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【無料】中馬さりの『ラスキャスは涙する』前編

今日の献立はサンマの塩焼き、ナスの煮浸し、だし巻き卵、ほうれん草としめじの味噌汁。秋を感じる最高の組み合わせに、僕・羽崎透(はねざきとおる)は満足していた。

これなら食にうるさい名探偵・御剣京子(みつるぎきょうこ)も納得だろう。

彼女は――何というか、かなり気難しい人なのだ。物探しやペットの捜索、浮気調査ばかりの探偵業界に自ら身をおき、なぜか警察とも見知った顔。新宿三丁目というそこそこ立地のいい雑居ビル内に、探偵事務所をかまえる時点で察する人もいるだろう。

しかも、先月は日本が世界に誇るフランス料理の専門協会――セ・デリシュー日本フランス料理協会の美食コンテストで起きた毒殺事件を、”現場に足を運ぶことなく”解決してしまった。

探偵業をやっている人間なんて、事件が起きれば喜々として現場に駆け付けるものなんじゃないだろうか。ところが彼女は助手である僕から聞いた容疑者達の証言をつなぎ合わせるだけで、いとも簡単に犯人を言い当ててしまったのである。

そういうのもすべて彼女の周りの人間は「奇才」と言って片付ける。まあ、そんな探偵の助手をかってでる僕も知れたものかもしれないけれど。


「羽崎くん! サンマのいい香りがするね、ついに君も秋の魅力に気付いてしまったのかい?!」

そんな、うちの奇才がキッチンへと顔をだす。彼女には事件現場にかけつけるより、美味しい料理を食べることの方が重要そうだ。そう思うと、彼女が事務所にいる間、食事を作れるなんて光栄なのかもしれない。

「はいはい、今日の献立は先生も納得でしょうね。ところで、言われた通り3人分用意しましたけれど、誰かくるんですか?」

僕が言い終わるか終わらないか、絶妙なタイミングで玄関のチャイムがなった。古びた雑居ビルの中にあるこの事務所のチャイムは酷くうるさい。ふてぶてしい音が、事務所の中に鳴り響いた。

このチャイムは間違っても2回目を鳴らされちゃあいけない。僕は足早に出迎えた。ドアを開けると、立っていたのはヒョロリと狐みたいな雰囲気の男だった。

「警視庁捜査一課の東山渉(ひがしやまわたる)です。君が羽崎君ですね、御剣探偵から聞いていました。はじめまして」

丁寧な口調とにこやかに"見える"表情。もともと細い目は大して動かさなくても笑っているように見える。普通だったら好意的に接していると思うんだろう。

差し出された名刺を受け取る。かなり若く見えるが、警部らしい。ということは出世コースを走っているのだろうか。

「東山――! 早くこっちにきてくれ、羽崎君の作ったせっかくのサンマが冷めてしまう!」

事務所から御剣先生の声が聞こえる。東山警部はやれやれと言いたげな顔で「彼女の機嫌を損ねないうちに行きましょうか」と小声で言った。



「どうだい、東山警部。私はとてもいい助手をもったと思うんだ!」

食卓が空になると、御剣先生が喜々として言う。

僕なら得意気に献立の内容を解説した。上司――しかも気の強い美女――に仕事を認められ、舞い上がらない男なんているだろうか?

そんな僕の話まで、東山警部は適度に盛り上げ、相槌をうち、行儀よく料理を楽しんでいる。やっぱり、普通なら好感を抱くんだろう。

ただ、僕はこういうイケメンがどうにも好きになれない。「普通は好印象をもつだろう」という雰囲気に流されては、負けた気分になってしまうのだ。

そんな僕の気持ちを見透かしたのか、時折こちらを見ては笑みを投げてくるのがまた憎い。ああいう雰囲気を、世の女性はミステリアスとでも言ってプラスに評価するんだろう。

「それで、お忙しい東山警部はどうしてわざわざ我が探偵事務所まで来られたのかな? いつものようにメールで事件の調査内容を送ってくれればいいのに」

食後の紅茶を口に含むと、先生が本題を切り出す。突き放すわけでもないが歓迎もしていない――そんな探偵らしい疑いを含む物言い。すさんだ僕にとっては救いといっても過言ではない。

