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「タイタイ病」を広めちゃうひと(前編)ーOKKO YOKKO

「タイタイ病」…
ーそれはタイという国に取り憑かれたようにハマる人たちのことをいうらしい…。

スキマインタビュー第六弾は、「OKKO YOKKO」(オッコヨッコ)の屋号で、春夏はタイのハンドメイド品、秋冬はイランのおばあちゃんの手編み靴下を販売する、神田陽子さん。(愛称:よっこさん)
実店舗は持たず、各地のイベントやインターネットなどで商品を販売されています。

一度、ある期間限定ショップにお互い商品を出品して参加したことがきっかけで知り合い、その後instagramで買い付け日記を見ては、ゆっくりお話を聞いてみたいなあ…という思いを募らせ、ついに今回実現!

まずは二人で待ち合わせのため、「よっこさんの好きなところ、行きやすいところ、どこでも行きますよ」と伝えると、よっこさんから「二人の住んでいる場所の中間地点で会いましょう!」という提案が。

こういう配慮に、よっこさんの人柄が現れているな〜と、なんだかしみじみ。そしてお互いにあまり所縁のない駅で、二人で初めてのお店に入店。なんとなく、二人で旅に出ているような気分です。

こりゃ驚きの、おっこっこ!

ーまず、屋号の「OKKO YOKKO」ってなんですか?

私は新潟県の燕市出身なのですが、燕弁に「おっこっこ」という方言があって。例えば、子供が水をこぼしちゃったときに、大人が「おーっこっこ〜」と言ったりするのです。「こりゃ驚いた」みたいな表現に近いですかね。その方言がおもしろくて大好きで。それと、家族から「よっこ」とよばれているので2つをあわせて「OKKO YOKKO」。リズムがいいなということですんなり決まりました。

日本海・寺泊の海の家にて(4歳)


ー方言だったとは!燕市はどういうところですか?

新潟県燕市はちょっと特殊なところで、刃物とか洋食器の生産地として世界的に有名な町なのです。あらゆる洋食器を作っている町だから、家族とか近所の人みんな金属にまつわる仕事をしています。小さい頃は、結婚式の引き出物でスプーンフォークセットとかがブレイクしていて、日本より海外に輸出する産業だったんです。円が強い時代だったし、燕の人は東京ではなくN.Yをみていた。友達の家とかもお城のような豪邸があったりして(笑)

ーそれは特殊な町!どんな子供だったんですか?

小学生の時、「ムフちゃん新聞」っていう新聞をつくっていました。「ムフちゃん」というキャラクターが中心になった新聞。もちろんコピー機もなかったし、ガリ版も思いつかなかったから全手書き!何部か描いて、友達に押し付けがましくあげていた(笑)。ちなみにムフちゃんの彼氏はフムくん。

もうムフちゃん新聞は手元に残ってないですが、この間タイのチェンマイに買い付けに行った時、ムフちゃんにそっくりなポーチを見つけたのです!

これはタイのチェンマイの作家さん作なのですが、その方に双子の小さい娘さんがいて、その子が描いた絵を作品にしているものです。かわいいですよね〜。現地に行くとこれを真似たようなコピー商品も多いけど、やはりオリジナルは作者の思い入れがある分細かいところまでこだわってるから、全然違うんです。

いつも頭の中に疑問があった

ームフちゃん新聞についてもっと教えてください。読みたい(笑)。

ムフちゃんの本日のコーディネイト!とかリュックサックとか帽子はこういう風にこだわっていますとか。あとは、私自身が「いつも頭の中に疑問がある」人で。あるとき「電話って何であんな細い線なのに喋れるんだろう?」って疑問に思って、ひとりで電話局に行きました。「東小学校の神田陽子といいますが、なんで電話が繋がっているか、どうしても知りたくて来たんですが…」って直談判。子供だし警戒心なく見学もさせてくれたんです。

ーめちゃくちゃ意思のはっきりした小学生ですね!

