毎日走ることは、毎日生きること

2019年元旦から毎日走ると決めて、2019年7月14日時点で195日目。
本当に一日も欠かさず走っていて、雨だろうが体調が悪かろうが旅行に行こうが飲み会の後だろうが関係なく走っている。

一日たった3kmだけど、もう600km近くまで来た。
つまり、2018年の僕はもう600km後ろにいるのだ。
Googleマップで見てみると、東京駅から姫路駅ぐらいの距離らしい。
驚きだ。

でも、僕はマラソン選手ではないし、今は特にスポーツをやっているわけでもない。
去年までやっていた野球はきっぱり辞めたし、マラソン大会に出る予定も特にない。

そして、僕の仕事は編集者である。
文章や写真と日々向きあって、渾身の記事やメディアを作る仕事。
要するに、今の僕の生活とランニングは、全くと言っていいほど関連性がないのだ。

では、僕はなぜ来る日も来る日も走っているのか。
全てのことを優先して、なぜランニングを選択しているのか。

ダイエットのため?違う。
健康のため?それも違う。
好きだから?そんなことはない。
むしろ、走らなくていいなら僕は走らない。

もう、「生きるため」としかいいようがない。

全員の想いを受け止めるため

僕は、編集者という仕事が大好きだ。
この仕事が天職だと思ってるし、今後違う職業に就いたとしても何らかの形で”編集”は続けていくのだろう。

編集者は、色んな人の間に立っていて、それぞれの想いを汲み取って一つの作品を作っていく。
一つの記事にはそれだけ多くの人の想いが詰まっているのだ。

その想いを殺さぬよう、また、最大限反映できるよう努めるのが編集者の責務。
そのために、僕は「心と頭と体を常に研ぎ澄ませてなければいけない」と本気で思っている。

記事は、編集者だけのものではない。
メディアも、編集者だけのものではない。
それぞれの想いを全て受け止めるため、僕は自分自身を研ぎ澄ます。
だから、ランニングなのだ。

毎日毎日自分の体を研ぎ澄ませ、時には鞭を打ち、いつでも受け止められる状態を作ろうとしているのだ。
大げさではなく、かっこつけてるわけでもなく、本当にそう思いながら走っている。

実際、195日前に比べて、随分と記事やメディアに対する見方が変わった。
かなり細部まで意識してメディア制作をできるようになった。
600km走っていなかったらたどり着けなかったと思う。

何かを続けられる人になるため

2018年まで、僕は何も続けられない人だった。
超飽きっぽい性格のため、何かにハマるのも早いけど飽きるのも超早い。
一週間寝食を忘れて取り組んだことも、二週目になると元に戻ったかのように視界から消えていく。

Instagramの図解アカウント、自炊、noteの更新、ブログの運用、語学学習など、「毎日やる!」と決めたものに限ってすぐにやめていた。
ランニングも、毎日走ろうとしたのはこれが初めてではない。実は3回目。
2回とも毎日10kmを試みたけど、1回目は30日目くらいにお酒に負けて、2回目は45日目で足が限界に達していたのだ。

そんな、何も続けられない自分が嫌になっていたんだ。
27歳にもなって何一つ続けられない自分が。
実際、一社目も2年少しで辞めちゃったし。

だから、今回こそは続けようと思って、続けられそうな3kmに設定して走っている。
これはもう、意地だ。
「3kmさえ続けられないなら、お前は何も続けられない」と、自分にプレッシャーをかけるようにして。

また、今年は、自分の退路を断つために、自分以外の人に約束した。
元旦に約束した。

「毎日続けます」って宣言したことほとんどやめちゃったけど、ランニングだけは続けている。
意地でしかない。

そんな僕の姿がかっこ悪く思われても、そんなの知ったこっちゃない。
何かを続けられる人になるためだ。

生きるため

195日もあれば、いろんなことがある。
嬉しいこと哀しいこと、楽しいこと悔しいこと、何も感じないこと。

僕は夜に走ることがほとんどなので、一日のことを振り返りながら走ることが多い。
今日の反省や、明日の楽しみ、将来への漠然とした不安など、さまざまな感情が交差する。

でも、走り終わったあとの僕の感情は一貫している。
「生きてる!」という感情だ。

普段の僕を知っている人からすると想像できないほど、ギラギラしている。
体の奥底から燃えたぎっている。
嬉しい日はその嬉しさは身に染みるし、哀しいときはそれを乗り越えようと活力が生まれる。

また、毎日毎日走っているという事実は、僕を励ましてくれる。
何があろうと毎日3kmずつ前に進む僕は、客観的に見てもかっこいい。
何かうまくいかなかったことがあっても、自分を励ましてくれるのはいつだって僕の足だ。


つまり、僕は、走っている間は生きていられる。
何があろうと、走ることが生きること。

どこに向かっているのか時々わからなくなるけど、それも含めて「走る」ということなのだろう。
走ることで、僕が生きていることを自ら証明していこう。

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