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【創作大賞2024・恋愛小説部門】幽霊部員の山田さん

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

 同じサークルに、たまに顔を出す程度の幽霊部員の女の子がいた。
 彼女は「山田さん」という名前で呼ばれていたが、結局それが本名なのかあだ名なのかもはっきりしなかった。
 彼女はこの男臭い鉄道研究会にはもったいないぐらいの美人で、最初はなぜこんなところにいるのか誰も分からなかった。
 ここで軽く自己紹介をするが、彼女に対抗して僕の名前を仮に「中村」としておく。入っているサークルの名前からわかる通り、僕はいわゆる「鉄ヲタ」というヤツだ。

 本当に全く部室にも来ない幽霊部員であれば誰も気にもとめなかっただろうが、彼女には一つ不思議な噂があった。
 山田さんは本当に幽霊なんじゃないか、というのだ。

 山田さんはあまりにも顔を出さないので、大学一年生の頃の僕はそもそも彼女がうちのサークルにいることすら知らなかった。
 二年生の四月のある日、部室棟でサークルのみんなで友情破壊ゲームと名高い某鉄道ゲームにふけっていた折、突然ドアをノックするものがあった。
「ここで屯田兵はナシだろ!」
「うるせえ! お前だってこないだキングボンビー使ったじゃねえか!」
 その小さな音は、コントローラを握りしめて絶叫する僕たちの声にかき消された。
「はいはい、もうこれで中村は負け確だな。今日の晩飯はぁ、中村のオゴリで決定!」
「さんせーい!」
 サークル部員たちはゲーム上手なのに加え、煽りスキルも一級品だった。そのあまりの横暴ぶりに、僕はコントローラを床に叩きつけて立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待てよ! そんな話聞いてねえぞ!」
 ふざけんじゃねえ、と言いながら隣にいた鈴木部長に摑みかかろうとしていたせいで、僕は開かれたドアの前に呆然と立っていた彼女の存在に気付かなかった。
「あのー……」
 彼女がこちらに向かって話しかけたときになってようやく、僕は背後を振り返った。
 するとそこには、見るも可憐な黒髪の乙女が立っていた。
 彼女はなんだかバツが悪そうな表情で僕たちを見つめていた。この時ばかりはその場にいた全員が静止した。
「しっ、新入部員の方ですか? ようこそ、鉄道研究会へ!」
 急にマトモな社会人モードが発動した僕(副部長)は、カップラーメンの空とポテトチップスの袋が散らばった汚い部室を指差しながら鉄道研究会がどんな部活なのか紹介しようと試みた。どう考えてももう遅いが。
「いえ、一応以前からいるものですが……」
 彼女は僕の質問に意外な答えを口にした。
 ウチのサークルって、先輩以外に女子部員っていたっけ。
 そんなことを思っていると、部室の隅で化粧直しをしていた唯一の女子部員・飛蘭(ひらん)先輩が澄まし顔でボソッと言った。
「ああ、その子? 山田さんやろ?」
「……誰?」
 僕を含め男子たちは皆ハモって首を傾げた。

 山田さんは場違いな美人だった。
 長い黒髪とどぎつい赤いリップ、ともすればきつい印象を与える一重まぶた。
 よく「タヌキ顔の美少女」とか言うが、山田さんの凜とした佇まいはまるで狐を彷彿とさせる——表情に乏しく、何を考えているのかおよそ見当もつかない。
 そして新歓コンパでそんな彼女の隣に座ってしまったのが僕だった。

 大学近くの居酒屋にて——
「えー、今年度の鉄道研究会の新入部員は5人。存続ギリギリだけど、まあよしとしましょう! それじゃ、新入りさんも含めて乾杯といきますか!」
 鈴木部長の乾杯の挨拶に合わせて、未成年のみんなは烏龍茶やらオレンジジュースの入ったグラスを持ち上げた。
 部長は一度エヘン、と咳き込んだ。
「では、みなさん、声を合わせて——」
「はーい、かんぱーい!」
 鈴木部長の言葉を遮って、飛蘭先輩がノンアルコールの入ったジョッキを片手に声を張り上げた。
「おい、それは俺のセリフだって……」
「かんぱーい!」
 みんな勝手に乾杯し始め、さっそく料理に手をつけ始めた。