新潟県は工場が多いから、学校の社会科見学の授業も多く、それで、そういうのは行ったら見せてもらえるんだと。勘違いして(笑)
電話局では、白衣に着替えさせられて、これが電話の部屋だよって体育館みたいなところに案内されると、そこには四角い機械がたくさんならんでいて。それを職員の人がピポピポと扱ってる様子が、もう宇宙みたいだった。「この機械があるおかげで電話が通じてるんですよ」って聞いて感動して。それを自由研究とか、ムフちゃん新聞の記事にして、「電話はなんと、このピポピポマシーンのおかげでした!」って、ピポピポマシーンの絵を描いて、ぎょっとしてるムフちゃんを載せて。「今度はすごい号だよ!」ってふれまわったり(笑)。

ーものづくりの地域だから、工場も身近だったんですね。

東京の人は学生でも華やかなアルバイトがあると思うんですが、燕市はバイトというと、金属関係の仕事ばかり。例えばあるところでバイトしたときはプレス機械を任されて。ステンレスの板をプレス機に通すと、ガシャーンとスプーンとフォークの型が抜かれてて、ばらばらにする作業。かなり重厚で大きい機械を女子高校生が動かしていました(笑)

illustration: OKKO YOKKO

ひと手間加える職人気質

ーものは「あるもの」じゃなくて、「だれかがつくるもの」だということを、ずいぶん早く知っていたということですよね。

燕市の人々は職人気質の人が多く、作るモノに対するプライドも高いです。その影響か、私も布小物を作っていても、妥協はできません。ちょっと曲がってるけどまあいいか、みたいなことがなくて、全部ほどいて一からやり直す。タイで買ったものも結構いい加減に縫ってるものもあるから全部検品して、もう一回縫い直したり、 ポーチの口が開かないようにホックを付け足すとか、そういうひと手間はくわえています。自分で持ったら嫌だなって思うことは改善して作っています。それは燕市で育った影響かも。

元々つけられていた金具を付け替え、
チェンマイの小さい鈴をつけて音が鳴るように

ータイとの出会いは?

20代の時に30カ国くらいバックパッカーで世界を旅した時期がありました。最初はヨーロッパに興味があって、ヨーロッパ中の何処の駅でも乗り降り自由というユーレイルパスを持って都会や田舎あちこちまわりました。ヨーロッパのあとはアメリカ方面も行き来して。そうこうしているうちに気が付くとマイレージがたまっていた。
その当時、アジア方面にはまったく興味がなかったのだけど、数カ国選べる中にタイのバンコクがあって。まあ強いていうなら、バンコクなら行ってもいいか?みたいな上から目線ではじめて行きました(笑)。

ーはじめてのタイはどうでした?

着いたその日、実はホテルもとっていかず。でも宿なしは危ないからと自分の予約しているホテルを紹介してくれたひとがいて。それがバンコクの、パッポン通りという歌舞伎町みたいなところにあって。とりあえずホテル周辺をひとりでぶらついてみたら…すごい世界が広がっていました。
「ブレードランナー」というアメリカの映画はご存知ですか? 近未来とアジアがミックスされた未来の話なんですが、まさに、その世界がそのまんまあったんです(笑)

裸のお姉さんと象と卵売り

ー近未来とアジアがミックス?
歌舞伎町や新宿副都心みたいなビル街の中で、一歩路地を入ったら裸のお姉さんが番号札をつけて台の上で大勢踊っているんです。それはもう、衝撃的な図で!そして、また次の道を曲がったらいきなり象がのっしのっしと出てきて(笑)。ショックでよろよろしながら、さらに別の道を曲がると江戸時代みたいな天秤棒をかついだおじいさんがよたよた歩きながら「卵いらんかね〜」って売ってるの。私、もうその日眠れなくて!私が思ってたタイとずいぶん違うし、過去に行った30カ国強のどの国よりも面白い!!っていう衝撃がすごかった。カルチャーショックっていうか。人間のエネルギーの凝縮度がすごかったんです!明日のことより今日食べるご飯を稼ぐための頑張り度がすごくて。そこからタイにどハマりしました(笑)。

衝撃的すぎて手ブレした初バンコク写真

ーそれは衝撃的なシーンですね…!

