面白いものです。

老いたとはいえ、戦場の駆け引きを知っている人物です。しかも、秀吉に近い人。明智光秀の誘いにも乗らず、秀吉の大返しの先鋒を務めた人物でもあります。

もし、右近が、大阪城に入りでもしたら、全国のキリスト教信者は石山本願寺のように蜂起するかもしれません。信仰のしぶとさを、家康は、三河の一向一揆を平定したときの辛苦で、いやというほど知っています。こうした、統一への総仕上げが、右近の国外追放という判断をすすめた、というのは、面白い経緯でもあります。

しかし家康は、こうしたアメとムチのバランスによって、全体をまとめる統治感覚に優れていましたし、処刑そのものの実効性を疑い、宣教師の国外追放によって事をなそうとしていた節があります。

むしろ、その後を継いだ秀忠が、家康の死去後、自分の政権基盤をかためることに神経質にあったあげくに、ここの章のタイトルになっているような「大殉教の時代」を演出してしまうのではないでしょうか。秀忠という人はなんとも難しい立場に立たされた人だなあと思います。

秀忠になって


秀忠は、領主にキリシタンはまかりならぬ、と号令しました。

改易を恐れる藩主たちは、自国内での禁教の徹底を行います。

それで、九州における殉教は増えました。

例えば、板倉勝重という人物がいます。彼は、温厚な人格だったので、この時期、京都のキリシタンを捕縛はしたものの、無罪放免にしようとしていたら、秀忠が全部火あぶりと命じたので、行わざるを得なかった、という記述があります。

幕府における二代目問題というのがあります。幕府に限らないのかもしれません。

源氏の二代目は頼家、凡庸で執権政治への道を開いてしまいました。いえ、これは北条氏が狡猾だったからという気もしますが。


室町幕府は義詮。義詮は例外で、非常に実直だったがゆえに、義満にバトンを上手に渡すことができたとされます。義詮は、尊氏とともに戦場を若い時から駆けていたという事実もあります。色々と参考になる先輩がいたというわけです。そもそも義満までは不安定だったしね。

で、秀忠ですが、家康から受けたバトンは重く、大きかった。体制維持のためには、苛烈になり神経質になるのはしょうがないのかな、と思いつつも、秀忠の小心が半端ない、とさえ思います。

とはいえ、ローマ帝国のように、一神教とのらくらやりながら帝権を維持するには、国教化するしかないんだろうな、とも思うので、なかなか難しい政治判断だったろうと思います。


この後、平山常陳事件というものがありました。朱印船貿易に従事している平山常陳という人物が、日本に渡航しようとしていたマニラの宣教師を載せて航海していたら、オランダ船に拿捕されて、幕府に密航の罪で訴えられた事件のことです。

平山もキリシタンでありましたが、それを隠していたし、宣教師たちも平山に迷惑がかかると思って、身分を隠していました。

こうした密告の背景には、東シナ海の交易ルートをめぐる、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、日本の朱印船従事者の紛争があったという事実です。

オランダ船は、平山を告発することで、東シナ海の日本人交易ルートを縮小させようとしていた、というところが、世俗的で面白いです。

九州の領主たちは、これら民間の朱印船を利用しつつ、マニラ、マカオ、コーチシナといった東アジア諸国とのネットワークを張っていた事実がありました。

マニラの管区長たちは、日本にいけば殉教せざるを得ないので、もうあまり宣教師を送りたくないとも考えていました。やみくもに、人員を減らしたくはなかったからです。世俗的な常識がここにはあります。

情報は、だから、マニラでも入手できていて、殉教が美徳だといっても、わざわざ死にに行くことを勧めてはいなかったのです。

しかしながら、こうした中で、「元和大殉教」と呼ばれる大量の処刑が行われるのでありました。

信仰者の追放から信仰の根絶へ

秀忠の治世はそれでも、信仰者の存在が問題なのであって、信仰そのものまでは手をつけていませんでした。しかし、家光への代替わりを経て、秀忠は、信仰そのものの禁止を、徹底していくのでありました。

政治的判断による柔らかい禁止→思想を体現する存在者の禁止→思想そのものの禁止

この歴史的流れは、たぶん、繰り返されます。『殉教』から読み取るべきは、こうした社会のパターンなのではないでしょうか。

では、どうやって内面にある信仰を見つけるのでしょうか。

信仰そのものをあぶりだすために、踏み絵と拷問という手段がとられたのです。内面の自由の禁止という経験は、べつにオーウェルの『1984年』に限ったことではない、ということです。とはいえ、最終的にダブルスタンダードを自分に許せば、日本社会ではあいまいに生き延びることができた、というだけのことです。

みんなの前では仏教者、個人の中ではキリシタン。こうしたダブルスタンダードというか機会主義的なあり方をどう思うでしょうか。クリスマスも正月もお盆も祝ってしまおうという発想を包摂的ととるべきか、節操がないと取るべきか。

その中でフェレイラという人物は、生き延びました。

だいたいの信者が喜んで殉教する中で、確かに異質な人です。そして、そのフェレイラの棄教をめぐって、『沈黙』の主人公ロドリゴのモデルとなるジュゼッペ・キアラが渡日するのでありました。

遠藤周作が、この理路を現代的解釈であったとしても追求してみようと思ったのもわかります。逆に言えば、徳川時代において棄教者はそんなに多くないからです。むしろ、フェレイラやキアラの振る舞いは神が死んだ近代人の振る舞いだと言えるでしょう。

たぶん私は平気でダブルスタンダードを口にするはずです。

ちなみに、第5章では、天草の乱についても書かれています。

基本、「マルチリヨの栞」の考えでは、殉教は抵抗しても殉教にならないので、天草の乱の犠牲者は、殉教とは異なるようです。

それも、なんとも寂しい話ですが、歴史とはこういう平凡で寂しい話の連続です。私たちの日常からして、そうでありましょう。

しかし、信仰そのものは根絶することはできません。『古都』の冒頭に出てくるキリストを模した古地蔵や南信州の寺にすらあるマリア地蔵のようなものが現代にも伝わっているほどです。

いずれにしても、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の観光の際には、手元にしのばせておきたい一冊です。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?