僕はどう生きようか。
さて、今日はどう生きようか。
朝起きて、まず考える。そんな暇もないくらいに、暇つぶしであふれた世の中。こんな時だからこそ、考えながら生きたいなと思っています。
先日、YouTubeでボディビルダーの木澤さんと相澤君の対談を観ていた時、日々の生き方について考えさせられた場面がありました。
ライフハックというか、人生の教科書的な動画なので全部観てほしいのですが、要点をあげると4分あたりから。
相澤君の就寝前の習慣について。
就寝前90~120分前に入浴を済ませ、その後は光を取り入れないようにしているらしい。
テレビもスマホも見ず、読書とコンディショニング、残しておいた家事を済ませる。
一見とてもシンプルですが、この習慣を行えている人って現代の日本にどれくらいいるのでしょう。
休むことにどれくらい気を使えているか。積極的に休めているか。
これが人の内面に大きく関わってくると思っています。安定性というか、制御の部分。
数時間テレビやスマホを見ないことって、実は何にも犠牲にしてないじゃないですか。
睡眠時間・質とか、ストレッチしないとか、自分の思考に集中する時間を取らないこと比べたら、雀の、いや、ミトコンドリアの涙くらいだと思うんです。
と、森田も言ってました。
と、誰かが言っていました。
武器を使いこなせば、多くの場合罪を被りません。
つまり、若干関係ないようにも思えるこの二つの言葉は、こと自分に目を向けたときに因と果の関係にあるように思います。
将来の夢や人生設計など、未来のことを考えた時、一番大切なのは明日、今の自分がどうするか。です。
手にしたい果があるときに大切なのは、因を起こすことです。
よく、マイルストーンだかなんとか、難しい横文字で言われますが、それです。上流から荒波に乗って流れてくる過程の中で角でも取れたんでしょう。丸い石。
とにまる、習慣をおろそかにしてはいけないということです。
なぜか忙しい、そんな日々こそ、積極的に休むという意識を大事にしたいなって思います。特に寝る前の行動は、身体や精神の状態を保つためにとても大切です。
良いstateのために、staticを取り入れていきましょう。あ、河口の「兎に角」拾ったから丸くなっちゃった。
寝る前くらい、インプットとかアウトプットなんて捨てて、メディテート。
そのための手段なら、インプットやアウトプットもありだと思います。
noteも手段です。
と、ここまでが
『動』(『Do』)
の章です。
次に、
『心』(『Think』)
の話に移ります。あ、言ってなかったですね。
はい、これでいいか。
ところで、
あ、章分けした中でところでっちゃ良くないか。
ところで、
昨日のドラマ『最高の教師』観ましたか。
一部ファンタジーな設定があるのですが、正真正銘の社会派ドラマです。
制作陣の社会への問題提起も十分籠っているように感じますし、そうでなくてもこの社会だからこそ生まれた社会派です。
特に、昨日の回でテーマになっていたのは、
「外野は黙れ」です。
事故とか事件とか。自殺とか、不倫とか。
もっと身近なことで言うと、隣の誰かの悩みとか。
本人が助言や共感を求めているなら、介入するべきではあると思うんですけど、そうではなくて、当事者が顔を知らない人まで介入しようとしていることもあるじゃないですか。
起こっている問題のほんの一部しか知らないような人間が、憶測だけで語るな。と。語るどころかただただ悪口を言うだけのこともある。
盾さえ持っていない人に対して、槍を投げる。どうせ当たらないからと、ただ自分のストレスを捨てたいが火矢を射って、自分の手から離れたし、その他無数の矢にまぎれたからもういいかと、射った矢のことなんかすぐに忘れる。
もし、誰かに刺さってしまったら。もし、何かに引火して大火事が起こってしまったら、責任を取れるのでしょうか。
現代では、あなたの射る矢にはあなたの名前が刻まれています。だから、辿られればバレますし、バレるバレないではなく、自分でその責任を背負えるか。その攻撃にそれくらい強い意志があるのか。を考えたいですね。
ちなみに、「それ」はあなたを癒す一助にもならないと思いますよ。
「死人に口なし」という言葉。
死人は何も反論できないんだから、言い放題だ。
じゃなくて、
