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チョンマゲとホモ・サピエンス -音を忘れた「邦ロック好きさん」に一方的に捧ぐなにか-

自分は音楽が好きだと思ってる若い子はおおよそ「邦ロック」を聴く。邦ロックって日本のロックのことだと思ってた。でもだいぶニュアンスが違うみたいなんだ。

少なくともミュージックフリークにとって日本のロックの金字塔である、はっぴいえんどやゆらゆら帝国やfishmansは「邦ロック」じゃない。ceroもCHAIもNumber Girlも違う。くるりもスピッツもTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTもThe Blue Heartsも民生も清志郎も違う。
 BUMP OF CHIKENやASIAN KUNG-FU GENERATIONあたりがルーツで、クリープハイプやSEKAI NO OWARIあたりを通り、RADWINPSやマカロニえんぴつやSaucy Dogやback numberあたりが邦ロックみたい。でもヒゲダンやKing Gnuは違うらしい。わかった? 僕はわかんないよ。

そういうバンドがあってももちろんいい。でも邦ロック好きはかたくなに邦ロックしか聴かない。違う音楽をおすすめすると「私は今の音楽が聴きたいから」と固辞される。そして「歌詞に共感」する。音楽そのものじゃなくて、歌詞の乗り物としての音楽が好きなのだ。
 で、大雑把に音はOasis歌謡っぽい。それって「今の音楽」なのかよ。そもそも今ストレートなロックが聴かれることってなかなかない。ヒップホップやソウルやクラブミュージックやジャズが渾然としてるものだ。

と言いたいんだけど、いかんせん僕はおじさんである事実が立ちはだかり、年寄りに私達の感覚はわからないって扉を閉められちゃう。もっともっと規模も時間もスパンの広い話なんだよ。
 違和感を時系列を追ってちゃんと説明する。おっそろしく長い話になるし、それでもかなり端折ったりごまかすんでミュージックフリークが読んだらデタラメだよ。

はっぴいえんど / はいからはくち (1971)
ミュージックフリークが考える日本のロック

ゴロワーズを吸ったことがあるかい / ムッシュかまやつ (1975)
ミュージックフリークが考える日本のロック

RCサクセション / Sweet Soul Music (1980)
ミュージックフリークが考える日本のロック

ユニコーン / 大迷惑 (1989)
ミュージックフリークが考える日本のロック

fishmans / Night Cruising (1995)
ミュージックフリークが考える日本のロック

ゆらゆら帝国 / 空洞です (2007)
ミュージックフリークが考える日本のロック

くるり / 琥珀色の街、上海蟹の朝 (2016)
ミュージックフリークが考える日本のロック

cero / Fdf (2020)
ミュージックフリークが考える日本のロック


そもそも日本の伝統音楽には「和音」という概念がほとんどなかった。それはそれで面白い世界だ。明治維新で欧米の音楽、いわゆる西洋楽理に則った音楽、和音という概念が入ってきた。特にキリスト教圏では毎週教会に集まって、何声ものハーモニーの賛美歌を歌ってきた。これが一生続くわけだ。培ってきた教養や訓練がぜんぜん違う。
 その賛美歌やクラシックの音楽理論の原点が、実はインドや中近東の「異教徒」の音楽だったって話は余談として。

鎖国を解いた日本人は欧米の音楽に興味津々だった。西洋楽理を自分の音楽に取り入れようと試行錯誤を繰り返した。例えば山田耕筰さんのコードセンスは素晴らしいと思う。ひとつはもちろん努力と才能、もっと大切なのは彼らは「音楽が好きで音楽をよく聴いていた」こと。
 時代がくだって大正末期から昭和初期には、庶民がジャズを楽しんだ。ジャズはその時代の音楽理論の集大成的なところがある。だから今のジャズは今の音楽理論の集大成なんで、普通の人がイメージするものとだいぶ違う。

山田耕筰 / かちどきと平和 第2楽章 (1912)
明治の作曲家は西洋楽理に興味津々

Louis Prima & Dixieland Jazz Band / Sing, Sing, Sing (1936)
戦前の日本の庶民はジャズを聴いていた

第二次世界大戦に入って、ジャズは敵性音楽として禁止された。替わって出てくるのは軍歌だ。これは日本中の軍人が演奏できる、なにより「音楽が好き」でない軍隊の偉い人にも理解できるように、ものすごく単純で面白みのない仕組みでできてる。
 上海あたりでは、占領していた日本人のミュージシャンが、軍歌にジャズ的なコードをつけて楽しんでみたい。当時を描いた映画を観ると、普通の人々が禁止されているジャズのレコードをこっそり聴いてるシーンがよく出てくる。