 皆が盛り上がる中、山田さんは僕の隣で一人黙々と枝豆を食べていた。
 僕は汗をかいたカルピスのグラスを握りしめて、そんな山田さんとの会話の糸口を探っていた。
「そ、そういえば山田さんって、いつからこの部活にいるんですか?」
「……最初から?」
 なんで疑問形なんだ。
 内心ツッコミを入れるも、山田さんは相変わらず無表情だった。
「最初って、去年ってことですか」
「そう」
 彼女がそう言ったきり黙ってしまったため、会話が終了してしまった。
 どうすんだよこれ。
 無言で枝豆の皮を積み上げる彼女に焦った僕は、適当に話題を振った。
「何か、追加で注文したいものとかありますか? 僕が代わりに——」
「こらこら、ドーテー。いくら女子部員が少ないからって、そんな風に質問ぜめにしたらかわいそうやろ?」
 唐揚げをつついていた飛蘭先輩がひやかしを入れてきた。
「やーい、ドーテー、ドーテー!」
 すると、今年初彼女ができたばかりの鈴木部長も一緒になってはやし立てた。
「他のみんなが話しかけないから僕が代わりに話してんだよ! 第一、僕が童貞かどうかはどうでもいいだろ!」
 僕は真っ当な理屈を振りかざして彼女と話すことを正当化した。実際、女子と目を合わせて話すこともできない他の男子と比べれば、僕はだいぶマシな方だった。
「ま、ドーテーの中村くんは冗談も分からんか」
「そこの豆腐の角に頭ぶつけていっぺん死んでみたらええんちゃう?」
 先輩も部長もひどい言い様だった。僕がんだと、と言いながら腕まくりしたところで、山田さんのか細い声が聞こえた。
「……あれ」
 僕が口げんかを中断して振り返ると、彼女はカウンターにあったガラス瓶を指差していた。
「あれが、飲みたい」
「ラムネ?」
 僕の視線の先にあったものは、子供が飲むような青いラムネの瓶だった。
 僕は店員を呼んで、注文してあげた。
 彼女はそれをグラスに注ぐと、しゅわしゅわと弾けるその炭酸水をなぜか物珍しそうに見つめていた。
「どうかしたの?」
 僕が尋ねると、彼女はたった一言。
「……透明ね」
「メロン味とかストロベリー味の方がよかった?」
 僕の質問には答えず、彼女は嫌に真剣な表情でグラスを握ると、一気にそれを飲み干した。
 普段あまり喋らない山田さんが何を発するのか皆が注目する中、彼女はこれまたよく分からないことを言った。
「……味が足らんな」
 よく聞くと、彼女の言葉には独特のイントネーションがあった。聞いた瞬間に明らかに東京の人ではない、どこか遠い場所から来たのだとわかるような話し方だった。
 
 今思うと、それが違和感の始まりだった。

 山田さんは確かにちょっと変わっていた。
 あれからもう一度サークルのみんなで活動した帰りに食事に出かけたことがあったのだが、彼女はお刺身に七味唐辛子をかけたり、うどんを「硬い」と言って手をつけなかったりした。
 はじめは味覚が独特なのだろうか、とか思ったりもしたが、それだけでは説明できないことも多かった。

 ある日、部室でいつものメンバーで集まっていたとき——
「山ちゃんは、ホンマは幽霊なんちゃうか?」
 ネイルを塗っていた飛蘭先輩が突然こんなことを言い出した。
「幽霊って……。ただ幽霊部員なだけでしょ?」
 学友会の部員名簿に名前だけは乗っているけど顔を出さない幽霊部員、なんて特別珍しくもなんともなかった。
「いやね、ちょっとオモロいことがあったんよ」
 飛蘭先輩はそう言ってスマホに保存されていた一枚の写真を見せてきた。
「これ、去年の部員名簿なんやけど、会計のとこに『山田洋子(やまだようこ)』て書いてあるやろ?」
 みんな「山田さん」とばかり呼んでいたので、下の名前も知らなかった。
「それが?」
「調べたら、この人二年生の時に大学辞めてるんよ」
「……それって、どういうことですか?」
 すると先輩は声を小さくした。
「こっからはウチの推測やけど、あの子はこの『山田さん』になりすましてる別人なんちゃう?」
 先輩は意味深に笑った。
「そんなまさか……。憶測がすぎますよ」
 馬鹿らしくなって、僕は茶々を入れた。
「ウチ、去年の夏ぐらいにこのサークル入ってきたからよーわからんけど、少なくとも山ちゃんが最初からここにおったってことはないと思うで」
「そういや、その直前ぐらいから見かけるようになった気がする」
 先輩の話を裏付けるように、他のサークルメンバーがそんなことを言った。
「話変わるけど、今年の合宿はどこにしようかなー」
「ユニバ!」
「ディ●ニー!」
「どっちも高すぎるやろ。それより、そのイントネーションはおかしい」
 関西人の飛蘭先輩は言葉遣いに厳しく、この間も「レ肉」か「レ肉」か、「しらたき」か「糸こんにゃく」かで部員達と激しい議論を繰り広げていた。

 朝、大学へ向かって歩いている学生の群れの中に山田さんが見えた。
 桜も散ってしまった並木道を、彼女はなぜかスーツケースを引いて歩いていた。そして運悪く、ちょうどにわか雨が降ってきて、学生たちは皆講義棟に向かってダッシュしていた。
 このままでは濡れてしまう。
 そう思った僕は、思い切って彼女に声をかけた。
「あ、山田さん! 大丈夫?」
 僕が携帯用の折り畳み傘を彼女の頭上にさしかけると、山田さんは一瞬ギョッとしたようにたじろいだ。
「ごっ、ごめん。キモいよね。相合傘とか」
 さすがに出しゃばってしまったと思って、僕は傘を引っ込めた。
 すると。
「あ……、そうじゃないの」
 山田さんは視界に僕の姿を見とめると——知り合いだと分かって安心したからなのか——心なしかほんの少し微笑んだように見えた。
「……ありがと」
 彼女はか細い声でお礼を言った。
 迷惑ではなかった……のかな?
 僕はひとまず胸を撫で下ろした。
「それ、どうしたの? 旅行にでも行くの?」
 ほんの思いつきでスーツケースのことについて聞いてみたが、彼女は目をそらした。
「いや、別に……」
 彼女はまた黙ってしまった。
 気まずい沈黙と、それを埋めるように道を叩く雨の音。
 耐えきれなくなった僕は、間を持たせるために適当に話題を振った。
「そういえば、今年のサークルで合宿に行くんだけど、どこに行きたいとかある? 今んとこみんなユニバがいいとかなんとか言ってるんだけど……」
 そもそも合宿に来るかどうかも分からない人にこんなこと聞いてどうするんだ。
 途中まで言ってからそこに気づいて言葉に詰まっていると、山田さんは怪訝な顔で聞き返してきた。
「ユニバって、何?」
 関西出身でもなさそうだし知らないのかと思って、僕は言い直した。
「ほら、大阪のUSJだよ。ユニバーサルスタジオジャパン」
 そこまで言っても、彼女は全くピンときていないようだった。
 この時僕は何も疑問に思わずに話を続けた。
「まあ、僕はディ●ニーの方がいいけどね。似たようなもんだし」
 すると彼女はますます複雑な表情になった。
「ディ●ニーって?」
 USJはとにかく、ディ●ニーランドを知らないというのはさすがにありえない。
 遊園地とかに一切行かせてもらえない厳しい家庭で育ったんだろうか。
 なんだか不憫に思って、僕は話を切り上げることにした。
「山田さん、今日の授業はA棟? それともB棟? B棟だったら僕といっしょだけど」
 そこまでなら送ってあげるよ、と付け加えた。山田さんはまた消え入りそうな声で、
「……B棟」
 とだけ言った。
「よし、分かった」
 僕はとりあえず彼女をそこまで送り届けると、妙な違和感を抱えたまま自分の教室へ向かって急いだ。

