終わりのない小説 ~ヘミングウェイ「われらの時代」~

崩れた本の山の下にあって、私の目にとまった新潮文庫の『ヘミングウェイ全短編1 われらの時代 男だけの世界』を、ふところにしのばせた。

先日、通勤時に読もうとして、軽く目を通したところで、難しそうでやめた。若い頃、読んだことがあったようななかったような。『陽はまた昇る』と『老人と海』だけ読んで、勝手にヘミングウェイから離れたのだったか、すっかり忘れた。なんだかヘミングウェイには冷たくあたってしまう。

前の日記でも書いたように、プチ旅行に行くのをとりやめて、年賀状を印刷したりしようと、家に戻ってきたが、なんだかくさくさするので、いつもは怒られるはずの湯舟にお湯をためての読書としゃれこんだ。あとで掃除しておけばばれないだろう。

お湯に浸かりながら途中まで読む。

割と面白い。

風呂から上がって、布団の上に転がりながら読む。

最後の短編「二つの心臓の大きな川 第二部」だけ残して、中断した。

面白いけれども、やっぱりブンガクだ、と思った。

「やっぱりブンガクだ」という思いには、アンビバレントな気持ちが込められている。ブンガクとして面白いかも、という思いと、もっと別の年齢で出会えていればよかったという思いと。

普通に読み進めたら、読者に対して親切な書き方をしているわけではないので、面白いとは言いにくい。おすすめしたら、「わかんない」と言われる可能性が結構あると思う。

石田衣良氏のYoutubeで『われらの時代』が紹介されているのを見た。あの人、いい人そうな声をしている。聞きやすかった。

全体についての説明とかはナシで、『われらの時代』の中の短編「ファイター」を上手に紹介していた。私が、一番「?」だった「ファイター」を面白そうに紹介していて、さすが小説家と思った。

で、いつもヘミングウェイといったら、「電報のような」文体の創出者として、語られる。石田氏も、そこを話していた。

全部言わない、全部書かない、抑制された書き方はブンガクの方向としては面白い。ハードボイルドかどうかは別にして、モダニズム文学としての面目躍如である。

もちろん、こうした書き方は感染力が強いので、現代には多くのリトル・ヘミングウェイが居り、本家を凌駕するリトル・ヘミングウェイもいることは承知している。

だからブンガクの方向として面白い、というのは1920年代の作品として考えた時に、かなり新鮮なことをやっているな、という意味で、面白いと思ったわけである。

解説を読むと、各短編は各短編として書かれ、一冊の本にするために、苦心したそうだ。おそらく、連作として書いていたわけではない。だから、全体を通す筋のようなものはない。「ない」ことを、むしろ、誇りに思っていた部分もあるだろう。

つながっている部分もあるが、「照応」という程度のことだ。

アーネスト・ヘミングウェイが1899~1861、志賀直哉1883~1971。

両者は、特に影響関係があったわけではないが、セザンヌからの影響を介して、親戚のような位置にいる。

物語として読むのではなく、一つの絵画として、「われらの時代」の絵画として読むのが、きっとふさわしいのが「われらの時代」だと思わなくもない。

もちろん、それぞれの物語を、ヘミングウェイの人生に当てはめながら読んでもいいと思うが。

また、ニック・アダムズの成長の物語として読んでもいい。

ニックは、父親からのスピリットの継承を諦め、それに焦がれながら、鱒釣りの中で、スピリットを創始しようとする。

『一九七三年のピンボール』。

これだ。

だから、終わりがない。

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