東山警部は乾いた笑いと共に「確かに、事件解決に関してはメールでも事足ります」と同意した。

「先生もご存じの通り、警察内部には解決を外部に依頼すること自体をよく思っていない派閥もいますから」

「だろうね」

「ただ、今日は大丈夫です。だって私は、非番の日に、友人から預かった招待状を、知人の探偵に届けにきただけですから」

そういって東山警部は背広の内ポケットから、一通の手紙を取り出した。
ほんのりのラメの入ったオフホワイトの封筒に、クリーム色の封蝋印。派手ではないものの、強いこだわりが見える。先生は僕に開けて読むよう指示をした。


差出人は、恩田裕也(おんだゆうや)。手紙の中身は、彼が調理を務めるディナークルーズの招待状だった。

「恩田シェフの招待状!」

つい、口にだして言ってしまった。

彼は、自他共に認める日本一のフランス料理人。そんな彼の、本気のフルコースが食べられるなんて。そう思っているのは、僕だけではないようだ。

「招待状か! 確かに彼の料理は目を見張るものがあったからね。
なんていうか、とてもハングリーなんだよ。美味しいし、見た目もいいし、まとまっている。ただ、これで完成だと思わせない。むしろ、食べているこっちが"これで満足なのか”って煽られているような気分にさえなるんだよ」

喜々として語る御剣先生を横に、東山警部を見るとクスクスと面白そうに笑っている。

きっと手紙の中身は知っていて、先生の反応も想定通りってことなんだろう。やれやれ、仕方がない。ディナークルーズは必ず出席。彼女は殺人現場より晩餐の場に現れる名探偵なのだ。


--------------


足元は、靴を履いていても理解できるほどふんわりとした柔らかい絨毯。頭上には広々とした天井が広がり、キラキラとシャンデリアが輝いている。

これが豪華客船のレストラン。
日本一のフランス料理人が力を貸すディナークルーズ。

目の前には真っ赤なテーブルクロスと、美しく磨かれた銀のカトラリー。じっとしているだけで、上品な給仕がワインを注いでくれる。ワイングラスは触っただけで崩れそうなほど薄く、口に近づけるとブドウの香りが脳を揺らした。

調度いいテンポで運ばれてきた前菜も副菜も美味しく、向かいに座る御剣先生は上機嫌。その隣に座る東山警部も――先日初めて会った時はかなりポーカーフェイスでくえないヤツだと思ったのだけれど――今日は楽しんでいるのが見てとれた。

「東山に羽崎助手。久しぶりだな! ということは、こちらの美しい方が御剣先生ですね。初めまして」

いよいよ次はメインディッシュというところで、招待状をくれた恩田シェフが僕らの席に現れた。ハツラツとした喋り方に体格の良さ。僕らに向けた口調は人懐っこさがでていたが、初めて会う先生へ優雅にお辞儀してみせる様子はプロのシェフそのものだった。

美しい方、と聞き御剣先生を見る。
同席している女性が先生だけだからではない。すっきりと吊りあがった目に、花が咲いたように赤い唇。ラインの綺麗なブラックのドレスは、シンプルだからこそ素材の良さを際立たせていた。
東洋の女性はミステリアスな魅力があるって、誰かハリウッドスターが言っていたっけ。当の本人は恩田シェフの口ぶりになんの興味も示していないようだけれど。

「初めまして、恩田シェフ。まだメインディッシュの前だけれど、とても美味しくいただいています」

「そうでしょう。厳選した秋の食材を、日本一のフランス料理人が調理しましたからね」

御剣先生はお世辞を言わない。お世辞に意味を感じない人なのだ。それと同じくらい、快闊な恩田シェフは謙遜しないのだろう。きっぱりと視線をあわせて行われるやりとりが何だか気持ちよかった。