戦後ジャズをポップにした音楽がたくさん出てきた。服部良一さんや中村八大さんをはじめとしたジャズ畑の作曲家が、海外の新しいリズムを取り入れた楽曲を量産して大ヒットさせた。
 さらには海外のリアルタイムなヒット曲を日本語に翻訳した曲も出てきた。ファンは当然原曲が気になる。だからヒットチャートに、洋楽のヒットとその日本語版のヒット、ジャズを元にした日本のオリジナル曲のヒット、ジャズや映画音楽が混在してた。

笠置シヅ子 / 東京ブギウギ  (1947)
ジャズ畑出身の服部良一さんがブギウギを取り入れた作品

弘田三枝子 / Vacation (1962)
海外のヒット曲を日本語でカバーする。オリジナルはConnie Francis

やがてポピュラー・ミュージックに「歌謡曲」という概念が現れる。歌謡曲の定義は非常に難しい。元々はクラシックの歌曲を表す言葉だった。昭和初期に、日本で作詞作曲された流行歌を歌謡曲と呼ぶようになった。西洋楽理に則った作りで日本語の歌詞があって、悲哀や情念を感じる、僕はね。
 さらに悲哀や情念を誇張した「演歌」も現れる。元々は明治時代に、街角で政治思想を語る歌を演歌と呼んだ。演説の演だね。いまでいう演歌は意外と歴史が浅い。1957年の島倉千代子さんの一連のヒットあたりからか。もちろん西洋楽理でできてるし、少なくとも日本のソウルミュージックではぜんぜんない

尾崎紀世彦 / また逢う日まで (1971)
歌謡曲の巨人、筒美京平さんの作品

都はるみ /北の宿から (1975)
いわゆる演歌

1960年代にイギリスにThe Beatlesというロックバンドが現れて世界的に大ヒットした。彼らの偉業をかいつまんで話すだけで1週間かかる。Beatlesが録音芸術の可能性を7年間でぜんぶ試してしまったと言われてる。
 ひとつ取り上げるなら、アイドルバンドなのに自分たちで作詞・作曲していたこと。もちろん彼らの前にも自分たちで曲作りをするバンドはいたけれど、クオリティが別次元だった。やがて、演奏を聴かないで叫ぶだけのアイドルファンや、スキャンダル好きなジャーナリズムに辟易して、ライブ活動をやめてスタジオの実験に没頭。いろんな音楽を貪欲に吸収してどんどん複雑に、テーマも哲学的になっていった。ファンもその進化に着いていった。

Beatlesは初めてアメリカとヨーロッパを制したバンドでもあった。文化差が大西洋を超えるのは大変だった。だから当時の人々は、音楽で世界は愛と平和に包まれるんじゃないかと本気で思っていた。元BeatlesのJohn Lennonがアメリカに移住する時に、アメリカ政府が国家の危機を感じて移住を妨害したくらいだ。
 特に、革新的な名盤が続出して大きなフェスや音楽を核にした政治的な運動が行われた1967年の夏は、Summer of Loveと言われた。運動の拠点はサンフランシスコだったけど、Beatlesは世界初の多元衛星中継テレビ番組「Our World」にイギリスの代表として出演して、大きな爪痕を残した。

その時代のロックは、大西洋の西と東でお互いの作品を聴いて切磋琢磨しあって爆発的に進化した。インプットがあってアウトプットがある。文化ってそういうもんだと思う。

The Beatles / I Want To Hold Your Hand (1964)
Beatlesはアイドルバンドだった

The Beatles / A Day In The Life (1967)
たった3年後の楽曲の進化

ところが時代はベトナム戦争に突入する。戦争の始まりは散発的に、でも15年も続いてたくさんの方々が亡くなった。また、アメリカでは人種差別による暴力事件も大きく取り上げられるようになった。「Our World」の放送直前に第3次中東戦争が勃発して、ソビエト連邦・チェコスロバキア・ポーランド・東ドイツ・ハンガリーが番組への参加を辞退した。
 音楽は愛と平和の世界を作らなかった。この失望感が、Beatlesみたいな華やかな音楽とムーブメントをしらけさせてしまった。