 学内でいつもスーツケースを持ち歩く山田さんについては、いろいろな噂があった。
 彼女は大体、大講義室の一番後ろの席で静かに授業を聞いていたのだが、これは交通事故で死んでしまった幽霊が自らの死に気づかずに、必修の単位を落とすまいと健気にも授業を受けに来ているんじゃないか、とか。
 はたまた、バイト代か何かしらの見返りをもらって誰かの再履修の授業を代わりに受けているだけなんじゃないか、とか。
 一番現実的なものだと、彼女はもともと兄と同居していたのだが、暴力を受けてアパートから逃げ出し、仕方なくカプセルホテルに泊まりながら登校している、なんていうのもあった。
 もしそれが本当なんだとしたら、興味本位であんなことを聞いたのはよくなかったかもしれない。

 ゴールデンウィークも終わった五月半ばごろ——
「今年、我らが鉄道研究会は、『第一回架空鉄道学会』で発表します!」
 江ノ電ニキのTシャツを着た鈴木部長が部会の最中、突然部員達の前でこんなことを宣言した。
「……なんですかそれは」
 人差しと親指で摘んだ眼鏡をクイッ、と動かしながら鈴木部長は得意げに説明した。
「架空鉄道、通称架鉄というのはですね、最近静かなブームになっている高尚な遊びでして、実際には存在しない鉄道路線を考えるというものです。
 今回はなんと! そんな架鉄好きが集まって互いの創作について発表するイベントが東京で初開催されるということで、我々も出展させていただくこととなりました!」
 イェーイ、と一人で拍手する部長に、SNSに電車自体よりも自分の顔の占める割合が大きい自撮りをアップしていた飛蘭先輩が付け加えた。
「他にも空想地図学会とか架空世界のボードゲーム大会とかもやってるらしいで。東京はオモロいとこやなぁ」
 そんなニッチなイベントがあったんだと素直に感心した一方で、僕は冷静に突っ込んだ。
「……そんなの、現実にある鉄道だけで満足しとけばいいじゃないすか? 電車なんて世界中に山ほどあるんだし」
 すると部長は食い下がった。
「いやいやっ、ここにこういう路線が通ってたらいいなぁ、こういうカッコいい鉄道があったらいいなぁ、って妄想する気持ち、同じ鉄ヲタなら分かるだろゥ?」
 部長はそう言って図書館から借りてきたノートパソコンで、「ミステリー! パラノーマル映像チャンネル」というのを見せてきた。
 そこには日本のどこかの田舎の駅舎を含め、実写としか思えないほど超リアルなCGで作られたいくつかの電車の映像が映っていた。
「これ、こないだネットで話題になってたヤツですよね?」
 この動画は現在再生回数200万回を超えていたが、投稿者は不明だった。
「その通り。誰もが最初はただのスマホで撮った映像だと思ったが、実在しない駅だったんだ」
「はえー、リアルきさらぎ駅じゃないすか」
 部長は拳をギュッと握りしめてアツく語り出した。
「おそらく、コレを作ったのは我らの同志に違いない! 架鉄好きが高じて、3Dモデリングができるゲームエンジンで自分の脳内にある架空の駅を再現してしまったんだろう」
 部長は続けてエクセルにまとめられた地図のデータを見せてきた。
「今回の学会では、私が考えた『本日国(ほんにちこく)』の首都『桜京(さくらきょう)』と第二の都市『月宮(つきのみや)』の国有鉄道および私鉄の路線図についてお話しさせていただきたいと思います」
 なるほど、ぼくのかんがえたさいきょうの鉄道路線図を見せられるワケだ。
 鈴木部長はその後、部会の残り時間全てを費やして、全体的に日本のようで日本でもないような島国・本日国の各都市の人口や都市規模、それらを結ぶ鉄道網についてベラベラまくし立ててきた。
 僕がなんとかしてここから逃げ出す口実を考えていたところに、意外な人物が部室を訪れた。
「あれ……、山田さんじゃん」
 開いたドアから山田さんがこちらをチラチラと覗き込んでいるのが見えた。彼女が部会に来るなんてほとんどなかったので、僕はとりあえず手招きして彼女を迎え入れた。
「何、してるんですか?」
 彼女は開口一番にそう尋ねた。
「いや、そのー……」
 いきなり「架空鉄道についてのお話をしていました」とか言ってもマニアックすぎて伝わらないだろう。
 説明に困った僕は、とりあえずパソコンで例の謎のチャンネルの映像を見せた。
「ちょっと前にこの動画バズってたじゃん? これ、誰かがCGで作った架空の駅なんだって——」
 僕はただ説明しようとしただけだった。すると何を思ったのか、山田さんが急に画面に顔を近づけてきた。
 そのせいで、ふわりと舞い上がった彼女の長い髪が僕の顔に触れ、僕は不覚にも少しドキッとしてしまった。
 食い入るように覗き込む山田さん。
 近いって。
「……幡宮停車場(はたみや、ていしゃじょう)
 鬼気迫る様子で、彼女はその駅の名前を読み上げた。

