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不登校を推奨しなければ子どもに合った学びはできない

こんにちは、トキワです(Twitter:etokiwa999)。

最近はずっと数学の勉強が楽しくて文章書くのを忘れてました。今回は「理想の教育」について書きます。壮大なテーマです笑。

理想の教育は勉強よりも趣味を重視すること

私にとって理想の教育とは「その子の才能and/or好きなことをいち早く発見し、その才能and/or好きなことに合った環境を提供し学んでいくこと」です。

「and/or」とは「才能と好きなことの両方(and)」と「才能か好きなことのどちらか(or)」という意味です。なので、才能がない場合は好きなことを重視し、好きなことがない場合は才能を重視する、ということです。

好きなことをやってたら才能になってるかもしれないし、才能をいかしてたら好きになってるかもしれない、という前提に基づいています。

これを端的な表現でいえば「個別最適な学び(アダプティブラーニング Adaptive Learning)」と言います。その子(個別)の才能and/or好きなことに最適なものを提供するということです。

※ちなみに拙著「悪者図鑑」でも書いてますが、大前提として愛着形成はちゃんと行われている状態です。そもそもこの愛着形成ができてない人が現状大多数なのですが、、、。

この時点で多くのものを否定することになります。

不登校対策も算数の単元を戻ることも「個別最適な学び」ではない

まず画一的な一斉授業は全否定します。

「その国の言葉」はその国の人とコミュニケーションをとるために全員にとって必要な「基礎学力」だとしても、それをみんなが同じタイミングに同じ方法で学ぶ必要があるとは思いません

例えばひらがなや駅名に使われる漢字は知っておかないと困りますが、あるレベルの本を読むために必要な漢字はその子が必要だと思ったときに学べばいいです。

もちろん、画一的な一斉授業のほうが合う子もいるでしょう。しかしMITメディアラボの伊藤穣一氏いわく、授業中の生徒の脳波を測定すると睡眠中よりも動いてないことが分かっています笑(以下26分ごろ)。

つまり日本の学校で行われてる授業の時間で眠くなるのは何もおかしいことではないのです。

ここで文部科学省における「個別最適な学び」を見てみましょう。おおむね全体の方向性については同意できる部分も多いのですが、高校生の部分(27p)を見てみると以下のように書かれています。

学習の遅れがちな生徒などについては、各教科・科目等の選択、その内容の取扱いなどについて 必要な配慮を行い、生徒の実態に応じ、例えば義務教育段階の学習内容の確実な定着を図るための指導を適宜取り入れるなど、指導内容や指導方法を工夫すること。

文部科学省「個別最適な学びと協働的な学びの一体的な充実に関する参考資料

おそらく私は日本の中ではかなり過激的な教育論者なのですが笑、義務教育(=全員にとって生活上知っておかないと困る知識)は小学校4年生ぐらいまで(分数の知識)で十分だと思っています。

またデジタル庁や戸田市教育委員会に所属する横田洋和氏は以下の発言をしています。

データ分析を通じて、「どのようなデータがあると予測精度が上がるか、どのタイミングで予測し支援につなげることで不登校を防げるかが検証できれば」

不登校児支援へ埼玉・戸田市が教育DB構築、課題は不ぞろいのデータ

「不登校を防ぐ」という発想は、不登校は悪で、学校に来ることが善、という前提に基づいています。個別最適をすれば「学校での学び」が合わない子もいるはずです(この部分は後述します)。

また、個別最適な「学び」をどうしても5教科で考える人も多いです。アダプティブラーニングの代表的なサービスとしてよく挙げられるのが「アタマプラス」ですが、算数や英語のつまづき部分をAIが可視化して学んでいくというものです。

算数が好きじゃない・必要だと思わない子もいれば、英語を将来使わなくていいと考えている子もいるはずです。ここで言う「個別最適」というのは、「それぞれの子どもに合った」ではなく「算数・英語を学びたい子どもに合った」学び方を提供しているにすぎません。

子どものため、とうたいつつも、結局大人の理想(私も大人ですが笑)を子ども押し付けているのが現状です。これは個別最適な学びではありません。

ではどうしたら個別最適な学び=「その子の才能and/or好きなことをいち早く発見し、その才能and/or好きなことに合った環境を提供し学んでいくこと」ができるのでしょうか?