代わりに出てきたのが(狭義の)シンガーソングライタームーブメント。装飾を拝してアコースティックギターを中心にして、些細な日常や身の回りの苦悩や愛情を歌った。これはこれで大変な深みと面白みのある音楽だ。
 このブームも日本に入ってくる。ところがブームに乗った多くのミュージシャンは、音楽的探求より演歌的な貧乏自慢に夢中になった。なんでか若者がこれに熱狂した。ミュージックフリークは「四畳半フォーク」と呼んで揶揄したけれど、皮肉は通じなかった。僕が「邦ロック」に感じる違和感はそれに近い

Marvin Gaye / What’s Going On (1971)
ベトナム戦争や人種問題に感化された名曲

Carol King / It’s Too Late (1971)
狭義のシンガーソングライタームーブメント

井上陽水 / 氷の世界 (1973)
日本のシンガーソングライター。原曲もかっこいいけどまっとうな動画がなかったんで、2014年のライブ音源を。

1970年には、ハードロックやプログレッシブロックと呼ばれる複雑化・技巧化したロックが大きな勢力になっていた。70年代末、ロックもう一度キッズの元に返そうぜっていうパンクムーブメントが起きた。それまで楽器に触ったこともなかった主に美大の学生が、理論よりセンスで曲を作り演奏した。作れちゃったのはリスナーとして音楽が好きだったから。技巧に走ったハードロックとアマチュアイズムを重視したパンクロックは、音が大きい点で混同されるけれど発想が逆なのだ。
 パンクムーブメントでロックを取り巻く環境が激変して、シンセサイザーやグローバルミュージックの影響を受けたニューウェイヴも生まれた。

Led Zeppelin / Whole Lotta Love (1969)
技巧に走ったハードロック

Pink Floyd / Time (1973)
複雑化したプログレッシブロック

The Clash / Train in Vain (Stand by Me) (1978)
シンプルに立ち返ったパンクロック

Talking Heads / Once In Life Time (1980)
いわゆるニューウェイヴ

INU / つるつるの壷 (1981)
日本のパンク

PLASTICS / COPY (1979)
日本のニューウェイヴ

この時代までは日本と世界のポピュラー・ミュージックはおおよそシンクロしてた。日本のヒットチャートに、バンドとアイドルと歌謡曲と演歌と「洋楽」が混在してた。「洋楽は歌詞がわからない」なんて言わないで、小学生でもわからない英語の曲を「音」で聴いていた
 1980年代なかばから世界とのズレが大きくなった気がする。日本でバンドブームというものが起きた。路上ライブが盛んになり、「バンドやろうぜ」という雑誌がバカ売れし、「いかすバンド天国」という番組が深夜1時スタートで視聴率8%くらい取った。ただ彼らはまだ音楽が好きだった。

なんだかんだいって音楽業界って狭かったし、売れるも売れないも賭けで、よっぽどもの好きしか音楽を仕事にしようとしなかった。ミュージシャンの卵も彼らを育てるスタッフも、音楽が好きでよく聴いて研究して、でもそれがビジネスになるかはわかんない世界だった。

Michael Jackson / Beat It (1983)
当時の日本人が普通に聴いていた洋楽

Madonna / Like a Virgin (1984)
当時の日本人が普通に聴いていた洋楽

The Blue Hearts / 青空 (1989)
シンプルなサウンドと哲学的な歌詞のヒット曲をたくさん出した

山下達郎 / SPARKLE (1982)
日本はお金持ちで未来に夢を見てた。

日本は当時大金持ちだった。当時のヒット曲を聴くと、大学生がバイトもせずに遊び呆けて親の仕送りでスポーツカーに乗ってたことがわかる。日本が世界を買い尽くすと言われたバブル経済。これが1992年に崩壊する。
 それでも売れ続けていたのがCDだった。いわゆるCDバブル。大きなタイアップが取れれば100万枚売れた。宇多田ヒカルさんのファーストアルバムは800万枚売れて、東芝グループ全体の社員10万人に莫大なボーナスが出た。

そのために、特に音楽が好きでもないけど稼ぎたい人が音楽業界に流れてきた。当時の大人たちはCDバブル期前に就職したミュージックフリークだったんで、若者を教育してなんとか形にしていた。今は当時就職した、音楽が好きでもないスタッフが主導権を握る年齢になった。