 放課後の部室にて、いつものメンバーでだべっていたとき——
「あんな部長の趣味でしかない謎イベントに役員は全員強制参加なんて、ホントカンベンしてほしいよ」
 例の架鉄学会について文句を垂れつつ、僕は手元のスマホで「パラノーマル映像チャンネル」の最新動画「東京スカイツリーの屋上で発見された飛び降り死体:彼は一体どこから落ちてきたのか?」をぼんやり眺めていた。
「まーまー、そう言わずに。ウチは結構楽しみにしてるで」
 今回のイベント、飛蘭先輩だけはなぜか乗り気だった。
「部長、いつも一人で盛り上がって突っ走るからなぁ……。先輩もなんとか言ってくださいよ?」
 僕が話しかけるも、飛蘭先輩は自撮りをSNSにアップすることに余念がなく、まるで聞く耳を持たない。
 某ローカル線を背後に黒い日傘を持って微笑む彼女は、今日もバッチリ決まっていた。
 ダメだこりゃ、と僕は盛大にため息をついた。
「大体、合宿でニバ……、すみません、ユバに行きたいなんて、また青春18きっぷで行くんですよね? 今度は大阪じゃ、たぶん現地で遊ぶ時間ないっすよ」
 年二回ある合宿(という名の旅行)のうち、去年の冬は名古屋に行ったのだが、これが大変だった。
「前回なんて帰りは十時間以上かかりましたからね? 東京・名古屋間を行きは東海道線、帰りは中央線で乗り比べするとか……」
 するとすかさずガチ勢たちが言い返してきた。
「鉄道研究会なのに電車に乗るのが嫌いだと? 貴様、鉄ヲタの風上にも置けないな」
「そうだそうだ! 副部長のくせに!」
 彼らは駅名しりとりをしながら紀伊半島を一周したらしい。
「いや、僕は単に旅行は旅行、電車に乗るのは電車に乗るので楽しみたいだけだよ! 目的地での滞在時間が一時間とかじゃ本末転倒だろ?」
 僕たちがしょうもないことで言い争っていると、先輩が不意にこんなことを呟いた。
「にしても例の学会、なんで山ちゃんも行くなんて言うたんやろ?」
 あの日、珍しく部会に参加した山田さんは、話の流れとはいえなんと架空鉄道学会に参加することになったのだった。
「確かに」
「謎だな」
 これについてはその場にいた全員が一様に不思議がった。

 ●

 謎多き山田さんの正体について、幽霊説以外にも東北か九州の田舎出身説、飛び級で大学に入った天才児説、虎視眈々と地球侵略を狙う宇宙人のスパイ説などなどありとあらゆる説があった。
 そして彼女に関する謎がさらに深まったのは、架空鉄道学会の日だった。
 
 六月、学会当日——
 新宿から小田急線に乗り換えて学会の会場へ向かう途中、僕たちは電車内で適当に世間話をして暇つぶしをしていた。
 誰かがとある食べ物の呼び方について尋ねたせいで、部員たちの間で議論が甲論乙駁していた。
「あれは『大判焼き』だろ?」
「え、『回転焼き』でしょ?」
「『御座候』や、『御座候』!」
「もう、ここは間をとって『ベイクドモチョチョ』ということで……」
 うちは首都圏の大学で全国各地から人が来るので、みんな出身はバラバラだった。
 そのため、一度方言論争が勃発するとこのように収拾がつかない。
 皆が盛り上がる中、僕はただ話の流れで山田さんにも話を振った。
「山田さんはなんて言うの?」
 彼女は話を聞いていなかったようで、急に話しかけられてびっくりした様子だった。
「何?」
 僕はスマホで今川焼きの写真を見せた。
「今みんなで、この食べ物をなんて呼ぶか、って話ししてたんだけど……」
 すると、彼女は不審げにその写真を一瞥して、
「……小豆焼き?」
 自信なさげに答える山田さん。
小豆焼き?」
 聞いたこともない言い方に、皆異口同音にその言葉を繰り返した。
 日本も広いし、そんな風に言う地域もあるのだろうか。
「『車輪焼き』とか? 車輪みたいだし」
 山田さんはさらにその場で思いついたようなことを言った。
 ここで飛蘭先輩が核心をつく質問——それまで誰もが疑問に思っていたことを口にした。
「前から気になってたんやけど、山ちゃんてどこの人なん? ユニバもディ●ニーも知らんて聞いてんけど」
 ニヤリ、と笑う先輩に山田さんは顔を強張らせて沈黙した。
「……」
 困った様子の山田さんを見て、先輩は不安げに僕に耳打ちした。
「……やっぱ、ホンマに宇宙人なんかな?」
「先輩、その言い方は……」
 僕は強制的に話題を変えることにした。
「ところで、あの古い自転車って、結局本当に山田さんのなの?」
 所有者不明のため冗談半分に「山田号」と呼ばれていた自転車があったのだが、部の共有財産ということで部員たちが学内での移動に使っていた。
「……ジテンシャ? 何、それ?」
 山田さんはただキョトンとした表情でそう言った。
「やっぱり違ったかぁ」
 名前シールが半分以上剥がれてしまって「山」という部分しか残っていないあのボロボロの自転車は、山田さんのものというわけではなかったようだ。

