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柳田知雪『明日、誰かに言いたくなる食べ物の話 ~七面鳥~』

『あすたべ』シリーズ、いよいよ今回で最終回!
もちろん、このお話だけでもお楽しみいただけます。
今までの食べ物のお話が気になる方はこちらから ↓
メロン(創刊号掲載)
ぶどう(8月号掲載)
エビ(9月号掲載)
ブロッコリー(11月号掲載)

 12月25日、葵は勢いのまま七面鳥の丸焼きを買った。
 家でパッケージから取り出しポツンとテーブルに置かれた七面鳥は、スーパーで並んでいる時より、一回りか二回り大きくなったような錯覚を葵に覚えさせた。ナイフとフォークであらかたの解体を終え、最初の一口目を食べる。そこまで来て、ようやく1人で食べきれる量じゃないな、と葵の中でまともな思考が働いたのであった。
 前にも同じような失敗をしていたことを思い出し、葵が渋い顔をする。あの時はメロンだった。それでも七面鳥を買ったのは、七面鳥の丸焼きを見た葵の胸に郷愁が過ったからだ。
 幼い頃、クリスマスに七面鳥の丸焼きを食べる、というシーンをテレビか絵本で見た葵はその年のクリスマス、是が非でも食べたい、と家族に訴えた。母親がしょうがない、と冷凍の七面鳥を買ってきてくれたものの、オーブンに入らず、てんやわんやなクリスマスを過ごしたのだ。
 だが今の時代、すでに火が通ったものがスーパーに売られている。値は多少張るが、年に一度のクリスマスくらい、贅沢をしてもいいだろう、と葵は再びフォークで一切れ分、口に運んだ。

「文句を言ってくる相手もいないしね」

 葵の独り言が2LDKマンションの一室に切なく響く。時計を見れば、19時ちょうど。葵が自然と思い浮かべるのは、あまり酒に強くない隆宏が赤い顔をして居酒屋で同僚に囲まれている姿だった。
 隆宏の同僚である学校の先生たちとの忘年会は、毎年クリスマスの頃に行われる。幹事を任されている教頭は独身なのだが、世帯持ちやカップルへの嫌がらせ、と囁かれつつも今年もクリスマス当日である金曜日に忘年会を決行した。
 毎年のことだし、未だに「飲み会での付き合いが~」なんて言う先輩教師たちもいるため、おいそれと断れない隆宏の性格もあり、葵は今年も行くのだろうと覚悟はしていた。12月に入ってすぐ、隆宏から申し訳なさそうにお伺いを立てられれば、行くな、とも言いづらく葵は結局忘年会に送り出してしまったのだ。
 イブである24日は平日で、隆宏はいつもの如く忙しそうに家を出て、疲れた顔で帰ってきた。結婚して初めてのクリスマスだったが、おかげでこの家で特にクリスマスらしいことをする暇も2人にはなかった。ケーキくらい買ってこようかとも葵は思ったのだが……

「うっ……」

 葵は突然の吐き気に口元を覆い、慌ててキッチンのシンクへ走る。食べたばかりのものが自分から出ていってしまう虚無感も、もはや彼女には慣れたものだった。胸元を擦り、まあるく膨らんだお腹を撫でる。
 妊娠8か月。長い長いと思っていた十月十日も気付けばあっという間だ。妊娠が分かって親に報告して、安定期に入ってからは職場に産休・育休の申請、そして引き継ぎ。そんなことをしているうちに、あっという間に産休がやってきて重い体と爆発する食欲に振り回されながら今日に至る。
 家にいる時間が増えて子育て前の最後の休暇がもらえるかと思いきや、1人の時間は葵に決して楽をさせてはくれなかった。普段考えなくて済んでいたことに、ふと立ち止まって考えてしまう日が増えたからだ。仕事している時は仕事のことしか考えずに済んだが、家に1人でいるとそうはいかない。
 朝起きて、隆宏に朝食と弁当を作って送り出す。掃除をして、洗濯をして、少し休んで昼食、たまに産婦人科へ検診に行き、洗濯物を取り込むと日が暮れて、夕食作り。夜の帳が降りた頃には隆宏が帰ってきて、2人で夕食。簡単な会話だけして、彼はそそくさと仕事部屋に籠もって明日の授業の準備へと取り掛かるのだった。
 事柄だけを並べれば、それはどこにでもある普通の光景かもしれない。よくある主婦の日常のルーティンで、平和でさえある。だが、内容はそう簡単なものではなかった。大学時代から葵は知っていたことだが、隆宏は変なところに対するこだわりが強く、頑固だ。一度冷凍した肉はうまく処理しないとまずい、と言って食べないし、洗濯物は裏返ったまま洗濯機に入れるし、廊下の電気はつけっぱなしだし、トイレだってたまに便座が上がったままだ。
 注意をしても、1日気を遣ってくれればいい方で翌日には同じことの繰り返し。何度注意したか、もはや数えることなんて到底できない。なんだか、もうすでに大きな子供を1人持ったようだ、と葵はよく思うようになった。同時に、ここにもう1人子供が増えるのか、と思うと恐怖に近い感情さえ湧いてくる。もう1人の子供は、少し目を離しただけで死に繋がる可能性があるというのに。
 子供に何かあった時、真っ先に責められるのは間違いなく葵だろう。1番近くで見ていた大人、それが母親なのだから。その時、果たして隆宏はどこにいるのだろう。学校だろうか。それとも、家にある自分の仕事部屋か、寝室かもしれない。時折、産婦人科で行われる両親講習も、隆宏は忙しさを理由に欠席しがちだった。そんな時、他の妊婦さんの隣にいる旦那を見ては、チクンと胸に棘が刺さる。

