老将・本庄繁長の数奇な人生 〜recycle articles 1〜

*過去に書いた風野真知雄『奇策』(2003)の読書感想文をリライトしたものです。

ある年のこと。前年に猛烈な渋滞に巻き込まれた地獄を反省して、早めに墓参することにした。8月の初週のことだった。東北自動車道はすいており、午前7時半に出発して、9時過ぎには、白河に入ることができた。

個人的な印象だが、栃木県も宇都宮くらいまでは、屋敷森をひかえた邸宅がちらほら見えて、関東平野の風情を色濃く残している。宇都宮を超え、矢板を過ぎるあたりから、丘に鬱蒼と生える森林を切り開いたかのようにうねる道が始まる。

那須高原の看板を見ると、とうとう来たなという気持ちになる。


栃木北部は意外と広い。Aランク和牛で有名な大田原市などが広がり、まだ白河の関を超えられないのか、ともどかしい気持ちになる。山が、微妙に険しくなり、印象が変わると、白河に入ったな、と思う。


福島県の高速道路は、高低差がある坂道が多い。けれども、郡山市のある盆地、福島市のある盆地は、まっすぐでゆったりしていて走りやすい。

特に、福島市に入ると、北を正面にして右側に、広い盆地がみえ、のんびりした光景が心地よい。


猪苗代湖を中心にした会津の地に、上杉景勝が移封されたのは1598年。安土桃山時代の終わりごろだ。慣れた越後の地から、加増されたとはいえ、新しい土地に移動するのは大変だっただろう。


武家と土地との密接なつながりを切断し、為政者として大名を立たせつつも、地縁的な協力を農民にさせないようにする豊臣政策の一つであった。兵農分離の一形態といえる。


大名もまた、戦国時代には頻繁にあった家臣たちの反乱が、家臣の統べる土地とのつながりにあることは理解していた。だから、近世的な家臣団を形成し、主家を頂点にしたヒエラルキーを構築するためにも、兵農分離の政策を利用した。

こうした土地と家臣のつながりを断ち切るのに苦労し、最終的に失敗したのが、武田勝頼である。そこを織田信長に付け込まれ、敗北へと導かれた。しかし、その後、こうした旧武田遺臣の土豪たちの上に立ったのが川尻秀隆という官僚的人物であったため、土豪たちに不満が生じ、本能寺の変のあと、徳川家康の甲斐への介入を許すことになる。


上杉家も、家臣であるはずの土豪たちに悩まされた過去を持つ。

謙信の時代、川中島の合戦で活躍したとされる「揚北衆」。いわば阿賀野川以北の土豪たちは、当然のことながら独自の気風を持っていたことから、対武田戦では協力したものの、不満が高じると、武田家の誘いに応じ、謙信といえども反旗を翻すことを辞さない。

本書『奇策』の主人公、本庄繁長もその一人である。


川中島の合戦後、越後の中央集権化を進めようとする謙信に離反し、不満を持つ揚北衆を組織して、反乱を起こした。のちに、上杉家の重臣になり、戊辰戦争では新潟港で官軍方と交戦した色部家も、この揚北衆の一角だったことからも、主君への忠誠心ではなく、土地とのつながりを安堵してくれる権力の正統性によって、土豪たちが動いていたことがわかる。


本庄は、謙信と戦い、籠城戦となる。最終的には降伏し、許された。

家臣は土地を安堵されることによってのみ忠誠をつくす契約を行うのだ、というシビアな戦国原理の体現者でもあった。安堵の資格がなくなれば、家臣となるいわれもない。主君の能力を試す。そういうことである。


謙信の「義」という概念は、忠誠ではなく、こうした戦国的契約の履行にあると思われるがどうか。北条を攻める際にも、関東の小豪族たちが、謙信に着いたり、北条に着いたりすることを、織田信長のように苛烈に咎めたりはしていない(例外はある)。


さて、謙信没後に勃発した、上杉家の跡目争いでは、本庄は景勝方につく。そのため、北条方についた揚北衆を打ち破り、景勝の越後相続の力となる。しかし、それも、土地を安堵する能力を景勝にみてとったということであり、おそらく忠誠心からではない。


その後も、本庄繁長は、豊臣秀吉の行った太閤検地に不満をもつ人々を扇動して、一揆をおこさせたかどで流罪となったり、その赦免のために、「文禄の役」(韓国では丁酉倭乱という)の中で戦功をたてて、ふたたび景勝に仕えることになったり、というように、浮き沈みの多い数奇な人生を辿る。


そして、1600年に、本庄繁長は、伊達政宗の抑えとして、福島城の城主となった。


私が、福島盆地を車で通行しているときに思い出すのは、以上のような本庄繁長の人生である。すでに繁長は60を過ぎて、この地に来た。家康の恫喝に対し、直江兼続がむこうを張ったことで、引き起こされた家康討伐の軍。


