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山村修『遅読のすすめ』

2002年に刊行された山村修『遅読のすすめ』。

平野啓一郎が『スローリーディング』の中で勧めており、ひもをたぐるように購入してみた。

結論から言うと、良い本だった。

速読と多読。

多読するにはやはり速読が必要だ。

こうした読み方を山村は自分にはできないといい、「ゆっくり」読むことを提唱する。

「ゆっくり」とは、どういうことか。

自分の歩くスピードを駅まで1.6km10分とする。それ以下が「ゆっくり」。だから、自分が平均何分で何ページ読めるかをまず把握するのがよいという。もちろん、それは本によるのではあるが、自分の読書リズムよりも少しペースをおとして読むことが「ゆっくり」になるという。

それは散歩に近いと思った。

電車の時間とか、目的がある時、どうしても、急ぎ足になり、まわりの景色が目に入らない。「ゆっくり」とは、その目的を達成するときの歩く速さよりも、遅く歩くことになる。そうすると周りの景色も見えて来る。

読み方のリズムだけが、日常の立居ふるまいのうち、どうもあいまい模糊としているのではないだろうか。ほうっておけば何でも速くしたがるのが、この社会である。それでも歩行や食事などは、あまりに不自然な速さには器官的な拒絶反応がはたらき、歯止めがきくだろうが、本の読みかたに歯止めはない。

以前、小林秀雄について、以下の文章を書いた。

その中で、小林秀雄の「読書論」について、少し引用した。

再度、引用したい。

杉村楚人冠の感想だったと記憶するが、印刷の速力も、書物の普及の速力も驚くほど早くなり、書物の量はいよいよ増加する一方、人間の本を読む速力が、依然として昔のままでいる事は、まことに滑稽の感を起こさせるものだ、という意味の文章を読んだ。僕は読書の真髄というものは、この滑稽のうちにあると思っている。

この一節と同じ引用を『遅読のすすめ』にみつけた。

「僕は読書の真髄というものは、この滑稽のうちにあると思っている」という文。いいよね、と思った。

それと同時に、こんな文も。

幸福とは、幸福の予感である─。だれであったか、そう書いていた作家がいた。どんなたぐいの幸福にせよ、またそれが実現するにせよしないにせよ、幸福のうれしい予感に胸をさわがせるときが、まず何よりの幸福である。そのような意味があったと思う。
読書にも、まったくおなじように、じっさいに本を読むまえの幸福というものがある。読まないうちに幸福を予感する。読書にとって、これがとてもたいせつなことだ。

これはワインにもいえる。何を買おうか迷っているときが一番楽しい。

あんな味なのか、こんな味なのか、とても楽しい。また、飲み頃を待つことの悦びもある。だから、いつも飲み頃を逃してしまう。

仕事や暮しのあれこれに、何か手ひどく幻滅し、打ちひしがれることがあって、もはや地下鉄のエレベーターから地上に昇っていく気さえなくなってしまう。しかし、まるで天啓のように読書のことを思い出し、その幸福と陶酔の予感だけで、みじめに萎えきっていた心が救われるのである。

ゆっくり読むことは、幸福を味わうことである。このことを、古今東西の読書論を引用しながら、かみふくめるように述べる本を、私は知らなかった。

ジッドの言葉。

私は他人にこう読んで貰いたいと思うように読む。つまり、非常にゆっくり読むのだ。私にとっては、一冊の本を読むということは、その著者と十五日間家をあけることである。

山村さんの重要な思想は、読むことを、食べること、仕事することなどと一緒で「暮し」の一部として捉えていることである。

読書をするにしても、それは暮しの一部である。それがどんなに大切な営みであるにせよ、暮しの全体からすると一部である。

食事の時間には皿や茶わんが並ぶように、読書の時間には本が目の前におかれる。それが暮しだという。

食事を為しながら書を読み新聞を読むなどという事などは誰もする事であるが、実はよろしくないことで、それだから碌な書も読めず、かつまた一生芋の煮えたか煮えずも知らずに終わってしまうのである。食事の時は心静かに食事をして、飯が硬いか軟らかいか、汁が鹹いか淡いかそのよろしきを得て居るか、煮魚は何の魚であるか、新しいか陳いか腐りかかって居るか、それらの事がすべて瞭然と心に映るように、全幅の心でもって食事するのがよいので、明智光秀が粽の茅を去らずに啖ったのなんぞは、正に光秀が長く天下を有するに堪えぬ事を語って居ると評されても仕方のない事である。

