#124遅刻と怠惰(一)-続・近代はどうやって地域にやってくるのか?-
前回は、地域にどのようにして近代貨幣制度が流入してきたかについて、実例と共に紹介しました。地域性の差はあれども、恐らくどこであっても明治四年(一八七一)に一律に普及したのではないということは言えるでしょう。
今回は、貨幣と同じように近代に地域に普及していく「時間」について触れてみたいと思います。橋本毅彦、栗山茂久編『遅刻の誕生 近代日本における時間意識の誕生』(三元社、二〇〇一年八月)という非常にタイトルが魅惑的な本があり、発刊当初には随分面白い研究があるものだなぁ、と思わされました。この影響もあり、史料調査をする際には関連する内容を気にしてきたので、今回も当時の様子などにも触れながら紹介したいと思います。
時間概念については、近世においては、時間は子の刻、丑の刻といった十二支によって表される一二等分によって認識されており、より細分化された時間認識としては、少なくともその半分の「半刻」や四分の一の「四半刻」という認識であったため、二時間ごとや一時間、三〇分といった単位で認識されていました。また、実際の日の出、日没などを基準としていたことから、季節によって一刻にも幅があり、大雑把な時間の把握の仕方でも問題ないというのが近世での時間の認識でした。
また、当時は置時計は非常に高価なものでもあり、また腕時計などは登場していないこともあり、日常での時間の把握が、寺院の鐘による告知などによっていることからも、個々人で細かな時間の認識をする術もなかったともいえます。
一般的に時間の観念が地域に浸透する契機として、学校教育と徴兵制が挙げられると思います。学校教育では一時間目、二時間目というように、時間ごとに履修する科目が設定されていることで、普段の生活の中から時間を気にする生活習慣が身に付けられていくような仕組みになっています。徴兵制においては、何時に部隊を集結させて一斉に攻撃する、というような作戦運用を、行軍の歩速を訓練によりなどにより統制することで身に付けていくという仕組みが取られています。学校教育と徴兵制による訓練を受けることで、それぞれの教育を経た人達が地域へ時間や規律の大切さを普及させていったといえるでしょう。
地域における時間概念の普及の様子については、以前に「郡長排斥運動に見る(近世)と近代の相克-論文執筆、落穂ひろい-」において、徴兵検査の際に、検査該当者たちが決められた時間に検査会場に集まらないということが問題になっている様子を紹介しました。この際、徴兵検査には地域の役場吏員も同行するため、役場吏員から検査対象の地域住民に対して集合時間が徹底されていないといことが問題視されています。ここではいわゆる「遅刻」について叱責される様子が描かれており、近世的な時間感覚でいた地域住民に対して、近代的な時間感覚を求める大阪府庁の地方官僚との相克を見て取ることが出来るといえるでしょう。
今回は近世的な時間感覚と近代的な時間感覚について、遅刻を例に紹介しました。次回も、このお話の続きにお付き合いいただいて、もう少し大きな時間概念としての「暦」を例に引いたお話をご紹介したいと思います。
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