御剣先生、恩田シェフ、東山警部、そして僕。4人の会話がはずむ中、ひとりの使用人が恩田シェフに耳打ちをする。

「おっと、もう少し話もしたいところだが、特別なお客様の料理が調度いい頃合いでね。様子を見てくるから、メインディッシュも楽しんでいってくれ」

「その特別なお客様って」

「東山にはもう話していたよな。料理研究家の時東江梨子(ときとうえりこ)様だよ」

時東江梨子といえば、出す本すべてが飛ぶように売れるという料理研究家。
なんでも、アレルギー体質の我が子のために知識を収集・発信し始めたら、それが仕事になったと語っていた気がする。

研究家になった経緯が経緯だけに、食の安全性に関してのこだわりは人一倍。とくにアレルギー持ちの息子が口にするものは、すべて自分が一口食べてチェックしてから与える徹底ぶりだそう。

「彼女はこのディナークルーズの主催者陣で、ご家族で参加されてるんだよ。
俺がこのクルーズの料理を担当することになったのも、時東先生の推薦があったからでさ。まあ引き受ける代わりに御剣先生と羽崎助手、東山の3人分、招待枠をもらったんだけど」

事もなく話す恩田シェフに僕は言葉を失う。
どうりで……、こんな豪華なディナークルーズが話題にならないなんて、おかしいと思っていた。もともとこのクルーズは、招待制の美食家達の集いだったんだろう。手紙を読み上げたとたん、御剣先生が子どものように喜んでいたのは、これに気付いていたんだろうか。

「そう、だから御剣先生。もしよろしければ、食後に時東先生をご紹介したいのですよ。時東先生達の夕食はこれから始まるので、おそらく2時間ほど後になってしまうのですが」

「喜んで。あの時東先生にお会いできるなんて光栄です」

御剣先生の返事に満足そうな笑みを返し、恩田シェフはキッチンへと戻っていく。数時間たったら、あの売れっ子料理研究家に会えるなんて夢でも見ているんだろうか。


彼が見えなくなったのを確認した後、僕はどうしてもぶつけたかった質問を先生に投げた。

「御剣先生、素朴な疑問なんですが……。時東江梨子先生はご家族でこのクルーズに来ていて、これから食事をされるんですよね? このレストランにはいらっしゃらないんでしょうか」

僕はレストランの奥に視線を向ける。そこには体格のいい紳士や上品そうなマダムが座っていて、料理を食べながら談笑していた。
おそらく、時東江梨子先生を含めた主催者達のテーブルだろう。本来なら時東江梨子先生を含めた家族もあそこにいるはずなんじゃないだろうか。

「おそらく、自室で家族だけで召し上がられるんじゃないかな」

先生は興味もなさそうにつぶやいた。

「家族だけ? せっかくのクルーズなのに?」

「……時東江梨子先生は、食の安全性にすべてをかける方らしいからね。
お会いしたことはないけれど、クルーズに信頼する恩田シェフを指名するほどだから、本当にそうなんだろう」

「確かに、恩田シェフなら間違って料理をだすことなんてないでしょうね」

「間違いもないだろうし……、提供時間がずれていることから、おそらく恩田シェフは我々の料理と同時ではなく、器具や自身のアレルゲン物質を除去してから調理に臨んでいるんだろう。
そうしてくれるという信頼があるから、彼女は彼を指名したんだろうしね」

このクルーズに参加する全員分――30名はいるだろう――を調理した後、時東一家のためだけの料理をつくる。なんて気が遠くなる話なんだろう。
でも、あの恩田シェフなら「俺にしかできない料理だろうね」とでも言って作りそうだと思った。

「なるほど、時東江梨子先生が恩田シェフを指名した理由や、時間がズレている訳はわかりました。でも、どうして自室で食べるんでしょう?」

「アレルゲンが料理だけに入っているとは限らないからでは?」

東山警部が言う。

「カトラリーやテーブルクロス、イスや机……。食事をする上で触れるものの、どこに何が付着しているかわかりませんんからね」

「アレルギーって……そんなに気を付けないといけないんでしたっけ?」

「いいえ、あくまで可能性の話ですよ。ただ、備えあれば患いなしとも言いますし、時東先生にとってはこだわりたい部分のようです。だから家族の食事は、必ず個室で、彼女が選別したものをとる」