私の過激的な(笑)考え方を共有します。

数学で考えると、教育とは何か分かりやすくなる

まず子どもの特性(才能and/or好きなこと)を分析する必要があります。

例えば
・どんなことに興味を持っているのか?
・趣味は何か?何が好きなのか?
・どんな遺伝を持っているのか?

教育とは「XでYを学ぶ」ことです。(数学的に書けばY=AXです笑)

少し前のの学校教育は、5教科で(Xで)客観的知識(Y)を学ぶことでした。その結果、受験に勝ち、大企業や公務員での安定を勝ち取ります。

最近は少し変わって、5教科で(Xで)非認知能力(Y)を学ぶことになりつつあります。非認知能力は例えばコミュニケーション能力や論理的思考です。

空手や水泳などの習い事の場合は、空手で(Xで)非認知能力(Y)を学んでほしい親が多いでしょう。この場合の非認知能力は例えば「粘り強さ」です。

今の中学受験は、5教科で(Xで)受験合格のための知識(Y)を学んでいます。子どもと親によっては中学受験がつらすぎて、結果的に空手と同じように非認知能力を学んでいるかもしれません。

プログラミング教育は、プログラミング(Xで)論理的思考(Y)を学ぶことを想定としていますが、将来IT企業で働いてほしい=稼げる労働者になってほしい(Y)、と思っている人もいるかもしれません。(残念ながら将来プログラミングはかなりの部分自動化されますが。)

英語教育は、英語で(Xで)グローバル(Y)を学んでもらうことを想定していたかもしれません。結果は、一部の子どもにとっては留学や海外進学はトレンドになりつつありますが、大多数は、義務教育で英語を取り入れても、クラスで外国人をいじめの対象にしているので、Yは失敗しています。

ブラック校則をなくそうプロジェクトより

古代ギリシャ・ローマ時代の「リベラルアーツ」の場合は、三学四科で(Xで)自由(Y)を学んでました。その当時は奴隷がいて、奴隷ではない自由人は三学四科(文法学・論理学・修辞学・幾何学・算術・天文学・音楽)を学ぶことで「自由に生きる技術(リベラルアーツ)」を得ていました。

さて、ここで個別最適な学びの場合、このXとYは何になるのでしょうか?

特にYの部分は時代によって変わります。奴隷がいた時代、受験戦争の時代、AIによる自動化の時代(非認知能力重視の時代)、それぞれの時代ごとに社会で生き残れるand/or幸せになれる要素は違いました

非認知能力であればルーブリック(参考:法政大学のひな型)やコンピテンシーという考え方があります。コンピテンシーは教育業界と最先端の人事業界では違います(以下)

文科省:教育課程企画特別部会論点整理補足資料
「人を選ぶ技術」著者インタビューより
未来人材ビジョン:人材需要の変化
ブルームタキソノミーはコンピテンシーよりも社会のことを反映してるかも


私の今考えているYとは、愛(Love)です。自分を愛すること、自分の大事なものを愛すること、その結果、他者を愛し、愛したいコミュニティを作ることです(詳細は後述します)。

ではそれはどんなXでなら達成できるのか?それがその子の特性(=才能and/or好きなこと)です。その子の特性を優先できなければ、その子の自己肯定感は低くなってロボットになるでしょう。その詳細は以下に書きましたので今回は省きます。

まとめると、その子の特性で(Xで)愛(Y)を学ぶことです。

では次はさらに具体的に見ていきます。

遺伝を重視しても格差は生まれない

遺伝によって人の多くの部分が決まっていることが分かってきました。

詳細は以下の記事を見ていただければと思いますが、例えば肥満や知能も遺伝がある程度影響してきます。

そのことからダメな遺伝と良い遺伝を決めて、遺伝が分かれば格差に繋がるとよく言われます。知能の低い人とは結婚もしないし、仕事で採用もしない、というように。

しかし、それはとても狭い古い考え方によるものです。

まず知能だけが高ければ本当に「優れている」と扱われるのか?私は違うと思います。知能が高くても鬱陶しいと思われる人はたくさんいます。

また、肥満な人が優れた成果を何も出さないのか?結婚の対象にならないのか?それも大いに間違っています。

あくまで遺伝とは特性・特徴にすぎず、活かせる環境があるか、受け入れてくれるコミュニティがあるか、とセットで考えないといけません

また「子育ての大誤解」という本では、親による教育は影響がなく(遺伝のほうが影響があり)、家以外の場所ではその場所での役割を演じる(集団社会化説)、という研究が紹介されています。