福島の北では最上義光が、仙台からは伊達政宗が、越後からは堀秀治が、常陸からは佐竹義宣が、迫っていた(佐竹は上杉と密約があったとする説もある)。

そのとき、西で動きが起こる。石田三成の挙兵である。

栃木県の小山まで迫っていた上杉討伐軍の大半が、踵を返して、関ヶ原へ殺到。世に知られる関ヶ原の合戦となったことは、皆の知るところである。


上杉景勝は、このとき、堀を足止めさせるために越後で、帰農した旧家臣団一揆を扇動した。こうして堀の動きは止まる。佐竹は、どちらにつくか迷っているために、動かない。一説には、景勝と連携していたともいわれ、その説をもとにした小説もあるが、真実は定かではない。


直江兼続は出羽を討つことに決める。最上討伐に出かけ、長谷堂城で膠着状態に陥ったあと、関ヶ原の敗戦が伝えられ、退却戦を戦ったこともよく知られている。ここで、よく話にあがるのが、「花の慶次」こと前田慶次郎の活躍である。事実かどうかは知らん。



こうした混乱に乗じて、伊達政宗が福島盆地を目指して出陣した。

上杉家の退却を知って、豊饒な福島の地を奪おうという、戦国気風としては当然の振る舞いだった。総勢2万といわれるが、戦国時代の数ほどあてにならぬものはない。いずれにしても、そこそこの大群を動かしていたのは間違いないだろう。

ここで、伊達軍を迎えうったのが、老将とも言うべき本庄繁長であった。


本書『奇策』は、この伊達と本庄の対決として名高い「松川合戦」を主題にした歴史小説である。


現在の福島県庁のあるあたりに福島城があった。その北にある信夫山の南を旧松川が流れていたという。その松川を挟んで、伊達と本庄は対峙している。


先に動いたのは伊達。ひきつけて、敵軍が川の中央にきたところで発砲するも、多勢ゆえ押され、本庄軍は退却。「虚崩れ」(わざと退却して敵を誘い込む戦術)を気にする政宗は、信夫山に退却。夜明けを待つ。


本庄次男の義勝は、霧に紛れて、信夫山の北側の伊達本陣の背後に回る。

そして、背後から奇襲を開始。

政宗が、陣を展開できる広い西側へ降りようとしたところで、繁長が出陣し、本陣めがけて突っ込む。という偽の情報を流しておいた。かつて、謙信が第4回川中島の合戦で山本勘助のキツツキ作戦を逆用して展開した作戦の記憶を利用したのであった。


その上で、信夫山を東から北へ迂回し、松川の上流から下って、南側へと回り、北に向けた兵力の逆をついて奇襲を開始するという作戦に出た。


兵力を分散させ、混乱を誘い、陣形が整わぬ間に、まとまった精兵が本陣を叩く、という作戦である。


奇襲が開始され、伊達は慌てるが、一度、信夫山の西へと降り、そこで広い空間を利用して、再度陣形を立て直そうと試みた。そのうちに、別動隊やふもとの隊も戻ってくるはずだ。しかし、敵兵の勢いがすさまじく、隊列を反転させるスキを与えない。それであれば、そのまま陣形を前に進め、相手の背後をとろうとするのも、また正攻法である。


こうして、二匹の蛇がお互いの尾を呑みあうような形に膠着した。そうした乱戦で、活きたのが謙信由来の短槍だったという。そうこうしている中、柳川城にいた須田軍が援軍として到着し、戦況は変化する。疲弊した兵と無傷で士気の高い兵の参加。

その気持ちのスキをついて、繁長の本隊が突入すると、伊達軍は雪崩をうって、国見峠まで退却した。


さらに現れた景勝本軍の援軍。さすがに、伊達軍もこれ以上戦うことはできなかった。

もちろん、この松川合戦の詳細は風野氏の創作部分も大いにある。通説として流布された小荷駄隊の襲撃などは、小説には書かれていない。

いずれにしても、繁長は辛くも守り切ったというわけである。

松川合戦は、このようにして終結したが、伊達は攻めるにあたって、福島城背後の大森城の本庄重長(繁長とは別人)を裏切らせるはずだった。その裏切りの盟約自体が、嘘だったのである。また、背後からの奇襲という偽情報。情報戦の勝利が、松川合戦を勝利に導いた。これが本庄繁長の老将としての手腕だといえるだろう。

福島、松川、国見といった「松川合戦」の際に言及される地名が、東北自動車道を通行しているとICやPA、SAの名前にある。


それを見るといつも本庄繁長という数奇な人生を全うした人物のことを思い出す。

繁長はこのあと、上杉家存続のための交渉を一手に引き受けて、なんとかその家名を残すことに成功する。

多くの小説が書かれるほど、華々しい人生ではないが、1614年に74歳で生涯を終えている。これだけだとイメージがわかないが、前田利家よりも一つ下、豊臣秀長(秀吉の弟)と同い年である。

ともあれ戦国の栄枯盛衰を味わった男の生涯は魅力に満ちている。

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