山下スキル

🗼 東京風街に生まれる。風が吹いたら遅刻して、雨が降ったらお休みで、なんやかんやで現在…

山下スキル

🗼 東京風街に生まれる。風が吹いたら遅刻して、雨が降ったらお休みで、なんやかんやで現在に至る 🐈 猫と暮らしてます 🎧 世界中の色んな国の色んな時代の色んな種類の音楽、表現文化が好きです 💐 戦場よりお花畑が好きです ❤️‍🩹 双極性障害、発達障害です 💗 INFP-T

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チョンマゲとホモ・サピエンス -音を忘れた「邦ロック好きさん」に一方的に捧ぐなにか-

自分は音楽が好きだと思ってる若い子はおおよそ「邦ロック」を聴く。邦ロックって日本のロックのことだと思ってた。でもだいぶニュアンスが違うみたいなんだ。 少なくともミュージックフリークにとって日本のロックの金字塔である、はっぴいえんどやゆらゆら帝国やfishmansは「邦ロック」じゃない。ceroもCHAIもNumber Girlも違う。くるりもスピッツもTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTもThe Blue Heartsも民生も清志郎も違う。  BUMP OF

    • たまには逆さまに世界を見てみよう -精神障害者の孤独と侮蔑と絶望と尊厳-

      やまない雨はある。 明けない夜もある。 涙のあとに虹は出ない。  なぜなら人生は、運命は、気象現象ではないからだ。人を傷つけた者に罰は当たらない。傷つけられた者は静かに病み、傷つけた者はウハウハとのうのうと生き続ける。  人生は98%が運でありガチャだ。努力や才能は残りの2%を左右するに過ぎない。 「早く僕のこと好きにならないとモラハラして精神をズタズタにしちゃうぞ」って音源がTikTokでバズって驚いた。日本人の「精神障害」に対する知識とモラルは皆無に等しい。  スプツニ

      • 我が初恋の話はよく出来すぎてるので岩井俊二監督が映画化するべき

        どれを初恋と呼ぶか、人によっては難しいと思う。僕が初めて特定の女性に好意を持ったのは、幼稚園のクラスメートのIちゃんだった。大人になって卒業アルバムを見返すと、1人だけずば抜けて整った顔立ちの園児がいる。なんでその子ではなく、特に親しかったでもないIちゃんだったのか今となっては思い出せない。 公式見解としての初恋は小学校3年生の時、同じ塾に通うTちゃんだった。ショートカットに眩しい笑顔が似合う、優しくてほがらかで快活な彼女は、いつもみんなの輪の中心で太陽のように輝いていた。

        • 悪夢のバブル時代と男性恐怖症と四半世紀の恋と孤独と酒と泪と男と女と愛しさと切なさと心強さと部屋とワイシャツと私

          僕の思春期はバブル時代だった。日本中が渋ハロみたいに浮かれて、空にお金で虹がかかってた。当時に憧れる層もいるみたいだ。生まれた時にはもう日本が貧乏だった若い層。当時すでに社会人で湯水のように稼ぎ、ポケットの中の小銭が邪魔で道路に捨ててた老人層。 バブル期に思春期を送った者として、あの時代は地獄だった。時代や国籍を問わず、人は思春期に悩む生き物だ。それがかっこ悪いとされ、迫害されたのはバブル時代の日本くらいだろう。穏やかに文化を嗜みたい人≒陰キャには居場所も人権もなかった。い

        チョンマゲとホモ・サピエンス -音を忘れた「邦ロック好きさん」に一方的に捧ぐなにか-

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        • 我が初恋の話はよく出来すぎてるので岩井俊二監督が映画化するべき

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          私は如何にして心配するのを止めて音楽を愛するようになったか

          Todd Rundgrenが最近のインタビューで、自分たちを「音楽が芸術の中心的だった世代。幼少期は音楽にしか興味がなかった」と表現した。そもそもホモ・サピエンスがヒト属のなかで唯一生き延び得た理由のひとつは、言葉より先に音楽を持ち、協調することができたからだと言われている。いま音楽は人々の関心から大きく外れてしまった。 この国の現状は遥かに酷い。1992年にバブル経済が崩壊して1999年にCDバブルが崩壊した。この7年の時差に、音楽を愛してない人が音楽業界になだれ込んでき

          私は如何にして心配するのを止めて音楽を愛するようになったか

          夢を捨てる -ほんのひととき日本の未来を担う新人芸術家だった若者が、何者でもない精神障害者の中年になるまで-

          子供の頃から友達がいなくて、独りで絵を描いていた。小学校の図工の先生がよく褒めてくれた。後で高名な彫刻家だと知った。いつも「それ描きあげたらコンクールにだそう」と言ってくれた。でも一度も出したことはない。締め切りまでに描きあげられなかったから。小学校で最後に描いた絵は「図工室に飾らせて欲しい」と言われてプレゼントした。 中学でも高校でも独りで絵を描いていた。平均点制だったので成績に貢献した。でも僕の中では自分の絵に限界を感じていた。高校生の時にM.C.エッシャーという画家を

          夢を捨てる -ほんのひととき日本の未来を担う新人芸術家だった若者が、何者でもない精神障害者の中年になるまで-