見出し画像

#021身近な史跡、文化財の楽しみ方(6)

 今回は史跡を中心にご紹介しようかと思います。まず最初に、普段見ている何の変哲もない道について。

画像1

 上の写真は京都のとある場所の道路です。こちらの道路は地図で見ると一直線に表記されています。しかし、この方向から見ると若干蛇行している様子がみえます。

画像2

 こちらの道路も地図上では一直線の道路ですが、実際に現地で見ると若干曲がっていることに気付きます。実はこれらの道は古い道、具体的には江戸時代より以前に作られた道、中世の道です。なぜこのように道が蛇行しているかというと、中世は長く戦乱が続く時代であったため、各村落も自衛手段を講じる必要がありました。そのため、村に通じる道を緩やかに屈曲させることで、敵からの見通しを悪くすることと、また敵から見えない場所から弓矢などで身を隠しながら攻撃することを目的として、道を屈曲させていました。江戸時代になると、戦乱が無くなることで屈曲している防御のための道の必要がなくなりります。加えて、各村落、各地域ごとの物流が盛んになることで、屈曲がない直線の道を作ることで、より物流を盛んにしようというように変化していきます。何の変哲もないような道路も、現地で直接見ることで、このようなことも読み取れます。

画像3

 上の写真は鳥羽伏見の戦いのあった、伏見の街中で見つけた弾痕です。この弾痕のある建物は、伏見の町の南北の通りに面しています。南側から旧幕府軍が攻め上り、北側から薩摩藩など新政府軍が迎え撃つ、という配置になっておりました。この写真を見ると、右側の跡が小さく左に行くにつれて大きな跡になっています。つまり、これは北側から撃たれた銃弾が、この柱に命中して止まったということが判ります。ということは、この弾痕は、つまり新政府側が旧幕府軍を撃った銃弾の跡だといえます。

 ここでの写真にはありませんが、伏見という立地は南から北に高くなっている地形をしており、旧幕府軍側は坂を駆け上がって来る状態だったと言えます。また薩摩藩が御香宮付近に大砲を設置したという配置図もあります。御香宮はこの付近では一段高い丘の上にある神社です。現在でも御香宮の東側にある国道24号線は丘を切り開いて通した道として、現地に行けば一目瞭然の場所があります。このあたりに薩摩藩が大砲を設置しており、ここからは、現在は高い建物がたくさん建設されているので想像できないかもしれませんが、当時であれば、現在の西奉行町、東奉行町のあたりにあった伏見奉行所は高台から丸見え状態であったと考えられ、南側の伏見奉行所は北側に陣取った薩摩藩の大砲から容易に砲撃されたであろうことは想像に難くありません。

 今は開発されてしまっている街並みでも、ここを新選組が駆け上がったんだな、あるいは、薩摩藩がここで迎撃したんだなということを、街並みを見ながら想像することも出来るので、その道路や高低差などから楽しむことが出来ます。お近くの史跡でも、どうぞそういう視点で見直してみると、また違った楽しみ方が出来るのではないでしょうか。

いただいたサポートは、史料調査、資料の収集に充てて、論文執筆などの形で出来るだけ皆さんへ還元していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。