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夢を捨てる -ほんのひととき日本の未来を担う新人芸術家だった若者が、何者でもない精神障害者の中年になるまで-

子供の頃から友達がいなくて、独りで絵を描いていた。小学校の図工の先生がよく褒めてくれた。後で高名な彫刻家だと知った。いつも「それ描きあげたらコンクールにだそう」と言ってくれた。でも一度も出したことはない。締め切りまでに描きあげられなかったから。小学校で最後に描いた絵は「図工室に飾らせて欲しい」と言われてプレゼントした。

中学でも高校でも独りで絵を描いていた。平均点制だったので成績に貢献した。でも僕の中では自分の絵に限界を感じていた。高校生の時にM.C.エッシャーという画家を知り、お小遣いから画集や評論書を買った。それと同時に音楽や演劇にものめり込んでいったけれど、友達がいなかったのであくまで鑑賞者だった。あの頃に聴く耳が育ってよかったと思う。

坂根厳夫氏(2011年)

大学に進学して、坂根厳夫教授の「現代芸術論」という授業に衝撃を受けた。坂根氏が評論畑ではなく、ジャーナリスト出身だったのもよかった。理屈を述べるのではなく、こんな楽しい世界があるんだよ、と紹介する授業だった。坂根氏は、M.C.エッシャーに世界で唯一気に入られたジャーナリストでもあった。そういえば家にあるエッシャーの本は、すべて坂根氏の著書だった。

放課後は坂根氏の研究室に入り浸り、芸術論から恋バナまでいろんな話をした。コンピューターに出会い、その頃坂根氏が興味を持っていたインタラクティブなインスタレーションを作るようになった。限界を感じていた絵から大きな飛躍をした。音楽もパソコンで独りで作り始めるようになって、その機材を使って小さな劇団の音響担当にもなった。学校の機材を借りて、まだVJという言葉がなかった頃にVJもしていた。

慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)

坂根氏は定年後、情報科学芸術大学院大学(IAMAS)を設立して学長に就任することが決まっていた。しかし開校は僕の卒業の1年後。なので当時通っていた大学の修士課程に進んで卒業後にIAMASに行くつもりでいた。院試では、いまインターネットで起きているようなことの礎みたいな研究計画書を書いて、面接で冨田勝氏に「君みたいな学生が欲しいんだよ」と言われて合格した。

しかし学部の4年生で留年してしまった。これは僕が100%悪い。なんで単位ギリギリで履修申告したのか覚えてない。落とした科目は60点以上が合格で僕は58点。主に小論文だったけれど、論文としての完成度ではなく必要なタームが何個盛り込まれているかで採点された。さらに出席点があり、一度出席カードを出し忘れたことがある。それだけでも2点稼げた。

次の院試の願書締切が3月31日で、事務的に3月31日まで卒業資格があるので、願書に必要な9月卒業見込みの証明書が出なかった。その次の院試では面接官が井関利明氏、研究計画書も読んでないし、酷い圧迫面接でトンチンカンな持論をぶちあげ、自分のゼミ生しか合格させなかった。井関利明氏はかの竹中平蔵氏と並んで我がキャンパスの名誉教授だ。不名誉教授にならないものか。その次の院試の頃にはインターネットの商用利用が始まり、僕の研究計画は古いものになっていた。

インスタレーション「時間の博物誌」(1993)

その間に学部生時代に制作したインスタレーション作品が話題になり、いろんな展覧会に出展された。経済産業省(当時の通産省)が海外に売り出す新人アーティストの選考会に呼ばれた。作り手は芸術のつもりでも、国はハードもシステムも売れなくなってしまったコンピューター業界を、「コンテンツビジネス」で巻き返そうとしていた。だから経済産業省なのだ。その目論見は、クールジャパンの失敗のように見事に失敗するわけだけれども。

選考会にはトラック一台で乗り付けるチームもいたけど僕はポケットに入る128MBのディスク1枚だけだった。選考会に1時間半遅刻して、スーツの参加者たちの中でパーカーでプレゼンをした。結果、次点に選ばれて、海外の大きな展覧会にも出展されるようになった。作品がテレビの人気番組で紹介された。僕はほんのひととき、日本の未来を担う新人芸術家だったのだ。

富士通株式会社情報処理システムラボラトリ

結果、世界の大小のソフトハウスから勧誘の連絡が入ってきた。ある時、誰でも知っている大手コンピューターメーカーの部長から電話がきて、コンテンツ部門を作るのでぜひ入社して欲しいと言われた。迷わず受けたのは、当時は就職氷河期と言われてみんな100社以上の就職試験を受けていたこと、大手企業に就職すれば安泰と言われていたこと、なにより尊敬する亡父の勤めていた会社だったことによる。だから最初は父の知人のコネクションで連絡がきたのかと思った。

大手メーカーのコンテンツ部門は、体育会ノリの営業と理系ノリのSEの呉越同舟であった。営業チームは毎日終業後ナンパや風俗に繰り出し、SEチームは当時まだ市民権を得てなかった萌え萌えアニメに夢中で声優にガチ恋していた。芸術やコンテンツに関心がある人は1人もいなかった。僕の作品を見て「制作に何時間かかった?そんなんじゃとてもペイできないよ」と言われた。

本業と内緒の副業の文化レベルの違い

当時流行っていた小室哲哉を聞いていれば「音楽通」と言われるくらい文化的にプアの極みだった。なにより制作できる人が僕しかいなかった。ある時科学館のシステムを受注した営業が、「我社にはコンテンツ部門があるのでプラネタリウム映画も作れますよ」とサービストークをした。誰が作るの。僕しかいなかった。ド素人が脚本・監督をした。ベテラン俳優さんに演出をつけるのは肝が冷えた。完成以来観てないし、観たくもない。