 第一回「架空鉄道学会」は都内の公民館の一室を借りて行われた。あまり期待しないで見に行ったが、個性豊かな面々によるマニアックな発表は見ていて飽きず、三時間はあっという間だった。
 四国に幻の「南海道新幹線」を開通させてみたり、
 駅構内でよく見かけるLEDの発車案内板や行先表示器を自作してみたり、
 はたまた東京の鉄道路線図に匹敵する複雑さの架空の鉄道路線を作ってしまった猛者(うちの部長)がいたり、
 中でも一際目を引いたのが、この学会のためにはるばる海外から駆けつけた方のプレゼンだった。

 盛大な拍手を受けて登壇したその細身の白人の男の子は、流暢な日本語で説明しだした。
「私の名前はライアン、アメリカ人です。
 私の将来の夢はCGデザイナーで、今大学で3Dモデリングなどを勉強しています。
 今回は、私が作った架空の県、『刈岡県(かりおかけん)』の鉄道路線についてお話したいと思います」
 ライアンくんは彼の出身地カリフォルニアと日本を組み合わせた「刈岡県」というのを作っていた。
 彼の話では、アメリカのとあるSFアニメーション映画に登場したサンフランシスコと東京が混ざった街に影響されたとのことらしい。
「アメリカは車社会で、電車はあんまり人気がありません。電車オタクとして、これはつまらないです。だから、刈岡県の県庁所在地・羅府市(らふし)にはたくさんの路線を作ってみました」
 ライアンくんはそう言ってプロジェクタで羅府市の街の様子とそこを走る電車のCGを映し出した。アメリカと日本が混ざった彼の独特の世界観は、まるでブレードランナーのような不思議な魅力があった。
 彼は発表の最後に、最近巷で流行っているミーム動画についても言及した。
「今回、刈岡県を作るついでに、Unreal Engine 5とBlenderを使ってネットで話題のあのハタミヤ・ステーションも作ってみました! まだ制作途中ですが、こんな感じです」
 あの投稿者不明の動画に映っていた日本のどこかにありそうで実在しない駅、リアルきさらぎ駅こと「幡宮駅(はたみやえき)」を一人で再現してしまったというライアンくん。
 これには会場も湧いた。
「日本に来たことないのに、あの映像だけでこれ全部作っちゃったんですか?」
「はー、こりゃすごいわ」
 一同が感心して、架鉄好きは国境を越えるなどと言いながらライアンくんを歓迎する中——
 プレゼンに夢中で気づかなかったが、隣に座っていた山田さんの様子が少しおかしかった。
 彼女はプレゼンの資料を握りしめたまま、CGで内部まで忠実に再現された幡宮駅を見て静かに涙していた
 確かにすごいけど、泣くようなことか?
 目の前で急に女の子が泣き出すという異常事態にオロオロしているうちに、彼女は無言で席を立った。
 僕は「ちょっとトイレ」とだけ言い残して、部屋から出て行く山田さんを急いで追いかけた。

 二階の会場から階段を降りたところに休憩コーナーがあって、彼女は自販機の近くにある椅子に一人座っていた。「O.M.G. Boyz」と書かれたクリアファイルを胸に抱えたまま、彼女は涙目のままぼんやりとした様子だった。
 本当に一体どうしたんだろう。
 僕は初め遠くから彼女の様子を窺っていたが、勇気を振り絞って声をかけることにした。
「……何か悩み事とかあるの?」
 おそらく僕の存在には気づいていたと思うが、彼女は僕には視線も合わせずただ口を閉ざしていた。
「……」
 この世の終わりみたいな、とてもさみしい目——
 山田さんは自分の殻に閉じこもってしまって、何もかもシャットアウトしているように見えた。
 やっぱり一人にしておくか。
「……ごめん。無理に話さなくてもいいよ」
 僕が踵を返して会場に戻ろうとしたとき、彼女はほとんど聞こえないぐらい小声でポツリと言った。
「……帰りたい」
 やはり、こんなイベントに連れてこられて嫌だったのだろうか。
 風の噂に聞いた彼女の境遇を思い出し、僕はひとまず今までの非礼を詫びることにした。
 僕は小走りに彼女の下へ駆け寄ると、頭を下げた。
「山田さん、誰かから聞いたんだけど、色々大変らしいじゃん。さっきはごめんね、無神経に色々問い詰めちゃって」
 興味本位であれこれ聞いてしまったことは悪かったと思っていた。
 でも、僕は彼女のことをずっと気にかけてはいた。
 学内で見かける山田さんはいつも一人で、無表情だった。みんな彼女が幽霊だとか、宇宙人だとか好き勝手なことばかり想像で言うけど、もっと深刻な理由があったんだとしたら。
「でも、少なくとも僕は山田さんのこと心配してるし、みんなも悪気はないと思う。もし何か辛いことがあるなら、僕たちに相談したらいいよ。部長も、先輩も、鉄道研究会の部員はみんな仲間だからさ」
 この時の山田さんはとても意外そうに目を見開いていた。
「仲間……?」
 まるでそんな言葉は初めて聞いた——彼女はそんな口ぶりだった。
 クサいセリフを言ってしまって、なんだか自分でも照れ臭くなってきた。
「仲間なんて大げさか。友達だよ、友達。まぁ、僕みたいなチー牛と友達になんてなりたくないかもしれないけど……」
 僕が苦笑しながら山田さんと話していると——
「なんやなんや、中村くんにもとうとう春がきたんか?」
 柱の影に隠れていた他の部員たちが、いつの間にか僕たち二人の会話を盗み聞きしていた。
「『まぁ、僕みたいなチー牛と友達になんてなりたくないかもしれないけど……』、だってよーー!」
 僕の喋り方をそっくりに真似て、ダハハ、と爆笑する鈴木部長。
「この野郎、茶化しやがってっ……!」
 僕は部長に一発お見舞いしてやろうと歩み寄ったところでクスッ、という笑い声が聞こえた。
 山田さんだった。
「……おもしろいね」
 おもしろい、か。
 思えば、山田さんにはいつも恥ずかしいところを見られてばかりだったが、彼女の次の言葉のおかげでそれでもよかったと思えた。
「友達になってもいいですか……、私なんかが」
 あの山田さんが頰を赤らめている。

