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柳田知雪『明日、誰かに言いたくなるような食べ物の話 ~車海老~』

残暑の厳しい今日のおやつは、先月から冷凍庫に保存していた冷凍ぶどうだった。少しだけ解けた表面はとろっとしていて、噛み潰せば中にできた小さな氷の粒たちがしゃりっと歯を押し返す。

4年前に初めてこの食べ方を教えてもらった時から、葵はこの触感にやみつきだった。

「今年のぶどうも、これで最後かぁ」
「うん……」
「ね、最後の一粒もらっていい?」
「うん……」

少し前から隆宏はどこか心ここにあらず、と言った雰囲気だった。たまにムシャムシャとぶどうを食べては、またぼーっとテレビを眺める。

「そういえば今度、車海老が届くんだって」
「車海老……?」

さすが食いしん坊同盟、と言ったところか、美味しそうな話に隆宏は食いついた。

「刺身で食べるならその日中だよね、と思って。タカくんも食べに来る?」「もちろん!」

隆宏は大きく頷いて、茎だけになったぶどうに手を伸ばした。そして、摘まめるものがないことに気付き、はっとした顔で葵を振り返る。

「そんな顔されても……さっき最後の一粒いい? って聞いたでしょ」「え、そ……そうだっけ?」
「うん」

最後の一粒が口の中で溶けて、やがてちゅるんと喉の奥に落ちていく。
まだぶどうが食べたかったのか、隆宏はぐっと拳を握りしめる。そして何かを思い出したように、ポンと手を打った。

「葵は、ぶどうって漢字で書ける?」
「え? 薄っすら形は思い出せるけど、書くのは無理かなぁ……似たような漢字が並んでるイメージ」
「そうそう。こう書くんだけどね」

隆宏はスマホの文字入力機能で、『葡萄』と打ち込んだものを見せてくれる。葵はそれを見て、ぼんやりとした記憶がカチンと像を結ぶ。

「あ、そうだ。そんなのだった」
「実はこれ、葡萄って書いてエビって読むんだよ」
「そうなの?」

車海老の話をしたせいか、葵は知らず知らずのうちに隆宏のウンチクスイッチを押してしまったらしい。さらに、葡萄としか読み方の知らなかったそれに突然海の幸を出されたことで、素直に驚いてしまった。

そんな反応で調子に乗った隆宏は、すらすらと流れるように言葉を紡ぎ始める。

「ぶどうとか、ワインみたいな紫っぽい赤を葡萄色(えびいろ)っていうんだよ。それが、エビって名前の由来って説があるんだって」
「へぇ……」

葵は初めて知った話だったし、いつもなら「またいつものウンチク……」で終わっていた。

しかし、先ほどまで上の空だった彼が、自分のウンチクを披露する時だけ我を取り戻したのが葵は少し気に入らなかった。

「タカくん!」

葵の苛立ちが混ざって、彼の名前を呼ぶ声が妙に響く。隆宏はビクリと肩を震わせ、背筋をピンと伸ばした。ふっと息を吐きながら、葵はじとーっと隆宏を見据える。

「何か言いたいことでもあるの?」
「え……」
「さっきまで、ずっと上の空だったでしょ? 何か悩んでることでもあるの?」

自分を落ち着かせながら、葵は隆宏に寄り添うように言葉を続けた。

今は少し落ち着いているが、もう少しすればまたお互いに忙しくなって、会う機会も減る。せっかくの2人の時間をぼーっと過ごされるのも嫌だったし、何より不安や心配事があるなら、今のうちに聞いてあげたいというのが葵の想いだった。

そんな葵に向き直った隆宏は、なぜかきりっと眉を引き上げる。突然、真面目な顔をした彼に葵は面食らった。そして、葵が次の言葉を探す間もなく、隆宏は口を開く。

「同棲、してみない?」

同棲、と葵が口の中で知らない言葉のように反芻する。

もちろん、意味は知っていた。付き合って4年経つ。だからそれが、結婚を見据えている、彼からのアプローチだとも検討がついた。葵自身も、その選択肢を考えていなかったわけではない。

