Orangestar氏の楽曲から考えた「信仰と芸術」の話

Orangestar、という作曲者がいる。
インターネットを中心に活動する音楽プロデューサー。VOCALOID楽曲を聴く人で、その名前を知らない人はいないだろう。

2020年5月21日、彼はおおよそ二年と九ヶ月ぶりにVOCALOIDの新曲を投稿した。

曲名は「Henceforth」、日本語に訳すならば「これからは」だろうか。

美しいピアノの旋律から始まり、曲名通り「これから」についてを清々しくて前向きな感情で表現している。ストレートな曲調と歌詞の良さが、彼の才能を存分に感じさせる。

ところで、先ほど旧約聖書の創世記を閲覧していた折、創世記の8章21、22節、"ノアの箱舟"の口語訳部分で、以下のようなフレーズを見つけた。

"I will no more henceforth curse the ground on account of Man,for the thought of Man,for the thought of Man's heart is evil from his youth;and I will no more smite every living thing,as I have done."
"Henceforth,all the days of the earth,seed and harvest,and cold and heat, and summer and winter,and day and night,shall no cease."
(Darby Bible Translationより)

口語訳した人によって全然使う言葉は変わってくるし、そこから着想を得たなんて言えばこじつけも良いところだ。勿論そんなことは思っちゃいないけれど、思い出したように楽曲を聴き直してぼんやりと思ったことは「やっぱり彼の曲は、彼自身の信仰と深く関わりがあるのだろうか」ということだった。

これは僕が彼の楽曲を聴き始めた頃からずっと思っていたことなのだけれど、彼の曲はとても綺麗だ。
もっと言うと、何かしらの試練に対し、非常にシンプルかつ綺麗な前の向き方をするものが多い。


Orangestar氏はとある宗教の会員であり、音楽活動休止の理由も、カリフォルニア州での宣教師としての奉仕活動であった。

この教会の大きな特徴として、多くのルールがあるということが知られている。
有名なものとしては、「結婚前の性交渉」「自慰行為」が固く禁じられていることや「肌の過度な露出の禁止」「アルコールの禁止」などがある。

それを踏まえて彼の楽曲を見てみると、なるほど、性的な欲求を匂わせるような歌詞は全く存在しない。動画のイラストを見ても、過度な露出をしている女の子はいない。そしてなにより、歩みを進めれば救われることを信じているような晴れやかなリリック。
そういうことを徹底している、というわけではなく、それが当たり前なのだろう。そういうルールが自分の中にあるから、自然な形で、それが動画に現れている。


宗教的なアイデンティティや、マイノリティ等を芸術に昇華させているのではないかと考えられる人間は少なくはない。

例えば映画「ボヘミアン・ラプソディ」の主人公であるフレディ・マーキュリーはゾロアスター教の教徒であったと言われているし、彼を演じたラミ・マレックもコプト教徒としてのアイデンティティに悩んでいたことを告白している。(ちなみに移民の子であるという点でも共通している。)
フレディの宗教と彼の人間性・音楽性を絡めて考える記事は少なくないし、マレックが彼の役をこなせたことは、似たマイノリティを抱えていたからだと論じる人間も一定数いる。

Orangestar氏も、自身の奉仕活動による作曲の休止を「創作意欲の補給」や「休止じゃなくて(もっと良い作品を作るための)訓練期間」などと述べている。

彼のツイート等を参照しても、(僕の勝手な解釈かもしれないが)彼の創作活動は「自分の信じるもの」の表現なのではないかと思わされることが多々ある。

そういう背景を考えることが正しい芸術の楽しみ方なのかどうかはわからないが、芸術を楽しむ人間がその創作における背景まで考えるのは、決して悪い行為ではないだろう。むしろクリエイターの人間性などに着目するのは僕等がふだん至極当たりまえに行っている行為だ。その"人間性"を構成するものとして、それを持つひとにとってたぶん信仰は大きい。
僕もOrangestar氏の宗教についてほとんど何も知らないし、極端な言い方をすればそれが正しいのか正しくないのかも全くわからない。
しかしながら彼の詞は彼の信じる者がなければ生まれなかったわけだ。それは間違いない。

ファンが多いが故か、彼の動画のコメント欄やtwitterやその他のブログで、いわゆる"楽曲考察"のような行為をしている人が多い。けれど、彼の楽曲にある程度明らかに表れているにも関わらず、彼の信仰と絡めて論じる人間は少ないように感じる。
宗教という存在とあまり縁のない人間が多い国だし、僕も余程のことが無きゃそこに着眼することはないが。

認める認めない、なんて話はわからないけれど、彼の楽曲を構成する要素としてそれがあることを、事実として考慮しておく必要があるかもしれないな、と思った。彼の楽曲を深く「知りたい」と思ったのなら。





(楽曲をはじめとした解釈について、僕の思い違いやイメージの逸脱が見られた場合にはご指摘いただけると幸いです。)

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