見出し画像

#030とんかつと天ぷらのことなど―食と歴史にまつわる、あれこれ

 うちには小、中学生の子供がいるので、夕食にはどうしても子どもの好きそうなものがメインになることが多々あります。ハンバーグ、カレーなどなど。その中でも、妻が面倒くさがって、私にお鉢が回ってくるものが揚げ物です。今回は、そんな揚げ物にまつわる本をご紹介。

 まずはとんかつについて。夫婦二人の時にはほとんど食卓に上ることがありませんでしたが、子供はこういう料理が好きですので食卓に上がる率が多くなります。それまで殆ど作ったことが無かったので、いろいろなレシピなどを見ながら何度も作り、今では我が家の「お父さんの定番メニュー」の一つになりました。

 とんかつですが、まあ肉料理ですので、明治時代以降に日本で食べられるようになった料理です。そもそも仏教伝来以降、肉食を禁止してきたお国柄から、幕末に開港して、国内に外国人が滞在することによって、洋食の歴史が始まるのはつとに知られていることです。とんかつの登場は早く、明治時代には登場し、洋食の定番として定着していきます。以下は、岡田哲『明治洋食事始めーとんかつの誕生』にも色々とエピソードが掲載されていますが、元の料理はフランス料理のカツレツだということや、カツレツと若干調理法が異なること、当初から皿にはとんかつと千切りキャベツが一緒に乗せられてご飯と共に給仕されており、最初から現在のスタイルが確立されていた、ということなどが書かれており、また、食べ方としてはまず衣を外して、中の肉をナイフで切り分けて酒と共にいただき、衣はソースと共にご飯といただく、という、今では明らかに行儀の悪いと指摘を受けそうな食べ方がオーソドックスな食べ方だった、という驚きの事実などが書かれています。

 こちらの本は以前簡単にご紹介しておりますが、この本の面白さをより知っていただきたいので、再度のご紹介になりますがご容赦ください。個人的に非常に面白かった点としては、とんかつをより美味しくいただくために、当初から輸入品であるウスターソースをかけていましたが、さらに味の追及がなされていき、関西ではソース会社が乱立するという景況を呈します。例えば、有名なところではブルドックソースは明治35(1902)年に、オリバーソースは大正12(1923)年に両社ともに神戸で創業していることなどが例として挙げられます。とんかつソースという言葉からも判るように、とんかつに特化したソースを開発することで、結果としてはソース製造が関西を中心に発展していったということが、現在の大阪粉モン文化につながっていることなどが判る非常に興味深い事実といえます。

 もう一つ、うちの子供によく頼まれる定番メニューに天ぷらがあります。うちでは、味ももちろんですが、現地見学などで製造法なども気に入った場合には生産者から直接取り寄せるということをよくしています。例えば、醤油は江戸時代と同じ製造法で作られている醤油醸造業者の工場を見学させてもらった際に気に入って、それ以来、年に何度か直接醸造所へお訪ねして購入しています。同じように、夏場の野菜である茄子も直接農家から購入しています。これはたまたま懇意にしている農家で作られている茄子で、千両という品種の物です。どうも中国地方でよく生産されている品種のようです。

 そちらの農家は、偶然知り合いになったのですが、京都のさる漬物店に納品されている生産者で、千両はあくの少ない、生でも食べることの出来る品種です。うちでは届くと真っ先にサラダにしていただく、というようになっています。その茄子を天ぷらにして食べるのが、家族全員の毎夏の楽しみです。でも、そうは言うものの、なかなか天ぷらを揚げるのは難しく、特に衣を作るのに苦労をして、ああでもない、こうでもない、と試しており、3年くらいは試行錯誤してました。先年、偶然テレビで見た土井善晴の料理番組での衣の作り方を紹介しており、それを試してみたところ、非常に良かったので、それ以来、うちでは土井善晴流の衣で天ぷらを作っております。参考にした番組は、多分下記URLのものだったかと思います。良かったらご参考にしてみてはいかがでしょうか。

 うちでは茄子の天ぷらを岩塩を少々振っていただくというのが定番になっています。もちろん天つゆでいただいても充分美味しくいただけます。今年もそろそろ季節なので、届くのを非常に楽しみにして待っております。

 天ぷらそのものは、現在では高級料理という雰囲気で見られますが、成立当初の江戸時代には労働者階級のファースト・フードといった印象の食べ物でした。いわば現在のイギリスの「フィッシュ・アンド・チップス」といった位置づけが最も近いのかもしれません。『守貞謾稿』によると、天ぷらとは、関東で天ぷらと呼ばれていたものが、いわゆる現在天ぷらと我々が言っているものに当たります。取り扱う具材としては、あなごや貝柱、こはだ、芝エビ、するめなどに衣をつけて油で揚げたものです。寿司と同じく、江戸前で採れた魚介類を使っています。関西で当時天ぷらと呼ばれていたものは、現在の「さつま揚げ」にあたる、魚のすり身を油で揚げたものを指していました。今でもスーパーなどで販売されているもので「ごぼう天」というごぼうに魚のすり身を巻いたものを油で揚げたものがあります。鹿児島などではいわゆる「つけ揚げ」というものと同様の作り方です。これらに代表されるものも、関西では現在でも「天ぷら」と称しています。子供心に、同じ天ぷらなのに随分と違う、ということに不思議を感じたことがありましたが、「ごぼうの天ぷら」を省略した名称で「ごぼう天」ということですね。関西ではおでん(関東煮)の定番の具材ですが、下記のURLのように紀文やカネテツからも販売されています。こういうところに、昔の名称の名残りが残っているんでしょうね。

 天ぷらの本、というと飯野亮一『すし、天ぷら、蕎麦、うなぎ』くらいしか存じ上げないので、こちらも同じく再度のご紹介となりますが、ご容赦ください。こちらには、ファースト・フードとしての天ぷらが、江戸の町で屋台として割拠していた様子や、同様にファースト・フードとして発展した蕎麦が、屋台が隣り合ったことで利用客が蕎麦に天ぷらを乗せて天ぷらそばを発明し、それが天ぷらそばの誕生になったというような面白いエピソードなども掲載しています。ご興味のある方は是非ご一読ください。

 


 


いただいたサポートは、史料調査、資料の収集に充てて、論文執筆などの形で出来るだけ皆さんへ還元していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。