「少し、考えさせて……」

だからこそ、それが、葵からの返答だった。


 ***


その数日後、葵は大学の同級生である友人、すみれと夕食の約束をしていた。

「えー! いいじゃん、同棲! 楽しそう!」

すみれは声を弾ませながら葵に返す。彼女ならそんな反応をする、と葵は予想していたものの、実際に言われてみると曖昧な笑みで返してしまう。

何となく視線を合わせづらくて、葵は果物がどっさり入った自家製サングリアに刺さるストローでくるりと氷と果物をかき混ぜた。

「なんですぐOKしなかったの? タイミング的にも悪くないじゃん。むしろ、その辺りで言ってくるのが、隆宏くんらしいけど」
「そうだね……」

タイミングとしては、確かにこれ以上ないくらいの時期だった。いろいろあって今の家に引っ越したのが2年前の10月。2年契約のため、今年の10月で契約は切れてしまう。

つまり、引っ越しの手続きを始めるなら、今がギリギリのラインだった。

「その分、悩む暇もないってことだよ……」
「隆宏くん自身もそこそこ悩んだ末の、この時期だろうからね。まさか保留にされるとは思ってなさそうだけど」
「う……」

すみれに言われ、考えさせてと返した時の硬直した隆宏の様子を思い出す。鳩が豆鉄砲を食ったよう、とはこういう顔を言うんだな、と葵は思った。

「葵はあれなの? 結婚する前の男女が1つ屋根の下なんて不潔! 的な?」
「いや、そういうわけじゃなくて……ちょっと怖いというか」
「怖い?」

すみれはキョトン、としながらオウム返しする。ちょうど頼んでいたパスタが運ばれてきて、彼女は話を進めるよう促しながら、大皿に乗ったパスタを2人分、お皿に取り分けていった。

「よく聞くでしょ? 一緒に暮らしてみて、実は結構だらしないのがバレて嫌われたりとか……逆に、今までは気付かなかった彼の変な癖とか見つけちゃって、それが嫌になって別れちゃったとか……」

あー、とすみれは大きな口を開けたまま視線を泳がせた。よそい終わった小皿を差し出しながら、互いにフォークでくるくるとバスタを巻き付けていく。

チーズのたっぷりかかったジェノベーゼソースは、爽やかなバジルの香りを漂わせる。一口頬張れば、その香りが鼻を抜けて自然と頬が緩んだ。

「んー! やっぱり、葵が見つけてくるお店は美味しいね」
「どうも」

それぞれパスタの味を堪能したところで、すみれは話を戻した。

「葵はさ、結婚願望ってどうなの?」
「なくは、ない……かな」
「それはその、隆宏くんじゃ無理、とか?」
「……正直、分かんない」

少し前までは、付き合うということはそのまま結婚に直結するものだと思っていた。しかし、いざ結婚という言葉が現実味を帯びると、どこか腰が引けてしまう。

結婚は家族になるということだから、付き合うこと以上に責任が増える。同棲すれば、いよいよ、という感じがして、もしそれで相手を無理だと思ってしまったらどうなるのだろう。

もし別れることになれば、隆宏との4年間はどこへ行くのか。今となっては隆宏がいなかった頃の生活が思い出せなくて、どうしようもなく不安になる。

「その“分からない”を確かめるための同棲なのかもしれないけど、もし分かった時の結果がダメだった時に、どうすればいいのかなって……」
「うーん……」
「それに、これは完璧に八つ当たりだけど。自分から同棲の話持ってきたんだから、私が保留って言ってもちょっとくらい『俺と同棲するとこんないいことがあるよ』みたいなプレゼンで説得してくれてもよくない?」
「あはは、隆宏くんの押しの弱さじゃ無理でしょ!」

すみれは前菜で頼んでいたオリーブを一粒摘まむ。葵は自然と手と口の動きが遅くなっていて、すみれよりもパスタが多く残っていた。そんな葵に気付いてか、すみれは少しだけフォークから口への往復の速度を緩める。

「私は、同棲も結婚もしてないし、葵のその気持ちも分からないわけじゃないけど。そういう心配をする葵は隆宏くんのことがすごく好きなんだな、って思う」
「えっ……」
「好きじゃなきゃ考えないよ。嫌いになりたくないって、今、好きだからでしょ? さては悩み相談にかこつけた惚気だなぁ?」
「そ、そういうわけじゃなかったんだけど!」
「大丈夫、ちゃんと悩んでるのは分かってるって」

けらけらと笑いながら、すみれはワインを一口煽った。合わせるように、自分もサングリアをストローで吸い込む。

「ま、私だったら結婚前のクーリングオフ期間って割り切っちゃうかな。彼氏と一緒にいられるのは嬉しいし、もしそれで嫌になったら結局結婚もうまくいかなかったんだ、って諦めつくし」
「強いなぁ、すみれ……」
「理屈で言うならそんなもん。でも、そうならないのが人の心、でしょ?」

すみれの苦笑に、葵は同じように苦々しい笑みを浮かべながら頷いた。

事実を並べて、頭の中で割り切るのは簡単だ。でもそれができないから、恋とか愛とか好きだとかって感情に振り回される。

「嫌なことがあってもさ、2人なら大丈夫じゃないかな、って私は思うけどね。私でよければ同棲してからの愚痴だって聞くし」
「ふふっ、ありがと」

パスタも食べ終えた頃、すみれがデザートメニューをちらちらと確認し始める。この店はティラミスが美味しい、と葵が伝えれば、すみれは迷いなくそれを頼むのだった。


 ***


その日届いた宅配便は、水墨画のような渋い車海老が描かれた箱だった。

葵の父親がハマっているふるさと納税の返礼品だ。自分たちだけでは食べきれないから、とこうして時折返礼品を葵宛に送っている。

「じゃあ、蓋開けるよー」

葵が声をかけると、隆宏が人の頭がすっぽり入るくらいのビニール袋を持ってくる。それを箱の横でいそいそと広げる彼に、葵は用途が分からず首を傾げた。

不審げな視線に気付いた隆宏が見覚えのあるニヤリ顔をする。

「おがくずと一緒に生きたエビが入ってるから、そのおがくずごと一旦ビニール袋に移すんだよ。そうしたら、エビを取り出そうとして箱の周りにくずが飛び散る必要もないし、袋からエビを取り出したら後はビニール袋ごとおがくずを捨てられるからね」
「なるほどね……って、うわ! 目出てる!?」