つまり学校なら学校、塾なら塾、部活なら部活、友達の家なら友達の家でのキャラを必要に迫られて持つことになります。

ここから私が解釈したこととしては、その子が環境を意識して選ばないと、いつのまにか合わない環境や合わせてはいけない環境に合わせてる可能性が生まれるということです。

例えば、内向的な子が、「研究職」という場所があれば黙々と作業でき、一方で「陽キャ」が評価される場所ではできるだけ「陰キャ」にならないように無理して演じるかもしれません。

上記ビッグファイブを遺伝子検査で可視化するサービスもある(参考

まとめると、遺伝はあくまで環境次第では評価されるということと、その環境の中で役割がある程度決まりやすい、ということです。

逆に言えば、早く自分の遺伝を知っておくことで、早く自分の強みを理解して活かせる場所を選ぶことができます。それはまさしく多様性の始まりです

不登校を推奨しなければ個別最適な学びは不可能

ここまで書けば、いかに学校が不自然な場所か分かると思います。

しかも学校ではグループワークやプレゼンなどひたすらコミュニケーション能力を求められることが多くなってきました。

では遺伝的にコミュニケーション能力が高くて、知能も高い子どもはどれぐらいいるのでしょうか?皆さんの学校での体験を思い出せば少数派であったことがわかるでしょう。

「XでYを学ぶ」ことを考えても、X(才能and/or)が例えば乗馬や将棋だとしたらどうでしょう?どの地域の学校でも、乗馬や将棋を朝から晩までできますか?できません。

なので本質的に個別最適な学びを行う場合、学校に週5日、朝から夕方までいく、ということは合わないわけです。どう考えても合いません。

加えて、最近は大学入試で総合型選抜(旧AO入試)という選択肢があります。筆記テストよりもその生徒のそれまでの活動を重視し、その活動が大学にとって欲しい人材であれば受け入れる、というものです。

とあるAO入試対策塾の人に聞いたところ、国公立のAOは研究者、私立大学のAOは起業家や社会貢献のできる人材を求めてるとのことでした。もちろんケースバイケースだとは思いますが、想像できそうな話です。

さて、「生徒のそれまでの活動」ですが、それを深く集中して行う必要がある場合、どれぐらい時間が必要でしょうか?学校の放課後や土日だけで足りるのでしょうか?分野によっては全然足らないでしょう。

大学側からしても、学校で提供される「お金で買える画一的な特別な活動」をAO入試の際にプレゼンされても「またSDGsか、、、」と個性を感じなくなります。

大学受験のトレンドは企業採用のトレンドでもあります。そして大学受験のトレンドは中学受験のトレンドにも影響します。なので社会的なニーズから考えても、週5日1日数時間の学校は合わないのです。

AIに負けないのではなく、AIと一緒に学んでいくことが大事

もし遺伝の特性も分かっていて、なんとなく自分の好きなことや興味あることも分かっていたとしましょう。

それに合った教材を学校以外でどうやって探せばいいのでしょうか?図書館でしょうか?

今の30歳以下の人にとっては愚問でしょう。インターネットです。

単純にGoogleで「乗馬 イベント」などと検索すれば、乗馬に関するイベントを検索できます。それでイベントに参加すれば同じ参加者と知り合いになることができ、そのコミュニティの先輩から様々なことを教えてもらえます。

本を読むのが苦手な人や、地方にいて簡単に体験できる場所が見つからない人は、YouTubeで動画を探せば分かりやすいかもしれません。

検索結果はだいたいAI(正しくは機械学習・深層学習)が使われています。自分のWeb閲覧の履歴から、知りたいであろう傾向をAIが予測して表示してくれています。

そして好きなことを学んでいると、結果的に5教科の基礎学力が必要になってきます。言葉の意味や文章の読み方、お金の計算方法やデータ分析、生物・化学・物理の繋がり、歴史・地理・制度から受ける影響、海外ではどうなっているのか?