この時代を牛耳ったのが小室哲哉さん。1億7000万枚を売った。彼にもダンスミュージックを日本で売れる形にした功績はある。
 が、作詞家としては子供だましの歌詞の規範を作った。「学校がなんだ、大人がなんだ」的な世界だ。思春期のユーザーがカラオケで歌うことを想定していた。異常にキーが高いのもそのためだ。The Blue Hearts の歌詞と比べると、哲学的な深みは天と地ほど違う。

秋元康さんは、80年代におニャン子クラブというアイドルグループを大ヒットさせた。当時の秋元さんはそれなりの作詞をし、若かったので発言力も弱く、実力のある作曲家と組まされて結果としてスタンダードを残した。
 その後2005年にAKBグループ、2011年に坂道シリーズをバカ売れさせた。でも音楽性よりビジネスモデルとしての成功だ。絶対の決定権を持っていて、コンペティションでは彼がその時に使いたい単語がはまる楽曲が選ばれるため、音楽的なクオリティは二の次だ(信頼できる消息筋の証言)。

スピッツ / チェリー (1996)
CDバブル期に売れたロックバンド

宇多田ヒカル / First Love (1999)
CDバブル期の終焉の大花火

CDバブル期以降、テレビの音楽番組の司会がお笑いタレントに代わった。話題も音楽から離れてギャグセンスやコミュ力が問われるようになった。高い音楽性を持ちながらお笑いに適応したミュージシャンは、宇多田ヒカルさん、aikoさん、星野源さんなど。
 一方で、音楽の追求に専念したミュージシャンがたくさんいる。一発屋扱いのSuchmosや、果てしない憶測だけど次は藤井風さんが芸能界と距離を置きそうな気がする。最初から日本のメジャーシーンを相手にしないで、海外で活動するミュージシャンも多い。

音楽を好きな人が音楽を聴いて、感動して打ち震えて楽器を買って好きな曲を研究して、オリジナルな才能を育んでいく現象が、いまこの国には殆どない。音楽はただ有名になるための簡単な手段なのだ。
 音楽専門学校で教えるのはあくまで技法だ。ミュージシャン志望でも音楽を聴かないから、日本のポピュラーミュージックは1990年代に鎖国してしまった。だからいまでも30年前に海外でヒットしたサウンドを縮小再生産した音楽がなんとなく売れ続けている。

星野源 / Sun (2015)
実力派だけど芸能界に順応

藤井風 / きらり (2021)
憶測だけど現状に嫌気がさしてそう

ガラパゴス諸島という島がある。本土から1000km離れた火山群島で、世界の動物の進化とは違う変わった生き物が住んでいる。日本が本当に鎖国していた江戸時代、男性の髪型はチョンマゲだった。いい悪いはおいといて、世界的に見て変わった髪型だ。
 日本には鎖国してるからこそ生まれたチョンマゲ的な音楽がある。アニソンやアイドルやボカロだ。日本のアニソンは世界の子供たちが歌えるし、アイドルもBABYMETALやPerfumeみたいに大人が音楽に本気なれば海外でそれなりに売れる。もちろん秋元康さんは通用しないよ。そして初音ミクは世界でもっとも成功した日本のシンガーだ。

邦ロックのサウンドは「懐かしい」。鎖国している30年で世界のポピュラーミュージックは大きく進化した。世界のミュージックフリークからすると、日本のリスナーはいまだにオールディーズを聴いてるイメージだ。
 歌詞はマーケティングに基づく「思春期の関心事」、おおよそ恋愛だ。社会の中に恋愛があるはずなのに、いろんな登場人物を排した「君と僕」だけの閉じた世界が歌詞になり、ユーザーが「共感」してる。小室哲哉さんのメソッドだと思う。海外ではお年寄りが最新のヒット曲を聴いたりカバーする。歌詞の面でも子供だましじゃないから。

Nirvana / Smells Like A Teen Spirit (1991)
30年前の洋楽ロック

Oasis / Don't Look Back In Anger (1995)
30年前の洋楽ロック

The Ronettes / Be My Baby (1963)
90年代からみた30年前のイメージ

日本の音楽産業がこれで成立するのは、人口が1億2600万人いて国内の消費だけで市場が完結しているからだ。一方でK-POPが世界的に売れている。アイドルだけじゃなく、ロックもヒップホップも売れている。台湾やタイやベトナムの音楽も世界で売れ始めている。市場の規模的に世界を相手にしないと商売にならないので、音楽が好きでよく聴いて研究してるミュージシャンしか食べていけないのだ。
 日本のポピュラーミュージックはチョンマゲ的にウケることはあっても、王道で通用することは難しい。