 七月、夏休みを目前に控えた頃——
「夏や! 祭りや!」
 部室のパソコンをにらめっこしていた飛蘭先輩が騒ぎ出した。
「バーベキューにスイカ割りに海水浴に花火大会! あー、もう! 夏はやりたいこと多過ぎてかなんわ」
 先輩は関東一円の夏イベントを調べていたが、あまりの選択肢の多さに椅子に仰け反って足をバタバタさせた。
「まぁ、楽しそうではありますけど、バーベキューとかスイカ割りだと準備が大変ですよね」
 この部活のメンバーでパーティができるような広い自宅を持つものはいない。
「それでも、ウチはぜーんぶやりたいんや!」
「そんなムチャな」
 すると先輩は何かを閃いのたか、俄然目を輝かせた。
「せや! カナちゃんに頼むか!」
「カナちゃん?」
「ウチのネットの友達や。ほら、『カナ★バナナ』て名前でVtuberやってるで」
 動画サイトで検索をかけてみると、ロリ系魔法少女Vtuber「カナ★バナナ」は登録者三十万人を超えており、そこそこ有名のようだった。
 先輩は続けた。
「この子な、定期的に自分ちでオフ会やってんねん。外国人も多くて、国際交流パーティみたいな感じやけど」
 先輩はスマホでSNSを開くと、実際に去年参加したときの写真を何枚か見せてくれた。そこにはどこかの立派なお家の庭で楽しそうに肉や野菜を焼いている様子が映っていたが、最後に集合写真があった。
 様々な国籍の人がいる中、真ん中あたりに先輩と並んで見覚えのある白人男性の姿が。
「これが先輩で……、隣にいらっしゃる方ってこないだのライアンくんですよね?」
「せやで。ウチの彼氏」
「へー、そうなんですね。って、え??」
「あれ、つきおうてるって言うてへんかったっけ?」
 初耳だった。しかし道理であんなニッチなイベントに出たがったわけである。
「それで、カナさんはどなたですか?」
「えーっとね、この子」
 先輩がタグ付けされた利用者を表示すると、@hansai_hilan23と@ryan_gilbertの横に立っていた五十代と思しき中年女性に@lovelymagicalgirlxx_kana68というユーザーネームが表示された。
「え、このおばさんがカナさん!?」
 カナ★バナナ、まさかのバ美肉おばさんだったとは。
「おい、君。レディーに対して失礼だぞ!」
 なぜか共通語で突っ込む先輩。
 するとそこに、ちょうど四限の授業が終わった部長が割り込んできた。
「何、このパーティ? 料理がすげえおいしそうだけど」
「せやろ? これ、ウチの友達がお家でやってんねんけど、今年の夏はこれにみんなで行かへん?」
 先輩は早速メッセージアプリでカナさんに連絡をとったが、まさに今月末にバーベキュー大会をやるということで確認が取れた。
 「いいね」、「俺も行く」と他の部員たちが次々と参加を決める中——
「せっかくやし、山ちゃんも誘えば?」
 先輩に言われて、僕はようやく山田さんのことを思い出した。
 ちなみに、あれから別に何かあった、というワケでもない。せいぜい前よりも来る頻度が多少増え、みんなの前で笑う回数が増えたぐらい。
 副部長なので一応メッセージアプリの連絡先は持っていたが、特に用もないので彼女とチャットすることもなかった。
「こういうの、来るかなぁ……」
 自分でも疑問には思ったが、一応鉄道研究会のグループチャットで山田さんを含め全員に聞いてみた。
 その他の部員たちからはだいたい五分から十分ぐらいでグルチャ内で返事が来たが、山田さんからのメッセージはなかった。
 やっぱり来るワケないか。
 諦めかけたその時。
「私も行ってもいいですか?」
 帰る間際に山田さんから直接返信(DM)が来て、僕は思わずよしっ、とガッツポーズしてしまった。