東山警部は小声で、人差し指を口に当てながら言った。つまり、ここだけの話ってやつなんだろう。

「まあ、旦那さんの方はほどほどに流してうまくやっているみたいですよ。先ほどもテラスで女性とワインを片手に飲んでいましたし。
アレルギーをもつというご子息も、確か今年で18歳。そろそろ”うまくやる方法”を身につけるんじゃないでしょうか」

うまくやる方法。身につけられればいいが、そうでなければ息が詰まりそうだ。東山警部はそういう立ち回りが得意そうだけれど、僕はそうでもなかったので、なんだか気の毒に思ってしまう。

「時東先生は天才と言われる料理研究家ですからね。天才のこだわりは、天才にしかわからないんじゃないでしょうか」

考え込む僕に、東山警部が御剣先生に視線を向けながら言う。

御剣先生は、運ばれてきたメインディッシュを美味しそうに味わっている。そうか、そういえばうちにも天才がいた。確かに、天才のこだわりは天才にしかわからないのかも――


その時、東山警部のスマートフォンが鳴り響いた。「仕事用のスマートフォンなので」と短く告げ、席を外す警部。御剣先生はメインディッシュを食べ終えている。なぜだか胸騒ぎがした。

1分も経っていないだろう。
戻ってきた警部が席にも座らず僕たちに耳打ちをした。

「時東江梨子先生が遺体で発見されました。現場に来てもらえますか」


--------------


1001号室。

僕らが慌てて駆け付けたこの部屋は、乗客用通路では最奥に位置するが、スタッフ用通路を使うとレストランから最も近い。つまり、VIPのための個室だった。

部屋の前には明らかに取り乱している青年と、苦虫を噛み潰したような表情の小太りの男性。眉間にしわをよせる恩田シェフ。その奥に表情を変えずに凛と佇む紳士がいた。胸元の名札を見るに、この紳士は客船の総支配人だろう。

そして中には――、頭から血を流し横たわる女性がいた。間違いない、いつかTVで見た時東江梨子先生。すでに肌は血の気がひいた、くすんだブルーに染まりつつあった。誰がどう見ても死亡しているのは間違いない。

「誰も近づけないでくださったんですね?」

きっぱりと述べる東山警部に、総支配人が頷く。

「発見された時東様方の声を恩田シェフが聞き、すぐに私に連絡が届きましたので……。この現状を知るのも、発見後に近づいたのも我々4名しかおりません」

「ありがとうございます。……ただ、現場は発見したままとは言えないようですね」

僕は現場を見渡す。確かに、荒らされたとまでは言えないが、異常なことは明らかだった。
窓とドアの周りにはベタベタとはがされかけたガムテープ。開け放たれた窓からは潮風が入り込み、床には七輪が転がっている。

「だって……、だって、母が中で倒れていたんですよ?! まだ生きているかもしれないのに、近づくなとでもいうんですか?!」

東山警部の淡々とした対応が気に障ったのか、青年が声を荒げた。
母ということは、彼は被害者の息子か。その様子を見て、慌てて恩田シェフが間に入る。

「すみません、修明様。こいつは刑事で、事件の解明を1番に考えるようなヤツだから。でも、腕はいいので安心してください。幸い、この船には名探偵もいるから」

"名探偵"という言葉に、全員の視線が御剣先生に注がれた。当の本人は言い争いなど眼中にないようで、じっと死体を見つめている。

これだけ注目されても、全く動じていないんだろう。先生は「真相を暴くことが求められるかはさておき、発見時の様子はお伺いしたいですね」と小さく言った。


「それでは、まず第一発見者である時東様方からお伺いしましょう」

先ほど息子に怒鳴られたことなど忘れたかのように東山警部が話を進める。我先にと口を開いたのは、意外にも部屋の隅で苦々しい表情をしていた小太りの男性だった。

「私は時東江梨子の夫で、時東雄二(ときとうゆうじ)です。
皆さんもご存じでしょうが、妻は家族の食事に対してこだわりをもっていました。食前はいつも部屋を除菌をするので、追い出されてしまうんですよ。だから私はテラスで偶然知り合った女性と談笑していました。
それで、約束の時間になって部屋に来てみたら、息子が"ドアが開かない"と言っていてね」

