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究極の平常心を求めてー「弓と禅」

本日はこちら、『弓と禅』について紹介したいと思います。

apple 創業者のスティーブ・ジョブズも読んだと言われる、禅の入門書です。

禅というものは、自我をなくすことを趣旨とすることから、自我からの認知を起源とする西洋(ギリシャ)哲学とはまったく異なる思想ですので、西洋人が理解するのはたいへん難しいと言われます。

しかし、この本『弓と禅』はドイツ人哲学者が禅の思想にふれるために、弓道の鍛錬を通じて禅の精神を獲得していく過程を丁寧にえがいています。

そのため、禅の哲学の入門書として、もしくは日本思想、哲学の入門書として世界からとても親しまれています。

では、紹介していきたいと思います。

はじめに-釈迦の手のひらの孫悟空-

皆さんは、孫悟空とお釈迦様の知恵比べの話をご存じでしょうか。

西遊記の一節で、こんな内容です。

釈迦「悟空。ひとつ賭けをしませんか?私の手のひらからあなたが飛び出すことができれば、あなたに天界を譲り与えましょう。どうですか?」

悟空「そんなの簡単さ!手のひらどころか、世界の果てまでいってやらあ!」

このように豪語するのも当然、孫悟空は無敵の体を持ち、筋斗雲の術で世界の果てまで飛べる大きな力を持っていたのです。

悟空は筋斗雲に飛び乗り、世界の果てを目指しました。しばらくすると、雲の間に5本の柱が立っているのが目に見えます。

悟空「ふーん、これが世界の果てか、意外と簡単なものだな。さて、ここまで来たあかしに名前でも書いていくか。」

悟空は、自分の毛を1本抜いて筆に変えると、まんなかの柱に「斉天大聖」(孫悟空の異名)と記しました。

そうして、孫悟空はお釈迦様のところに戻って行きました。

孫悟空「俺様は今、世界の果てまで行って来たぞ。しかも、そこにあった柱に、斉天大聖って書いてきたんだぜ。疑うんだったら一緒に見に行ってもいい!さあ、天界をオレによこせ。」

釈迦「なるほど。それでは私の手のひらをよくご覧なさい。」

悟空は目を凝らしてよく見てみると、釈迦の手の中指には「斉天大聖」と書いてありました。

お釈迦様の手のひらから飛び出して 世界の端にたどり着いたと思っていたら未だお釈迦様の手のひらのなかに居たのです。

納得のいかない悟空でしたが、罰としてお釈迦様に閉じ込められてしまうのでした。

***

自分の過信から正しいことにに気づけず、その代償に罰を受ける、というこの話には多くの教訓が含まれています。

そのなかでも、真理というものは、自分の内側からはよくみえないものだということがこの話からもわかります。

それと同じように、禅という思想は内側から理解することがたいへん難しい。


ではどうやって真理、すなわち禅を学べばいいのか。

古来より、日本人がそれを学ぶためにとってきた手段として、剣道、柔道、弓道といった”道”があります。

弓と禅』はその中のひとつ、弓道の鍛錬を通じて真理である禅にたどり着く、その道についてを描いたものなのです。

あらすじ

それでは、弓と禅の具体的なあらすじに触れましょう。

この本では、ドイツ人哲学者である著者ヘリゲルが弓道を体得していくなかで、弓道の師からいくつかの課題が示され、その課題に取り組む中での苦悩と挫折をも同時に描いています。

弓道を学ぶ上での課題は大きく3つのステップに大別されました。

①引き分けと呼吸法
弓を引くのにあたり、筋肉の力を抜いたままで引くこと。
②離れ
矢を離す動作を意識せずに行うこと。
③的前射
的を狙うことを意識せずに的に向かって射ること。

ひとつひとつの動作に特別なことはありませんが、いずれもその動作を体得するのはたいへんな労力を必要としました。

また、動作のひとつひとつが自分の意識を弓から離すこと、すなわち無我の境地に達することを目的としています。

特に、離れを体得するにあたり、著者ヘリゲルはたいへんに苦労し、意識を捨てることを一度は諦め、技巧を凝らして上手に弓を射ることに固執した結果、師から破門まで告げられる始末。

その後もなんとか稽古を続けるなか、未だに無我の境地を信じきれない著者に対して、師が示す夜中の道場シーンには深い感動を覚えます。

これは、ぜひ本書を直接読んで体感してもらいたいところです。

こうした一連の課題を達成する中で、著者が得た禅の感覚を私達読者も追体験できるようになっています。

そういった本書の構成は、禅という言葉にできないものを理解するのにとても役に立ちます。

無我の境地

さて、ここで示される無我の境地とは一体なんなのでしょうか?
(テニスの王子様を思い出したのはぼくだけではないはず!笑)

本書では無我とは執着を捨て、自分自身から離れること、その結果としてどんなときでも平常心を保つことができる極めて自然体の状態のことと説明しています。

禅を修めたものは、世界と一体になった感覚を身につけることができるのです。

ちょうど弓を修めた著者と師が別れの際に離れていても心はひとつだ、と言ったように。

***

日本社会というのは無意識ながらもこの禅の思想に影響を受けています。

例えば、自分自身に執着しないから、空気を読んで全体調和を図ることができる。
いまだったら、自粛という行動でコロナを鎮めることができたのは世界からは驚きの目で見られていますが、いかにも禅に影響された思想とも考えられます。

別の面から見ると、世界大戦時の特攻や、戦国時代の切腹の慣習など、自身の命を顧みない行動をとることもある意味、禅の思想が影響していると考えられます。

思想にはどんなものでもいいところも悪いところもあり、戦時の特攻などは、美談と言い切ってしまってはいけないところがありますが、当時の文化的背景もあります。

これについては当時を生きない私たちが正当に評価するのは難しく、ここで議論をする気はありません。

いずれにしろ、禅という思想は日本人の心の奥底にあるものであり、ここからなにを学べるかはその人次第だと思います。が、

私はそのなかのよいことを学び、次代につないでいきたいと思います。

終わりに 本書から学ぶこと

弓と禅を読んで、私は

自分が受け入れられる自己と、
他人が受け入れられる自己が完全に調和していること。

を大切にしたいと思いました。そうすることが禅だと解釈しています。

以前読んだ賢者の書でも、自分を尊敬するのと同じだけ他人を尊敬せよとあり、禅の思想(の一部?)は同じことを示しているように感じ、たいへん共感しました。

また、禅という思想は自分中心でなく、あくまで自然の一部としての自分として扱うので、これからくる環境問題や国際的な問題、SDGs…諸々に対応するには西洋思想よりも適しているのではないかと個人的には思っています。
(このあたりは改めて考えていきたいと思います。)

どんな思想にも完璧といえるものはないように思いますが、そのよいエッセンスは自分の中に取り入れられたらいいですね。

『弓と禅』、究極の平常心への第一歩、
あなたもぜひ一読してみてはいかがでしょうか。


2020/6/14  sumi__


この間、蚊にさされたら痒くてたまらない!くっそー蚊め。
とイライラするこの頃。平常心への道は遠い…

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