「だめだ、また考えてる……」

 やめよう、と頭を振ったその時、玄関の方から物音が聞こえた。はっとした葵が顔を上げると、リビングの扉が開き、赤い顔をした隆宏が顔を覗かせた。

「ただいま」
「おかえり、もう少し遅くなるかもって言ってなかった?」
「あ、あー……今日は一次会終わりに抜けてきた」
「へぇー?」

 すると、隆宏はすぐにテーブルに乗っている解体された七面鳥を見て、あ、と声を上げた。

「え、七面鳥の丸焼き!? 1人で食べるつもりだったの? さすがに無茶でしょ」
「うるさいなぁ、スーパーで見た時は美味しそうだったの」
「いやいや、だってほとんど食べてないじゃん」

 隆宏はからからと笑いながら、実際半分以上残っている肉をひょいとつまんで食べた。

「うわ、パサついてる。これいくらしたの?」
「えっと……6000円?」
「高っ!」

 酔っているせいか、隆宏はいつもよりも派手なリアクションで驚いてみせた。何気ない会話、当然の反応。隆宏が別段何か悪いことをしたわけではない。それを理解しつつも、葵の心中は殺伐とした風が吹きすさぶ。

「お酒臭いよ、早くお風呂入ってきたら?」
「その前にこれ」
「え?」

 隆宏が白い箱を差し出す。小さな取っ手がついたそれは、見慣れたケーキ屋の紙箱だった。

「なにこれ」
「メリークリスマス。遅くなっちゃったけど……」

 はっとする葵が、おずおずと受け取った箱を開ける。中には赤い苺の乗ったショートケーキと金粉の散ったチョコレートケーキが一切れずつ並んでいた。ひんやりとした箱の中の空気から、仄かに香ってくるクリームの甘い匂いに、葵の中に吹いていた風がパキンと凍り付く。
 違う。と、葵は自然と胸の内で呟いていた。
 隆宏は決して、葵を蔑ろにしているわけでも、子供を楽しみにしていないわけではない。むしろ、妊娠が分かった時は小躍りするくらい喜んだのだ。顔を上気させて、見開いた目をじわりと滲ませて。つわりがひどい時も、彼はトイレで膝をつく葵の背を擦ってくれた。優しい隆宏は、優しい彼のまま、この家で葵と暮らしている。
 葵は分かっていた。分かっていたし、隆宏を責めるような考えが浮かんでしまう自分をどうしようもなく嫌悪していた。どうしてそんなことを考えてしまうのだろう。何を疑うことがあるのだろう。そもそも、私たちはどちらも初めてのことばかりで、全部を完璧にこなすことなんてできない。
 どうしても焦ってしまう葵の心に宿る氷の棘は、彼から与えられる温かな優しさにその切っ先を向けてばかりだ。こんな気持ちを向けるために、彼と一緒になったわけではないのに。
 ぽたり、と箱の上に雫が落ちる。

「あ、葵……?」

 動揺する隆宏の声が、葵の耳に届いた。しかし、零れだしたそれは止まらない。

「ど、どうしたんだよー! もしかして別のケーキが良かった? あ、ケーキは食べちゃダメだった!? 一応、ネットで調べて少しなら大丈夫かと思ったんだけど、やっぱり糖分の取りすぎは良くないよな……ごめん、苺だけでも食べる?」
「……ふふっ」

 突然、笑いを零す葵に隆宏は首を傾げる。同時に少しだけホッとしたように、緊張していた肩から力が抜けていった。

「苺だけでも、って……そこじゃないよ」
「えぇ? じゃあ、どこ?」
「内緒。買ってきてくれてありがと。大丈夫、ショートケーキくらいなら食べられるよ」

 時間も時間だったため、ショートケーキは半分だけ食べて残りは隆宏に食べてもらうことにした。チョコレートケーキまでぺろりと食べ終えた隆宏は、皿洗いをしながら短く明るい声を出す。

「そういえば、考えたんだけど」
「何を?」
「子供の名前」
「えっ」

 タオルで水気を手早く拭き取ると、隆宏は鞄の中から1枚の半紙を取り出した。照明の光を柔らかく透過する紙に、艶やかな墨で描かれた文字に魅入る。それから、確かめるように一画一画をゆっくりと視線でなぞっていった。

「『水瀬 実』で、男の子だったらミノル。女の子だったらミノリ」
「ミノルか、ミノリ……綺麗な名前。でも、どうして実?」
「何かこう、食べ物に困らなさそうな名前にしてあげたくて」

 隆宏の言葉に、葵はついに吹き出した。

「あははっ! 食いしん坊精神を子供にまで遺伝させるつもり?」
「そんなに笑う? 七面鳥の名付け方よりはちゃんとしてると思うんだけど」
「七面鳥の名付け?」

 葵の質問に、隆宏はニヤリと見慣れた笑みを浮かべる。どうやら、また彼のウンチクスイッチを押してしまったらしい。


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