死人は何も主張できないんだから、他人は何も言うな。
から生まれた言葉なんだと思います。
それと、本題『心』(Think)について。
心の持ちようと、そのための考え方についての僕の個人的な戦略です。
前の記事でも書きましたが、自分の身に起こった出来事には制御可能な部分と不可能な部分があって、悩むべきは制御可能な領域だけであって、そのすべての領域は自分で満たされているという意識を持つことです。
不安も怒りもすべて自分にベクトルが向きます。大抵の場合、自分にベクトルが向いていると、必要以上の怒りは湧きません。
みんな自分に甘いんです。
もあると思いますけど、自分に関しては原因をすべて把握しているので、しょうがなかったで済まされる部分も結構あります。
そして、全ての出来事の責任を背負うのは重いようで、案外軽いです。
自分の知らない他人の行動や考えに疑心暗鬼になる方が、負荷がかかります。原因に制御不能なものを挙げると、いつまで経っても改善の余地なしのままです。
だから、自分と向き合うのって気楽です。
もし、他人の行動が気に食わないのなら、自分のベクトルを合成することで方向を変えられます。
いいですか。形は似てますが、悪口はベクトルではなく矢です。矢は鼻垂れますが、ベクトルは自分から離れません。根付いてます。これが見分けるコツです。
あと、上にも通づるのですが、考え方について。
誰かに共感してほしかったり、自分の中で模範解答がある上で他人にそれを言ってほしくて相談したりする場面ってあるじゃないですか。
あれの目的って、『正当化』とか、社会と自分のギャップが『ないことを確認する』ための作業だと思うんです。だから共感されなかったら他の人に再チャレンジする。
個人的な偏った考えですけど、あんまり意味ないと思うんですよね。
コミュニケーションの一つとして、大部分を占めているので必要だとも思います。
ただ、そこに自分の心を持ち込まないほうが良い。
否定されたときに、負の感情が湧いたら本末転倒なんですよ。
感情的にならない、自分から切り離した部分のあんパンを食べてもらうのは良いと思いますが、まだ自分の一部のあんパンを食べさせるのはリスクが伴います。
共感を求めるのはつまるところ、自分を安心させたいから。
であれば、百発百中の的めがけて投げればいいじゃないか。
ということで、コメディではなくシリアスな共感は、自分を一番よく知っている人にするべきだと思います。
家族?恋人?いいえ、ペットです。植物です。おもちゃです。
それらを通してあなたは誰と会話をしますか?
そうです、あなたです。自分自身です。
すごいですよ。百発百中で自分の納得できる回答が返ってきます。
ただ、自分の意思だけを優先して行動したら問題が起こりますよね。
自分自身だけとコミュニケーション取っていたら社会とのギャップを感じて不安になるかもしれません。
だから、自分を一般化する。基準を社会の基準に調整しちゃえばいいんです。その過程で、どうしても譲れないところは譲らなければ。
こうすれば、守破離の窓…ジョハリの窓の2領域が易々と埋まります。
左上と右下。
え?確かに左上と右下ですよ。
ほら。
いや、社会に基準合わせろよ。
えーっと、それで、結局一部の共感を求める行動って、解決策を知りたいとかではなく、右上と左下を埋めたいだけなので、解決します。
ストレスもないのでお勧めです・
話は変わりますが、
映画『君たちはどう生きるか。』観ましたか?
面白かったです。ザ・ジブリって感じで、あの世界観に溺れさせられる感じ。まだ誰にも共感してもらっていないのですが、物語の大枠は
『スズメの戸締り』に近いように感じました。
どちらも細田作品と宮崎作品の色を存分に発揮しながら近いテーマについてまとめられたような。
諸々映画への感想はあるとして、このタイトル意味について。
個人的には、
宮崎先生が僕らにどう生きるんだと問うてるものでも、
こう生きなさいと指南しているものでもなく、
自分の生き方と向き合ってほしいというメッセージだと思います。
選択肢です。
だから、僕らは常に自分と向き合いながら、習慣、複利という武器を用いて、目指す未来を実現させたいね。
すけお
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