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最近、相手も自分も何人なのかあまり気にしなくなってきた話

「うん、今週の日曜は友達とランチ行くんだよね、なんかブラッスリー?みたいな店」

日本を出て幾分か経つ。異国で一人暮らしの独身の娘がちゃんとご飯を食べに行く友達ができていると知って母は少し安堵したらしい。

「それで友達は何人なの?」

「…そういや知らんわ。」

「えっ。」

「そういや何人なんだろ。」

ここは世界中からありとあらゆる移民の集まる都市、ニューヨーク。

私はもはや相手が何人なのかあまり気にしていない。

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きっかけは知り合いを増やそうと参加した外国語を勉強する人たちの集まりだった。

そこで出会った人たちはバラエティ豊かだ。

いかにもラテン系なスペイン語が流暢な人。中国語に加えなぜか日本語もペラペラな中華系の人。どちらもアメリカで生まれ育ったアメリカ人。

はたまた流暢な英語をしゃべりアメリカ人なのかと思いきや、つい最近きたばかりのノルウェー人だったり、ずっとこっちだけど国籍は韓国のままだという韓国人。逆に韓国語は喋れない韓国系アメリカ人。

生まれも育ちもブルックリン、日本語と韓国語を勉強中だというアフリカ系のニューヨーカー。話す英語もいわゆる"黒人英語"なのに、電話に出たら突然流暢なスペイン語を話し始める。聞けばご両親は中米出身で家ではスペイン語なのだという。ラテン系だと全然思われないんだよねーとケロッと笑っている。

そしてランチをした人は、見た目はヨーロッパ系とアジア系のミックスのような雰囲気だが、正直何系なのかよくわからない。

ヨーロッパ系の人も、アイルランド系だったり、イタリア系だったり、その背景はさまざまだ。

カフェで雑談していたヨーロッパ系の人が、私が日本出身だと知ると「僕アイルランド系アメリカ人だけど子供の頃神戸に7年いました」と突然日本語が返ってきたこともある。

ニューヨークに来てから「やらかしたなー」と後悔してることの一つが、てっきり中国人だと思い込んでいた方に「英語お上手ですね」と言ったら、完全にこちらで生まれ育ったアメリカ人だったことがあった。中華系アメリカ人の方は英語名を名乗ることが多いが、中国名を名乗っていたので勝手に中国人だと思っていたのである。

いろんな国境を跨いで人がやってくるこの都市は、背景が本当に多種多様で、名前や見た目、喋る言語では何人なのか全然わからない。

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じゃあ、自分はどうなのか。より日本人であることを意識するようになったのか。

実のところ、少々事情が特殊なせいで、かえって何人なのか自分でもわからない。

自分が日本人であることを話した時。

「え、日本人なの?英語に全然アクセント(訛り)がないよ?」

そこに前述のブルックリン育ちがいう。

「アクセントがないというか….完全に西海岸のアクセントだよね。」

西海岸、というのはカリフォルニア州などがあるアメリカ西海岸のことである。

そう、私は数年アメリカ西海岸に住んでいたことがあって、英語はそこで身に付けたのだ。

「私、アクセントがあるって自覚あまりないんだけどわかる?」

「うん、ニューヨークや東海岸の英語じゃないなってわかる。西海岸だね。」

実は、先日アメリカ国内旅行に行った時もUberの運転手に「カリフォルニアから来たの?」と聞かれているし、別の人には「カリフォルニア出身のアメリカ人ですとか言われても多分信じてたと思うよ」とコメントをもらった。

見た目やちょっと話したくらいだと、この地で私はおそらく「日本人」ではなくただ「アジア系の人」、下手すると「アジア系アメリカ人」と思われているらしい。

思えば、西海岸から日本に戻った頃、言動が周りの日本人と全然違ったらしく(歩き方すら違ったらしい)、日本人っぽくないと言われたことがある。

いたのはほんの数年で、人生のほとんどは日本で過ごしている。両親も祖父母もその前の先祖も特に日本国外のルーツは持っていない。

でも日本人だと思われない自分は何人なのだろう。

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そんなことを考えていた時、歴史の解説をしているポッドキャスト「コテンラジオ」さんで面白い話を聞くことができた。

〇〇人という考え方や民族という概念は、実はフランス革命の後、国民主権国家が誕生した時期に作られた概念らしい。

国民主権の国家において誰がその国の国民なのか、一定の均質化した集団を定義する必要があったので、この時に民族という概念が使われたという。

フランス革命からというとせいぜい数百年の歴史である。

現代の社会システムではどこかの国に属すことが前提になっている。私は日本国籍を持つ両親の元、日本で生まれたので日本国籍を持っている。

ただ、アイデンティティとして私は何人なのかと考えた時に、なんだか日本人という型にうまくはまらない気がしていたが、そもそも近代に日本人という概念ができた時には想定されていない人間だったのかもしれない。

だったら、むやみにはめなくてもいいのかも。

もはや自分のことは比較的日本要素の比重が大きい地球市民くらいでもいいかなと考えている。自分の中にアメリカの要素があることは否定できないし、それ以外の国に行って吸収したものも確実に私という人間を作っていると思う。

そして、最近は初対面の相手に対し、何人なのか無理に推測せず、 “Where you from?” から始めて丁寧に相手のバックグラウンドを聞くようにしている。

一見面倒かもしれないが、自分がまだ知らなかった物語に触れるようでそれはそれで楽しいし、ラベリングやステレオタイプから解放され、ただただ1人の人間としての相手のことを見つめるいい練習になってるかもしれない、と思う今日この頃である。





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