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漫画みたいな毎日。「形あるものは、いつかその形を失う。」

末娘がお皿を割った。

おやつのパンケーキを食べ終え、使ったお皿を台所に運ぼうとして手を滑らせたのだ。

私は、割れた破片で子どもたちが怪我をしないようにと伝え、二男が直ぐに掃除機を用意してくれた。

こんな時、子どものたちの対応は、かなり手慣れている。  

掃除機を用意する。
裸足で周りに近づかない。
破片を拾うときは、気をつける。

家の中では、時に、誰かしら食器を割ることがあるが、誰も割った人を責めることはない。

子どもたちが産まれてから今まで、何度もお皿や急須、グラスなど、多くの食器が割れ、壊れてきた。

「子どもが居るから、割れてがっかりしたり、怒るよりも、割れない物を使うことにした」という人も居る。

どちらが良い悪いではなく、それは、本当にそれぞれの選択なのだと思う。

私自身は、子どもたちが小さい時から〈どんな物も、壊れることがあるものだ〉と体感できたらいいなと思っている。

そんな事から、こども用の割れにくい食器などは、我が家にはなく、サイズは小さくても、大人が使うものと同じ物を使っている。

子どもたちが、食器を割っても、「形あるものは、いつか壊れることがあるってことだから。」と言い続けてきた。

それは、大事に扱わなくていいということではない。
しかし、大事にしていても、壊してしまうことは、ある。

壊れてしまうからこそ、扱いに気を配る必要が出てくる。一日を過ごす中で、「壊れやすい物の扱い方に集中する時間」があっても良いと思うのだ。

家にある物に関しては、取り返しがつかないということはないと思っている。もし、壊れたものが、思い出の品だとしても、思い出が壊れるわけではない。

物だけではなく、人間もいつかは、今の形を失う。

常に休むことなく、細胞は生まれ変わり、変化し続けているのだとしたら、常に在る形を失い続けているとも言えるのかもしれない。

末娘がお皿を割った後、いつもは偉そうな長男が「自分がパンケーキを焼かなければ、お母さんの大事なお皿、割れなかったかもしれない・・・。」と珍しく神妙な顔をしていた。

「そんなことないでしょ。末娘も、たまたま手が滑ってお皿が割れたってだけだよ。誰にでもあることだしね。あ、だいたいさ、家で、お皿を一番たくさん割ってるのお母さんだしねぇ~!パンケーキ、美味しかったから、また作ってね。」と笑ったら、長男は、「そういう問題?!」と言いつつも笑っていた。


「形あるものは、いつかその形を失う」

これは、家の中で一番お皿を割る、自分への言い訳であり、慰めでもあるのかもしれない。

そして、いつか必ずどんな人間も、今の形を失うのだよ、と自分に言い聞かせているのかもしれない。


粉々にならず、綺麗に割れた食器は、捨てずに保管してある。
金継ぎに挑戦し、失った形から新たな形へと姿を変えるのも良いかもしれないと考えている。

きっと人間も、今ある形を失っても、違う形で何かを遺していくのだろう。

私は、何を遺せるのだろう。

割れたお皿を眺めながら、そんなことを考えている。





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