Kendrick Lamar / The Heart Part 5 (2022)
最近の海外のヒップホップ

Ezra Collective / No Confusion ft. Kojey Radical (2022)
最近の海外のジャズ

boygenius / Not Strong Enough (2023)
最近の海外のロック


昔はよかったって話がしたいわけじゃない。僕が若い頃は、情報を紙にメモしてCD屋に行かないと曲を手に入れられなかった。いまネットでいくらでも音楽が聴ける。だからいろんな音楽をめちゃくちゃ聴いてる若いリスナーがたくさんいる
 僕はYouTubeでミャンマー民謡に興味を持った。同好者と話しをすると、一番聴いてるのはZ世代だ。ググる技術が違う。ミャンマーは紛争が続いて現地に渡れないし音源も輸入できない。けれどYouTubeにはどんどんあがる。

TikTokからバズることには問題も感じてる。曲の作り方がそれにあわせて変わってしまったから。音楽は時間の芸術で、5分の曲には5分かけないと伝わらない美しさがある。世界の民謡には、祭りの間じゅう何日も演奏を続けるものがあったりする。昼と夜、太陽と月を感じて、瞑想したりクスリをキメながらしか体験できないことがあるからだ。
 TikTok向けの作曲は、踊りやすい一瞬のフックだけ一生懸命作って、曲を気に入ってフルで聴いてみるとAメロがつまんなかったりする。そのフックの部分も、振り付けが映えるように早回しされたりする。


星新一さんがこんなことを書いた。
無から有をうみだすインスピレーションなど、そうつごうよく簡単にわいてくるわけがない。メモの山をひっかきまわし、腕組みして歩き回り、溜息をつき、無為に過ぎてゆく時間を気にし、焼き直しの誘惑と戦い、思いつきをいくつかメモし、そのいずれにも不満を感じ、コーヒーを飲み、自己の才能がつきたらしいと絶望し、目薬をさし、石けんで手を洗い、またメモを読みかえす。けっして気力をゆるめてはならない」

アイデアの泉みたいな星新一さんにとっても創作ってこういうことだ。無からは生まれない。膨大なインプットを血肉化しないと。1960年代のロックシーンについて、「大西洋の西と東でお互いの作品を聴いて切磋琢磨しあって爆発的に進化した」って書いた。で、みんな似てたかっていうと、それぞれオリジナルな輝きがある。
 インプットがあるってパクるって意味じゃない。作品が料理だとするとインプットはチャッカマンみたいなもんだ。いい作品を耳にして、彼らより、過去の自分たちよりいいものを生み出したいってモチベーションの炎が上がる。あとは愛や努力や苦悩や時間がオリジナルな才能を掻き立ててやっと作品が生まれる。

The Beach Boys / God Only Knows (1966)
The Beatlesの「Rubber Soul」にインスパイアされてアメリカで制作された名曲。BeatlesのPaul McCartneyはこの曲にインスパイアされて「Here, There and Everywhere」を書き、BeatlesのプロデューサーのGeorge Martinは「Beach Boysに追いつく試みをしていた」と証言している。Beach BoysのソングライターでベーシストのBrian WilsonとBeatlesのソングライターでベーシストのPaul McCartneyは生まれが2日違いで、いまでも仲がいい

多くの邦ロックバンドは音楽を聴いてないし愛してないように「僕には」聴こえる。専門学校で学んだメソッドに流行りの調味料を足すだけで、大きく進化してるかっていうと30年前のCreation Recordsでも掘ったほうがいい。だから1曲バズってあとはファンだけのものになるバンドが多い。
 秋元康さんの手掛けた楽曲は可愛い子が歌わないと存在価値がないように「僕には」聴こえる。創作のパートナーである演者に「先生」って呼ばせるのキモい。部下にハンコでお辞儀させて悦に入る昭和の経営者みたい。1万円札の原価が22円であるように、人を動かす力があってもそのものには価値がないものってたくさんある。「邦ロック」はどうだろうか。