 ●

 都外の海沿いにあるカナさんの家の近くでは、ちょうど七月末に花火大会が開催されるようだった。
 バーベキュー当日、ライアンくんの運転するレンタカーに乗って浜辺に移動し、昼間のうちはみんなで砂浜で水遊びした。その後カナさんの自宅に移動し、庭でスイカ割りをしたり、バーベキューを楽しんだ。
 この夏にやりたいことを全部達成できた飛蘭先輩は満足げだった。
「そんでなー、ライアンが反対車線に突っ込みそうになってなー、まあアメリカ人やからしゃーないんやけど」
 庭先でジンジャーエールを飲みながらライアンくんを小突く先輩。彼は照れ臭そうに笑った。
「ソーリー、まだちょっと左側運転に慣れてなくて」
「さっきも助手席の方から乗り込もうとしてたな」
 彼がウップス(おっと)、と言いながら大きくハンドルを切って車が揺れた時はみんなびっくりした。
 すると、軍手をしてスペアリブを焼いていた鈴木部長も笑った。
「あの時はライアンくんにつられて山田さんまで運転席に乗り込もうとしてたしな。あれは笑ったわ」
 これにはみんな大爆笑だったが、ここでふと僕はあることを思った。
「今思ったんですけど、山田さんって、ひょっとして外国人なんじゃないですか? そうでなくても、ハーフとか、帰国子女とか」
 確か、日本以外のアジア諸国ではアメリカと同じで右側運転の国も多かったはずだ。
 しかし。
「それはないと思うで。さっきアジア系カナダ人のケヴィンのところに連れてったけど、恥ずかしそうにウチの後ろに隠れて何も言わんかったし」
 自称・日英中韓全部話せる飛蘭先輩が言うのだから間違いない。
 山田さんはといえば、庭の芝生で目隠しをしてスイカを叩こうとしているが、うまくいかないようだった。
「あいっ」
 自分の足を叩いてしまった彼女を見て、他のゲストたちが歓声を上げていた。
 僕はそんな彼女たちを遠巻きに眺めるだけだった。
 山田さんと、もっと話してみたい。
 先ほど車でこちらに来るときも、真ん中の席に並んで座っていた僕と山田さんの間に会話はなかった。
 気まずさをごまかすようにしきりにスマホを確認するフリをしていたが、僕の熱い視線が彼女に向けられていたことは、おそらく本人も気づいていたことだろう。
 そんなことを考えていると——
「みんなー、今日は来てくれてありがとーう! カナは今、とーっても楽しいルン!」
 およそ五十代とは思えない喋り方で出迎えてくれたカナさんは、満面の笑みで焼きたてのケーキやクッキーを差し出した。
「今日はみんなのために真心込めてお菓子作ったから、たーっくさん食べていってね! おいしくなーれ!」
 カナさんは指でハートマークを作ると、手作りのお菓子に魔法の呪文をかけた。
 ちなみに彼女の家の液晶テレビでは、「カナ★バナナ」の人型アバターの3Dモデルが音楽に合わせて踊っている様子が大音量でエンドレスループされていた。
「お母さん! いい加減恥ずかしいからやめてよ!」
 背後から息子さんの哀願する声が聞こえるが、カナさんはまだ現役ピチピチのようで、当面魔法少女を引退する気はなさそうだ。

 夜になって花火大会が始まると、パーティの参加者たちは街の方へと繰り出していった。
 縁日に行くのに、女の子たちの中には浴衣に着替えている人もいた。そしてこんなパーティにもスーツケースを持ってくるほど準備のいい(?)山田さんは、紺色の作務衣のような独特な出で立ちでみんなの前に再び姿を表した。
「この着物、帯なしでどうやってまとめてあるんだ?」
「あー、上下セパレートになってるんだ。珍しいね」
 男子部員たちが物珍しそうにジロジロを見ると、山田さんは恥ずかしそうにした。
 するとそこに花柄の浴衣姿に着替えた飛蘭先輩が戻ってきた。
「ちょっと男子! いやらしい目で見ないの!」
 先輩が怖い顔でたしなめると、男子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「これ、沖縄のやつやろ? 可愛いよな」
 先輩が山田さんをフォローするも、彼女は「オキナワ?」と言って首を傾げるだけだった。
 先輩は僕たちの目の前で見せつけるようにライアンくんと腕組すると、
「さて、と。ウチ、ライアンと鈴木くんと一緒に出かけるから、こっからは別行動な。あとは君ら二人で楽しみ。ほな」
 突然の別行動宣言に、僕も山田さんも言葉を失った。
「え?」
「あ?」
 訳が分からず茫然自失する僕は、チャンスやで、と先輩に小声で促された。