青と紫色のグラデーションがかった丸く突き出した目が、おがくずの中からもぞもぞと這い出てくる。

生きてる、と当たり前のことに驚きながら葵は二歩ほど飛び退いた。葵の俊敏な動きに負けじと、箱の中のエビたちもビンッと体を弾けさせ、あっという間に調理台におがくずがばら撒かれていく。

「あ、葵! 早く! 早くビニールに移して!」
「いや、なんかちょっと怖い……わぁ、また跳ねてるー!」

車海老を取り出すだけで、こんなにもドタバタするとは葵は思いもしなかった。ただ、おかげで保留している同棲の話題が出なくて助かったと、密かにほっとする。

床まで散ったおがくずを隆宏が掃除してくれてる横で、葵はエビたちを水洗いする。あれだけ元気に跳ねまわっていたエビたちは、氷に漬けると徐々に大人しくなっていった。

氷漬け、というのも隆宏に教えてもらったウンチクの1つだ。

「そうしたら、皮も剥きやすくなるからね」

掃除機を片付けた隆宏が戻ってきて、隣で車海老の皮をむき始める。たまにこうしてキッチンに隆宏と並んで立つのが、葵は好きだった。食材と向き合う隆宏の真剣な横顔と、上手く調理できた時にニカッと笑った時にできる目尻の皺の可愛さのギャップが好きだった。

こういう気持ちだけでいいのに、とふとここ数日頭に残り続けている考えが過る。すみれは「2人なら大丈夫」と言っていたが、何がどう大丈夫なのか、葵には分からない。

透明感のある白に、ぷりっとした身の刺身が皿に乗る。せっかくだからと、エビフライやマヨネーズ炒めなども作って、彩り溢れるテーブルを2人で囲んだ。

「ご馳走になってばかりも悪いから。葵が好きって言ってたお酒買ってきたよ」
「気にしなくていいのに。でも、ありがとう!」

隆宏が出したのは、甘めのスパークリング日本酒だった。好みの酒が飛び出し、葵は嬉々としてペアのシャンパングラスを用意する。

付き合って3年目の記念に隆宏と選んで買ったグラスには同じ模様が描かれていて、お酒を注ぐと炭酸の泡と一緒に模様が輝いて見える姿を葵は気に入っていた。

「乾杯!」

2人で声を合わせ、カチンと音を立て柔らかくグラスの縁を重ねる。お酒で口を潤し、最初の一口は刺身を選び、恐る恐る口に運ぶ。歯を立てた瞬間、冷凍エビとは比べ物にならない弾力感に顔を葵と隆宏は見合わせる。

そして、頬を緩ませながらもぐもぐと丁寧に咀嚼していった。

「美味しー!」
「刺身最高……」

他のおかずもパクパクと口に運んでいく。臭みもなく、エビの甘味が口いっぱいに広がって、ついでにお酒を飲めばほわほわと体は解けていった。エビばかりの食事なのに、妙な満足感があった。

あらかた食べ終わりかけたところで、ふと隆宏の取り皿に目を移す。

「あれ、エビフライの尻尾食べないの?」

尻尾だけ綺麗に残されたそれを葵が目で示す。葵の問いかけに、隆宏は至極当然という顔で口を開く。

「え、普通食べないでしょ?」
「嘘! そこのカリカリ感が美味しいのに」
「えーだって、ここの成分ってあれと同じ……」
「やめて! その話は知ってるけど、そもそも国によっては食べるし、珍獣ハンターだってジャングルの中で捕まえて食べてたし!」

葵が一息で言い切ると、隆宏はぐっと言葉を詰まらせる。そしてはたと、まるで言いくるめるように反論してしまったと葵は口を噤んだ。

今の話題は、そこまで必死に言い返すような話でもなかったかもしれない。エビの尻尾を食べない派の人が少数でないことも知っているし、隆宏もそのうちの1人なんだ、と納得すればそれで済む話だったはずだ。

ほんの些細な違い。その言葉がツンと胸を刺す。

同棲すれば、こんな些細な違いが積み重なっていくのだろうか。食べ物の話だけでなく、掃除洗濯、トイレの使い方から物の整理の仕方まで、そんな違って当たり前の小さなことが積み重なって、嫌気というものに変わってしまうのだろうか。

そんな不安が葵の胸の中にすーっと吹き込んでくる。

「葵……?」
「あ、え、何……?」
「どうした? 浮かない顔して」

何でもない、と言いながら隆宏から顔を背けようとしたその時だった。振り返りざまに動かした手が、背の高いシャンパングラスに当たる。

「あっ……!」

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