遥か数万年前、緑豊かだった西アフリカで、鳥のさえずりや川のせせらぎや風の音を真似たり、手をたたき石や木や骨を打って音楽が生まれた。多くのヒト属の中で、体力的にも頭蓋容量的にも優れているわけではないホモ・サピエンスだけが生き延びたのは、言葉より先に音楽を生み出して連帯感を持ったからって説がある。
 音楽を送り出す側も受け取る側ももう一度音楽を愛して、「音」という現象の面白さに立ち返る日を待ってる。「音を楽しむと書いて音楽」なんて言うまでもなく、楽という字には音楽という意味がある。楽器の楽、楽団の楽、楽譜の楽、邦楽の楽だ。

「あたしの好きな音楽はライブハウスでしか聞けない 君の好きな音楽はいつもテレビで流れてるね」「あたしの好きなものを君はいつも変だってゆうけど 君の好きなものは本当に君が好きなものなの」。
 そこで喧嘩をする気は毛頭ない。「なんにもまじわらないけれど隣にいたいよ」

Lodagaa Wiiks and Gulu
音楽の始まりについてはまだまだわかっていないことがあまりにも多い。音楽が生まれたとされる場所のひとつ、ガーナのロダガア族の伝承音楽



追記:僕がながなが書いてきたことを、元THE BLUE HEARTS、元THE HIGH-LOWS、現ザ・クロマニヨンズの甲本ヒロトさんがシンプルに語る動画を観た。

「中学の時にラジオから流れてきた英語の音楽だったんですよ、びっくりしたのは。それまで僕音楽そんなに好きだと思ってなかったし、どっちかというとカッコ悪いと思ってた、なんかお遊戯みたいで、お遊戯嫌いだったから。ピントが合うどころか眼中になかった」

「で、ある日ラジオをかけて部屋にいたら、突然涙がブワーッとでてきて畳をかきむしりながら号泣してたんだよ。何が原因なのか痛くもないし、これ?今流れてるこれ? この音? まさかと思ったんだよ。で、もう1回そんな気持ちになりたかった。あれがたぶん感動だと思う。で、あの感じになりたいからレコードを聴くようになったの」

動画では触れられていなかったけど、その曲はManfred Mannの「Do Wah Diddy Diddy」。
 最初は歌詞の哲学性の高さで注目を浴びた甲本さんはこうも言ってる。若いミュージシャンのパッションを絶賛した上で、

「アナログ世代とデジタル世代の違いを一箇所感じるのは、歌詞を聴きすぎ若い人は。アナログの頃って僕ら音で全部聴いてた。だから洋楽だろうが何だろうが全部かっこよかった。何より意味なんかどうでもよかった」

「例えば僕はロックンロールはものすごく僕を元気にしてくれたけど、元気づけるような歌詞なんかひとつもないんだよ、関係ないんだそんなこと。「お前に未来なんかない」とか歌ってんだよ、「ノーフューチャーフォーユー」とか、それ聴いてよし今日も学校行こうって思って行ったんですよ」

「デジタルになるとそれがなんかこう情報として綺麗に入ってきちゃって、歌詞をね文字追いすぎてるような気がちょっとだけする。だからぼんやりしてないんですよね。ぼんやりしてるとどこに焦点を合わせるか、さっきのピントの話、自分が自分で選べる。だけどペランって1枚にされるとみんなそれしか見れないの

デジタルとアナログっていう二項対立がヒロトさんから出てきたのか、番組スタッフから出てきたのかはわからない。でもヒロトさんは数万年スパンで続いてきた「音楽」という喜びの話をしている。そこには色んな楽しみがあり、智慧がある。歌詞だけを取ってもその解釈には無限の緩さがあり、意味だけじゃなくて響きとしての楽しみもある。

「音」を聴いてみよう、「邦ロック好きさん」たち。

Manfred Mann / Do Wah Diddy Diddy (1964)
中学生時代の甲本ヒロトさんが音楽に目覚めて号泣した

The Linda Lindas / Linda Linda (2023)
THE BLUE HEARTSの「リンダリンダ」に感動してオースティンで結成された「The Linda Linds」が日本語でカバーした「リンダリンダ」。このバンド、売れてるんである



僕が普段聴いてる世界の音楽を時代順に100曲、これでも全然足らなくで厳選に厳選した

my anthems 100

2匹の猫と暮らしてます。ポップス、ソフトロック、ポストロック、エレクトロニカ、テクノ、ジャズ、民族音楽、現代音楽、現代芸術、漫画とペヤングを食べてます。