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漫画みたいな毎日。「子どもたちが私を素直なこころにしてくれる。」

新年になっても、子どもたちは、変わらず元気だ。

そして、兄弟喧嘩も、兄妹喧嘩も、相変わらず。しかし、基本的には、喧嘩の仲裁をしないように気をつけている。喧嘩になる時は、それぞれに言い分があり、どちらの味方をすることも、ジャッジすることもできないから。

余程、目に余る実力行使があった場合には、「そろそろ終わりにしてもいいんじゃない?」と止めることもある。我が家の子どもたちは、それぞれ4歳の年の差。力での喧嘩となると、言葉での喧嘩以上に、その差は歴然だ。

ある時、末娘が何か兄たちと喧嘩し、二人から責められてしょんぼりとしていた。原因はよくわからない。何か細かいことで、二男の言うことを聞かなかったらしい。末娘に対する二男の言いたいことは、「まぁ、そうだねぇ・・・」とわからなくもない。しかし、そこに長男ものっかり、面白半分で末娘が嫌がるような言葉を投げ掛け続けている。

二対一の構図が、気になり、「二人で責めなくてもいいんじゃない?一人が言えばわかるんだから。」と、つい口を挟んだ。

すると、すかさず、長男が、「お父さんとお母さんだって、自分に対して、そいうことがあるのに、人のこと言えないじゃん。」

正論である。

長男は口が達者だ。それが、時として、「正論の混じった屁理屈」にしか聞こえないこともあり、夫と言い合いになっている時、私が夫側について加勢してしまうことがある。逆のパターンもある。おかしな理屈をこね続けるので、聞いていて不快になり、会話を早く終わりにさせたいと思ってしまうのだ。

二男にも、「それは、おかしいと思う。」と言われてしまった。

正論である故に、無性に腹が立った。

正論とは、場合によっては、厄介なものだと思う。相手に、謝ったり、考える余裕を与えない。

自分を弁護する訳ではないが、突きつけられると苦しいばかりで、その局面から抜け出すことばかり考えてしまう。相手が明らかに間違っている場合においても、相手が否を認めやすい空気、伝え方、というものが存在しているはずだ。

でも、それは、私がそういう空気や伝え方を求めているだけであって、どんなに正論を突きつけられ、責められても、素直に謝ったり受け入れることができる人もいるのだと思う。

正論が痛すぎて、キャンキャンと吠えてしまいそうになったが、ぐっと堪えて「これから、気をつけるようにする。」と答えたものの、素直な気持ちで「そうだよね。気をつけるよ。」と言えなかった。


そして、正月二日。

またもや、兄妹喧嘩が勃発。

末娘が勝手に二男の大事なものを触って、自分の引き出しにしまっていたということだ。

末娘は二男が好きだ。そして、兄たちの持ち物は興味深く、キラキラと光ってみえるのだろう。時々、触ったり、その辺に置きっぱなしになっていると、自分の引き出しにしまったりする。末娘のいつもの言い分はこうだ。

「無くなったら困るから、しまっておいた。」

その言い分もあながち嘘でも、間違ってもいないと私は思っている。男子たちは、大事なものでも、片付け忘れ、放ったらかしにしている事が多い。末娘は大事なものは、さっさと自分の引き出しにしまう。だから気になるのだろう。

しかし、今回は、普段は温和な二男も何の加減か怒り心頭の様子で、しつこく末娘を追い詰め、怒っていた。力の差はあるので、末娘は台所の隅っこに追い詰められて泣きそうになっている。

「あのさ、そうやって圧力かけたら、怖いでしょ。ちゃんと話せばわかるんだから。」と、口を挟んだ。

普段は、兄妹喧嘩を仲裁しないので、自分の分が悪くなっても、小さい人も私に助けを求めることはない。たいしたものだと思う。真っ向からお互いに向き合う。でも、あまりにも高圧的なのは、私自身が見るに堪えなくなり、仲裁した。

「妹のやったことが嫌だったいうのは、わかるけど、そのやりかたじゃ、伝わらないよ。」と私は言った。

すると、二男から、返って来たのはこんな言葉だった。

「お母さんは、わかる、っていうけど、本当にわかってるって言えるの?」

ショックだった。

それも正論だと思った。確かに、彼の立場に立って想像する努力はしているが、違う人間である以上、私は彼の気持ちをわかり得ないのだ。

しかし、「わかろうとしている努力」まで否定された気がして、ワナワナと怒りが込み上げてきたのだ。それも、私の勝手な感情なのだとわかりながらも、怒りスイッチが入ってしまった。

「あぁ、そうだね。わかんない。私はアナタじゃないから、わかろうと思っても、わからないかもね。努力はしているつもりだけど。」

我ながら、大人気ない。

そして、お風呂に入りながら、二男はさめざめと泣いてたようで、その言い分を長男が聞いてやったようだった。怒りと虚しさが入り混じり悶々としていた私に、風呂上がりの長男がこう言った。

「あのさ、お母さんには妹がいないのに、わかるのかな、って思っただけなんだって。だから、お母さんを責めたり、お母さんに対して怒っているつもりじゃなく、軽い感じで言っただけなのに、って泣いてる。」

完全に私の思考の癖だ。自分が全否定された気がしてしまったのだ。

確かに、私には、妹も弟もいない。

そして、安易に「わかる」といって、喧嘩を収めようとしたのも事実だった。

日々、できるだけ、「わかる」という表現で同意しないよう意識している。お互いに違う人間であり、「わかり得ない」と思っているから。

でも、この時は、末娘の怯えた顔が辛くて、早く場を収めたかった。小さい時に、自分が姉に怒られたり責められたりした記憶と重なったこともあったと思う。

そんな事も、すべて見透かされたような気持ちがした。

二男はお風呂から上がっても、私の顔をチラチラと見てはメソメソしていた。私は、なかなか素直になれなかった。「怒ってごめんね。」と言えばいいとわかっているのに。

勝手に腹を立てて怒っている自分が情けなくて、その自分を認めることに、時間がかかる。

もはや、二男に対して怒っているのではなく、「わかる」ということを安易に言った自分に対しても怒っていた。そして、「本当にわかってるの?」と言われて、少なからず傷ついてもいたのだと思う。

自分の気持ちが上手く整理できず、その日は謝ることができなかった。

翌日、何事もなかったように「おはよう」とニコニコと起きてきた二男の顔をみたら、頭で考えるより先に、ふんわりと抱きしめたくなった。

「昨日は、怒ってごめんね。」

その時、二男がどんな顔をしていたのかは、わからない。

わかるのは、謝って救われたのは、私の方だということ。

二男は、私に「謝る余裕」をくれる。

私が「素直になれる空気」をどこかに持っている。

間違ったことがらを、許してくれる、彼にそんな懐の深さを感じる。

私はそんな二男に甘えて怒らせてもらっているのかもしれない。甘えてばかりで、彼の邪魔をしないよう、気をつけなくてはいけない。

そんな自戒を込めて、自分の言動をここに記録することにした。

〈自分は、ああいう大人には成りたくない。〉

そう思った頃の気持ちを忘れないように。

先日、自分で作った天体望遠鏡。





学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!