その旅行中チェンマイにも行って、山岳民族の村を訪れるトレッキングツアーにも参加しました。私以外全員欧米人で、象に乗って村まで行くツアー(笑)。

ー象が交通手段とは!

象の頭の部分に象使いが乗って、ビシッと叩いたりするから馬車みたいなかんじ。

ガイドさんはアカ族という、主にタイ北部の山岳地帯に住む少数民族の方でした。長い山道を登っていくと小さな村に到着して、そこに泊まりました。朝方3時くらいにたまたまトイレ(といっても野原なんですけど…)にいったとき、民族の人たちが二宮金次郎みたいな薪を背負う道具を持ってぞろぞろと山に登って行くのが見えて。それから7時の朝食の頃に、その人たちが小枝みたいなものをいっぱい背中に積んで帰ってきた。多分火を起こすための枝を大勢で集めに行っていたようです。バンコクの必死な人たちのエネルギーと、チェンマイで自然と一体化している生活のギャップもすごくて。その頃私は20代なかばで、何をやっていいかわからなくて悩んでいたのですが、もしかするとこの国に住んだら答えがわかるかもしれないな、と思いました。

宿泊した山岳民族の村

自分の悩みの答えがタイにあるかもしれない

それから日本に帰ってすぐにタイ語学校を探して、タイ語を勉強しました。タイにやばいくらいハマる人のことを「タイタイ病」って一部で呼ぶらしいのですが、それにかかってしまって(笑)働きながら1年間、語学まで勉強しましたが、これは行かないと気が済まない!となってしまって。そこから仕事もやめて、2年間タイに住むことを決意しました。

ーそれまではどんな仕事を?

18歳で東京に上京して、実はテレビに出るお仕事をしていました。その当時はCMとかいっぱい出させてもらっていました(笑)。わりと自由な働き方だったから、バイトしながらオーディションを受けに行って、決まったら撮影現場に行くみたいな。それでモデル活動してバイトして旅行して…っていう自由な二十代。街のビルボードに顔がばーんっとでてたりとか。これは自分だけど、自分じゃないという不思議な感覚。面白い経験でしたよ。

ーえっ、モデル?CM?何と衝撃の過去…!

結構楽しい時代でしたが、長く続けているうちに、特に最終的な目標もみつけられなかったし、きちんと就職したいなと思うようになって。モデルの仕事と並行して働いていた眼鏡の会社で、社長さんにモデルをやめようと思うと相談したら、「ここに就職すれば?」と言っていただいて、そこで広報担当としてしばらく働いてから、辞めてタイに移住しました。

ー2年間タイに住むって、大きな決断ですよね。1年でもなく、2年。

そう。この2年は本当に面白いというか、人生のたからものの時代です。思い切って飛び込んでみると、最初は無我夢中でも、後からたからものの意味がわかるというか。あの経験はお金出しても買えないと思います。

さて、ここまでで、想像以上のOKKO YOKKOさんのエネルギー凝縮度に驚いているので、ちょっと一息…。

職人の街に育ち、「ムフちゃん新聞」を書いて、なおかつ多くの人の前で魅力をふりまいていたという驚きの過去を持つよっこさん。
だからこそ、タイという国に出会った興奮のひとつひとつを、「こんな面白いもの見つけた!」という感動とともに人々に伝えられるのでしょう。

さて、後編ではもう少しOKKO YOKKOさんのタイの雑貨とイランの靴下の販売についてと、イラストレーターとしてのお仕事についても合わせて詳しく伺っていきたいと思います。

OKKO YOKKO(オッコヨッコ)
タイとイランの「ココロアルモノ」を販売する雑貨店 兼 イラストレーター。春夏はタイのハンドメイド雑貨、秋冬はイランのおばあちゃんの手編み靴下を扱い、季節ごとに変化する雑貨店として、各地イベントにて活動中。 
聞き手:あまのさくや
絵はんこ作家「さくはんじょ」主宰。誰かの「好き」からその人生を垣間見たい、表現したいという気持ちで、文章を書いたりものづくりをしたりしています。 

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