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正論という無意識な悪意

「いつも正論を言うよね」

当時、その言葉に違和感を感じました。

まるで正論を言ってはいけないような

その言葉に…。


「言葉にしたくなかった」

人前で話すことや言葉にすることが苦手な時期が

ありました。

もともと自己肯定感の弱い私にとっては言葉を発し、

それを否定された時の精神的負担を考えると

他人に意思や意見を伝えることは怖かったのです。

自分の言葉を発しなければ、自分が落ち込むことも

恥ずかしく思うこともありませんでした。

だから、言葉にはしたくなかったのです。


「出逢いによる変化」

路上生活者、障がい者、難病患者、高齢者、

社会的養護の子ども達にボランティアを通して

出逢いました。

世間でいう所の社会福祉の分野に足を踏みこんだ時に

感じたのは、こんなにも声に出したくても公に声を

出せない人たちがいる世界があるんだということでした。

当事者であるからこそ、内側にいるからこそ声に

できないことがあることを知りました。

だったら外側にいて、その内情を知る人間が

声を上げていけばいいのだと思いました。


「言葉にすること」

言葉にするには覚悟が必要です。

自分の感情論だけで発した言葉では受け取る側の

心を動かせません。

自分に関心を持った物事にはトコトンのめり込みました。

ミクロ的観点を備えるためには自分の身体を使い、

当事者の声を聞きにいき、長い年月をかけて関係性を

築いてきました。

マクロ的観点を備えるためには、当事者に関わっている

専門職の人たちの声を聞きにいき、多くの文献を読み

漁りました。

公に言葉を発するには知識や経験を自分を守るための鎧とし、

自分の言葉に自信を持たなければなりませんでした。


「正論という攻撃」

「いつも正論を言うよね」

の後に続く言葉がありました。

「まるで自分が間違っているように思える」

その人は言いました。

当時は思いました。

「ほらね。間違ってるんだよ」と。

でも、今は思うのです。

正論や善意の押し付けは自分自身の身勝手で暴論や

悪意を作り出すことに繋がると言うことを…。

当時の私は忘れていたのかもしれません。

なんのために言葉を発しようとしていたのか。

「あなたは間違ってる」

善悪の判断を伝えたかったのではありません。

「知ってほしい。こんなことが起こっているんだよ」


「足りなかったこと」

自分に明らかに足りなかったものがありました。

今の自分にも言えるかもしれません。

「聴く」と言う行為です。

現在購読中の

心をつかむ超言葉術

の中にあった「聴す」と言う言葉。

私はそこが抜け落ちていました。

相手の言葉を受け止める行為は、自分の

凝り固まった心を解放することでもあります。

他人の言葉を聴かずして他人の心に届く言葉は

発せません。

それがどんなに正論だとしても相手には届かないと

知りました。

「想いを伝える」

と同時に、

「想いを受け止める」

上っ面ではなく、その双方を備えていたいと思って

います。

今はその習慣を身に付けようとしています。

難しいことではあるけど、その方がたくさんの人に

自分の言葉が届きそうだから。

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