僕は貴重なクリエイターだったので標的にならなかったけど、非常に幼稚な虐めも横行していた。1人はとても太った人。夏場はどうしても臭う。一部の社員が、翌日の気温と湿度から「明日のクサクサ指数」を掲示板に出していた。もう1人はのちに自分も罹患する鬱病だった人。直属の上司が「怠け病」と罵り、怒り狂った。僕は彼らと1秒でも早く離れたかった。

同時に内緒の副業として、三田光圀の名義でMAYA MAXXさん、南椌椌さん、伊波二郎さん、夏秋文尚さん、山口慎一さん、光永巌さん、ライオン・メリィさんらとコラボ作品をリリースした。こちらの方が遥かに楽しかったし勉強になった。ただ取り仕切っていたソフトハウスの倒産のため活動を停止した。

とあるキャラクターブランドと転職

本業では、ほかの社員は会社のネームバリューで取ってきた仕事を下請けに任せて中抜きをしていた。僕も手が回らないとそうしていた。誰でも知ってるキャラクター商品ブランドのゲームを作る仕事で、クライアントの要望がどんどん膨れ上がり、締切日に下請けのプログラマーが失踪した。代わりを頼んだ会社は延びた締切日に社長が失踪した。その後40社以上に断られて、大学時代に交流があったソフトハウスに泣きついて完成させた。

そのソフトハウスから「前任のデザイナーが退職するんで新人候補を探してる、前任がゼロから責任を持って育てる、誰かいい人いない?」と聞かれて自分で立候補した。制作について、すべてが独学でプロとして通用する技術が欲しかった。しかしデタラメなコンテンツ部門は行き詰まっていて、ほかの部署に併合されるタイミングだった。退職までに半年以上を要した。その間に転職先の前任のデザイナーさんも退職してしまった。

ソフトハウスでの私の仕事とかつての仲間たちの仕事

ソフトハウスとして力はあったと思う。でも40数社が断る仕事を受けるような会社なので、まともな仕事は回ってこなかった。エロ雑誌の付録DVDにボカシを入れる仕事だったり、保険会社の営業がタブレットで持ち歩く老人を騙す投資商品の宣材の制作だったり。ビデオでプレゼンするかパソコンでプレゼンするか迷ってる会社が「パソコンではここまでしかできない」というための、敢えて稚拙にした試作品の制作だったり。

僕がそんなもののために終電や徹夜の生活を送っている時に、母校に残ったかつての仲間たちは坂本龍一氏と仕事をしていた。同じ頃、実家に3億6千万の借金があることがわかり、返済のプランを考える度に祖母の妨害に遭った。当時交際していた女性も芸術家で、僕を見切り坂本龍一氏の仲間たちに取り入って、色恋沙汰を起こしてその恨みを僕が受けることになった。当時の氏の女性癖を思うに、坂本龍一氏本人とも関係があったと想像する。当時の「穴兄弟」たちは有名アーティストになり、多摩美術大学やIAMASのエライヒトになった。僕は鬱病になった休職している間に会社はなくなった。

情報科学芸術大学院大学(IAMAS)

その後、もう一度情報科学芸術大学院大学(IAMAS)への受験を試みた。結果は不合格。学部時代の同級生で当時はIAMASの講師、いまは学長の鈴木宣也氏から電話があった。「申し訳ない、山下は完成されすぎてて育てがいがないって声が多かった。いまは専門学校コースしかないけど来年大学院コースができる、そっちで育てたい生徒は今回は落とした」と言われた。

大学院コースを改めて受験した。結果は不合格。かつての恩師で創設者で当時の学長の坂根厳夫氏から電話があった。「作品も論文も申し分ないんだけど教授陣の派閥があってね、君は僕と親しいから面接で0点をつけられた」と言われた。僕の作品は当時は新しい表現で、大学の機材が必要だったし、情報を共有して切磋琢磨する仲間も欲しかった。IAMASはその後、真鍋大度氏やクワクボリョウタ氏など錚々たるアーティストを輩出した。その一端に入るチャンスは僕には回ってこなかった。

細野晴臣氏と鈴木惣一朗氏

その後、尊敬するミュージシャンでプロデューサーで文筆家の鈴木惣一朗氏の口利きで音楽ライターを少しだけした。その時に頂いたペンネームが山下スキルだ。個人サイトやいくつかのコラボサイトでも、インターネット第一世代の音楽評論の一翼を担った自負がある。またUSTREAMで音楽紹介の番組も配信していた。当時の仲間の多くは評論家として名を上げて、僕に会って緊張でブルブル震えてた若者も有名になった。あの頃にもっと営業していればという思いもある。DJとしてはアマチュアの需要がヲタク文化に取り込まれて呼ばれることもなくなった。バンドは僕の発達障害的な衝動で解散した。

鬱病発病から23年、病名は双極性障害II型と高機能広汎性発達障害に変わった。そして何事も成し遂げることなく50歳になった。もうこの先、僕に光が当たることはない。生きる意味なんていいから、生きる言い訳くらいは欲しい。

2匹の猫と暮らしてます。ポップス、ソフトロック、ポストロック、エレクトロニカ、テクノ、ジャズ、民族音楽、現代音楽、現代芸術、漫画とペヤングを食べてます。