幸田露伴の『努力論』の一節。

こんな感じで、古今の遅読礼賛を引いていく。吉田健一、武田百合子、ヴァルター・ベンヤミン。ベンヤミンが、むさぼり食うことの悦びについて書いていることなんか知らなかった。

食べるということと読むということを並列におきつつ、大食い早食いが果してほめられたものだろうか、と速読多読派にやんわりと異論を提示する。だから食べるリズムの話も、なぜか遅読の話なのに、どんどん登場してくる。

ところが、山村さんは、「くつろいで読む」ことと「ゆっくり読む」ことは違うという。あれ?露伴の言ってることと違う?

たぶん、くつろいだ読書を味わうにも才能が要るのだ。自分のまわりに快い要素を呼びあつめることのできる人、そうして心身を自在に休ませることのできる才能をもっている人だけが、日常的にゆったりくつろいで本を読むことができる。そうでない私は、夜は畳の上に正座して足をしびれさせながら、朝夕は通勤電車のざわめきに身をまかせながら、本を読む。そうして皮膚感覚はいささか緊張させながら、息をととのえつつ、ゆっくり読む。

それだけではなく、高橋たか子の「寡読」の様相。上原専禄の「色読」など、激烈なスロー読書も紹介している。そして、自分にこれはできないという。

山村さんの「遅読」は、生活の中に「読む」という営みをリズムとして、取り戻そうということなのだ。それより早ければ「速読」になるが、それは、手段としての読書であって、目的としての読書はあくまで自分の生活リズムに根付いたものなのだという。

山村さんの場合、一週間で一冊が、暮しの読書リズムだという。

月曜の朝、あたらしい週を、あたらしい本とともにはじめると、すぎた週に対して一つのけじめをつけた気分になる。そして曜日を重ねるにつれ、本のなかのあたらしい人間たちや、あたらしい風景は、見えかたがかわったり、奥行きが出てきたりする。

今回、私が購入したのは2011年に出たちくま文庫の『増補 遅読のすすめ』である。付録がついている。その付録は結構長い。もともと『遅読のすすめ』は六章構成であり、六章は本当に感動的な章である。

おそらく、Noterのみなさんは仕事をしていて、本に向き合う時間も限られている。限られた中で、どうするのか、そこが書かれている。これはぜひどこかで読む機会があったら、じっくり読んでほしい。

 社会に出ると、もはやしあわせな読書生活などというものはない。そもそも本を読めるにせよ、一日の全体からすれば、ごくわずかな時間のことである。本に中毒などしている暇はない。もしもそういうことへのあこがれがあるとすれば、それを断ち切ってからでないと生活人の日常がはじまらない。
しかしそれでもなお、あるいはそれだからこそ、ときとして読書のうれしさが身の内に迫りあがってくることがある。
 それは私の場合、せいぜいに年に一度か二度、ほんの何秒か何十秒か何分かのことに過ぎないが、それがあればこそ本をずっと手放さずにいるのだと思う。

 一つの発見が、こうしてあたかも本から本へ、白い翼をひろげたかもめが渡るように、私のところまで伝わってくる。
 私にはそれがうれしい。いままさに本を手にしている、その本を読んでいる─、そういう思いがわいてくる。うれしいときは、なぜか時間もまた茫洋とわきたつような気がする。現実にはほんのいっときであっても、時間ははてしなくわきおこり、ひろがり、みちる─、そんな気分に包まれる。それがつくづくとうれしい。
 年若いころは、読書をしながらそのような感覚をもつことはなかったもっと性急だった。時間はいつも足りなかった。ある本に心を動かすことはあっても、読書そのものに感動することはなかった。時間はわきおこり、ひろがるものではなくて、ただ流れては消えるものだった。いまははっきりと読書の感覚がかわっている。それが体感として分かる。いつごろからかわったのか、それも分かっている。
 ゆっくり読むようになってからである。

山村修さんは1950年生まれ。2006年に56歳で亡くなった。惜しい人を亡くした。

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