好きなことを愛し、好きなことを大事にしている自分を愛して、探究していくからこそ基礎学力も結果的についてきます。

私は「社会問題」が面白くて、20代の10年間ずっと探究してきました。その結果「悪者図鑑」という商業出版もしました。その際にはずっとインターネット検索をしていましたし、SNSで色んな人を紹介してもらえました。

小中学生のときは「カードゲーム」が好きで、インターネットで検索して、色んな場所のカードゲーム大会に参加しては、同じ参加者の高校生や大学生から色んなことを教わりました。その際には学校にはあまり行ってませんでした笑。

学校と先生の役割は、協働学習への繋がり

「週5、1日数時間学校にいかず不登校推奨」、これだけ聞けば学校や先生はいらないのか、と感じるかもしれません。しかしそうではありません。

もう次の時代の学校・先生が必要になっています。その次の時代の学校・先生になれないのなら、すべてインターネットに置き換わり、前の時代の学校先生はひたすら「不登校の生徒はダメだ」と不平不満をもらすだけでおわります。

もしそうなりたくないのなら、いくつか必要なことがあります。

まず遺伝の特性を知ると、自分の弱みが当然ながら分かります。ビジネスが好きなのに計算は得意じゃないとか、サッカーは好きなのにコミュニケーション能力が低いとか。

それは逆もしかりです。計算は得意、コミュニケーション能力は高い、けど他のことが苦手。そんな人で溢れています。それをお互いに補い合うのです。これが本当の意味での協働学習(チームワーク)です。

自分を愛し、自分の好きなことを愛し、その結果他者を愛し、愛したいコミュニティができる、と書いたのはこのためです。

つまり自分のできないことをできる人を大事にしていこう、そのためには自分のできること・好きなことをしっかりやろう、ということです。逆にいえば一人でまんべんなくやってると、強みも弱みもないので協力する必要性がいつまでも分かりません。

学校は強みと弱みの凸凹した人たちが集まる場所です。集まる回数は子どもによりますが、どのタイミングで他の人を必要とするかは子どもの好きなことによって変わります。

まず自分の好きなことを研究したり練習したりする必要があります。そもそも将棋のルールを覚えないといけませんし、サッカーはシュートの練習が必要でしょう。

よく学校では先にコミュニケーションを求めようとしますが、他者との協働はその後です。

次に必要なことは、先生が生徒に対してクリティカル(Critical)な質問をする、ということです。

生徒が自分の好きなことを何も疑わずにやっていたとしたら、必ずどこかで躓きます。生徒の見てる視点の一つ上の視点で別の仮説や選択肢を提示することが重要です。メタ認知として最近やっと知られるようになってきました(私はカードゲームをやってて小中学生のときに知りました)。

そしてもう一つ個人的にはできたらいいなと思うのは、生徒と同じように、先生自身も各教科・科目の探究者・研究者となり、専門家として生徒からの疑問・質問に答えられる状態にしておく、ということです。

例えば生徒が乗馬が好きなら生物、将棋が好きなら数学(組み合わせ)、サッカーが好きなら体育などなど、深い専門的な質問に大学の先生レベルで答えられるようにしたほうがいいでしょう。

最近話題になったChatGPTはそのレベルの解像度で答えることができませんし、生徒の背景をデータ以外で知ることはできないので、文脈に依存して答えることができません。

これからの学校・先生は大変だなあと思うかもしれませんが、残念ながらそうしなければ先生の仕事はありません。

才能も好きなものもない場合どうしたらいいか

だいたい人の場合、「自分は才能も好きなものもない」と言ってる場合は、気づいてなくて思い込んでるか、別の価値観を刷り込まされてるだけです。

自分にとって当たり前のことはだいたい才能です。自分の当たり前を人に見てもらうことで初めて「そんなことに興味あるのか!」と言われます。

「別の価値観の刷り込み」というのは、例えば親から好きでもないのに「将来~~になりなさい、そのためにはこれが必要」と言われてる場合です。自分の感情に蓋をして、好きなことが何なのか分からなくなっています。

そういう考え方の話ではなく、重度の障がいの人などの場合どうしたらいいか?もちろんそれでも活かせる場所はあり(事例)、テクノロジーの進化によってどんどん変わって行くのですが、それでもどうしても格差の下に追いやられてしまう人がいるのだとしたら別の解決策があります。

これももしかしたら過激かもしれませんが笑、好きなこと・できることがある人にたくさんひたすら稼いでもらうことで、社会保障・公共サービスが税金をとおして充実します。その充実した公共サービスをフルに使ったらいいのです。

だから好きなこと・できることがある人は、そうじゃない人を愛し、そうじゃない人は好きなこと・できることがある人を愛す。その結果、お互いに尊重しあって、お互いが別の場所で幸せになることができます。

格差は広げて、税金として回収することで初めて、みんなにとって意味のある格差になるのです。

ということでこんな過激的かもしれない個別最適な学びと協働学習の考えをもって、4月より以下の授業を行っていく予定です。



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