そこまで話し、雄二氏は青年を見た。

「僕は時東江梨子の息子で、時東修明(ときとうしゅうめい)です。
僕も同じように館内をフラフラとしていて、約束の時間に部屋に戻ってきたんです。それで、いつもと同じようにノックをしたんですが反応がなくて。カードキーを使ってもドアがびくともしないし。とりあえず何かあったのかもしれないと、ドア越しに声をかけていたんです」

「そう息子がいうから、どうにも変だと思ってね。妻はかなり几帳面だったから、事故でもあったのかと」

「だから――、船の人には申し訳ないけど、父様がきた後に体当たりでドアを無理矢理あけたんです。そうしたら、ドアの周りにびっしりとガムテープがついていました。中を見ると、封鎖された窓と、七輪と、倒れている母様が目に入って。だから、僕、母様が練炭自殺を……早く窓を開けて換気しないとと思ったんです」

「後に続いて入ったんですが、息子の"まさか自殺"と言う言葉に私も驚いてしまってね。とにかく見様見真似でガムテープをはがしたよ。
その時に……七輪に躓いてしまってね。先ほど、東山警部が現場保存できていないと言ってたのはそれだろう? 申し訳ないが、七輪を倒したのは私なのだよ」

そう言って、雄二氏は自分の足元に視線を移す。確かに彼のスラックスの裾は灰が派手に付着していた。

「そうやっておふたりが空気を入れ替えている時に、俺が料理を運んできたってわけ。夫人からリクエストされたラスキャスのプロヴァンサルをな」

恩田シェフは悔しそうにワゴンを見ながら言う。ラスキャス? プロヴァンサル? 聞きなれない言葉だが、おそらく料理の名前だろう。

そんな僕の困り顔を見て、御剣先生は「ラスキャスはカサゴ。一部じゃ海のサソリとも呼ばれている、旨味の濃い魚さ。つまりカサゴのフライとでも言うところかな」と補足してくれた。「実に美味しそうだ、余っているならこちらでいただこう」と言う本音付きだったけれど。

「それで、大急ぎで支配人と東山に連絡を入れたってわけよ」

死体発見から僕らが合流するまでの流れは至ってシンプルだった。

僕は部屋の中を見る。部屋の中央には雄二氏が蹴とばしたという火鉢。その中には冷え切った練炭があった。

その横にうつ伏せで倒れている時東江梨子氏。彼女は自殺できる空間を作った後、朦朧とする意識の中で転倒したのだろうか。後頭部からの出血はデスクにぶつけたもののようだった。

「警部、被害者が何か握りしめているようだが、内容を確認できるだろうか?」

御剣先生が声をかける。確かに時東江梨子氏は何か紙を握っていた。東山警部は数枚写真を撮った後、その紙を取り出し広げた。

内容は、遺書。パソコンで書かれた簡素な遺書だった。もっともらしい理由もない、署名すらもない。ただ、死を選ぶというもの。
雄二氏は先ほどよりも、より一層、奥歯を噛みしめている。修明君も、何か言いたげにしていた。そりゃあそうだ。母が、妻が、こんなにあっさりと死を選ぶなんて納得できないだろう。僕は耐えきれず視線をさまよわせた。

「練炭自殺の場合、血中の一酸化炭素結合ヘモグロビン (COHb) 濃度の測定をもって、診断を確定しなくてはいけません。なので船上での断定は厳しいですが……」

僕の様子に気づいてか、東山警部が現状の見解を述べる。よかった、これでひとまずこの状況をおさめられるんじゃないだろうか。

「遺書、もありますからね。やはり、練炭自殺の線が濃厚――」

「おいおい、羽崎君、冗談だろう? まさか自殺、それも練炭によるものだと思っていないだろうね」

そんなことはなかった。うちの天才は、もうすでに何かつかんでしまったらしい。自殺じゃない。まさか、他殺とでも? それなら犯人は? 動機は?

御剣先生はうつむきながら呟く。

「望ましい答えとは限らないが、現実に何が起こったのかお伝えしよう」

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