 カナさんの家の近くの神社では、花火大会に合わせて小さなお祭りが開催されていた。参道の両脇には屋台が並び、たくさんの親子連れやカップルで賑わっていた。
 僕は縁日で買った狐のお面をかぶり、山田さんの分も合わせて二本のラムネを両手に持って歩いていた。
 こうしていると、ちょっとデートしてるみたいだ——なんて思ったりもしたが、山田さんは相も変わらずやっせ、と言いながらスーツケースを引いて歩いていた。彼女と出会って三ヶ月目にしてようやくなぜなのか尋ねたところ、「不安だから」という理由らしい。なんじゃそりゃ。
 それでもなぜか、夏祭りの空気に当てられたのか、単に女子と二人きりという状況に呑まれたのか、あのシックな紺色の着物がひどく魅力的に思えて、僕はついこんなことを言ってしまった。
「その着物、似合ってるね」
 一応褒めてはみたものの、女の子を褒めるなんて恥ずかしくなってきて顔が火照りだした。
 しかし幸い、彼女は僕の方ではなく、星光る夏の夜空を見上げて遠い目をしていた。
「……自分で作ったの。なかったから」
 何か思い入れがあるのだろうか。
「そういえば、山田さんって神社とか来たことある?」
「……たぶん?」
 なんで疑問形なんだろう。
「こういうお祭りで金魚すくいとかやったことは?」
「なかった。さっきが初めて」
「そんな……、人生の半分ぐらい損してるよ」
 彼女がどういうふうに育ったのかも知らずにあんなことを言ってしまって、あとで考えると僕はひどく傲慢だったようにも思う。
 それでも山田さんはただ可笑しそうに笑って、
「楽しいことは、他にもたくさんあるよ。中村くんと部長さんがじゃれてるのとか」
「ケンカしてるだけだけどね」
 彼女のこの笑顔を見るのは、素直に嬉しかった。
「ここに来てよかった」
 山田さんは突然、こんなことを言い出した。
「私ね、ずっと友達がいなかったの」
 彼女は珍しく語った。
「こうやってただ、みんながまっさ楽しそうにじゃれるのを見てるだけでも楽しくて……。自分はそこには参加できんけど」
 感情が入ったせいか、彼女の言葉には時折方言のような単語が混じっていた。
「なんで? 友達になってもいいですか、って言ってくれたじゃん」
 すると彼女は僅かに顔をしかめた。
「……」
 彼女はいつものようにまた黙ってしまった。
 言ってはいけないことだっただろうか。
「……たんま、私はここに属してないから」
 彼女はそれだけボソッと言って、寂しげに俯いた。
 彼女は僕の手からラムネを受け取ると、目をつぶって一口だけ飲んだ。
「ラムネを飲んだり、絣を着たり……、それだけでなぜこんなに悲しい気持ちになる?」
 僕はこの時の彼女の表情の機微を忘れない。
「忘れたくない——、忘れたぁなせ
 地元の言葉を話し出した彼女はよどみなく、堰を切ったかのように感情が溢れ出していた。
「悲っせな。私(あい)ん中っから、ちぃっくんずつ昔ん記憶が消(きゅ)ーちゅる(悲しいな。私の中から、少しずつ昔の記憶が消えてる)」
 それはまるで奇妙な方言だった。関西でも東北でも九州でもない、とにかく今まで聞いたことのない方言であることは確かだった。
 彼女は、あいあい、かなわん、と小さく独り言ちて、深くため息をついた。
「そういえば結局、山田さんって何県の出身なの?」
 僕はもう一つ、今までずっと聞きたかったことを尋ねた。
「私(あい)は——」
 ドーン、という遠くで打ち上がった花火の音のせいで、肝心の答えの部分が聞こえなかった。
「え? なんて?」
 しかし、何かをためらって、彼女はそれ以上何も言わなかった。
「……」
 どこかの地方出身でも、外国人でも、幽霊でもないとしたら、山田さんは一体何者なのだろう。
 彼女とのやりとりの節々で感じる違和感。
 聞いたことのない方言。
 冴えない思考を必死に巡らせた結果、僕の頭にある一つの現実離れした考えが思い浮かんだ。
「ひょっとして……、山田さんって、この世界の人じゃないの?」
 僕はどこかで彼女が笑って否定してくれることを望んでいた。
 しかし、それを聞いた彼女は否定も肯定もしなかった。
 まさか……、そんなことって。
 そのあまりにも馬鹿げた仮説は、彼女の一連の奇妙な行動を説明できるようにも思えた。
「最初は狐に騙されたのかとか思っちゃったりもしたけど、流石にそれはないよなぁ、って自分でも冷静になっちゃって……」
 ハハ、と一人笑いしたが、彼女は真剣な表情を崩さなかった。
「待って」
 しーっ、と口の前で人差し指を立てた。
黒い傘の人が来る」
 この時はまだ、彼女の言っている意味がよく分からなかった。

 あの後、山田さんを見送ってから、僕は一旦カナさんの家に引き返すことにした。
 途中、たまたま通りかかった夜のコンビニの前の駐車場にポツリ、と誰かの人影が立っているのが見えた。
 あの浴衣は飛蘭先輩かな?
 先輩は誰かと電話しているようで、時々何語かよく分からない言語を話していた。
 飛蘭先輩は語学達者だしな、などと呑気に考えていると、日本語に切り替わった。
「こちらヒラン。転移者の存在を確認してから一年が経ちましたが、これまでのところこちらの世界への影響は微小ですし、現時点では——。——?」
 夜だというのに、先輩はいつもの黒い日傘を片手に握りしめていた。
「——、——。……『これ以上好きにさせるわけにもいかない』って。一度、上の判断を仰いでから最終的に彼女をどうするか決めましょうよ。こちらとしても、一人では判断しかねますし。
 いずれにせよ、何かが起こったらいつでも対応できるよう常に近くにおりますので——」
「……先輩、誰と話してるんですか?」
 先輩は僕の方を振り向いた瞬間にゲッ、という表情をした。
「……しもた」
 黒い傘の人、見つけた。

 見るからに慌てた様子で苦笑いする飛蘭先輩。
「転移者? 彼女をどうするか決める? 何の話ですか?」
 それが誰の話なのか見当もつかなかった僕は、愚かにも直接本人に聞いてしまった。
「なっ、なんでもないっ!」
 先輩は目を泳がせて、イヤに早口で言い訳した。
「ほら、中二病ごっこや! 楽しいやろ? 組織がどう、とか……。イタイ……かな?」
 ホントだろうか。
 僕はふと先輩の持っていた黒い日傘をもう一度見つめた。
「それより中村くん、山ちゃんとのデートは終わったんか?」
 先輩は傘をしまいつつ話をそらした。
「別にデートじゃないですって。山田さんなら、今さっき駅まで送ったんで、今頃ホームにいるんじゃないですかね。なんなら合流します?」
 僕はそう言ってスマホを取り出すと、山田さんにメッセージアプリで連絡をとろうとした。
「ええわ、別に。ウチ、ライアンと鈴木くん待ってるから——」
「お待たせー。って、あれ? 中村じゃん」
 ちょうどいいタイミングでライアンくんと鈴木部長の二人が現れた。
「山田さんとの初デートはどうだった?」
「だからデートじゃねえって」
 部長は僕の言葉を完全に無視すると、今度は大げさに泣くフリをした。
「しっかし、この夏、お前もとうとう本物の男になったな。一緒に牛丼にチーズかけて食ってた時代が懐かしいよ」
「誰がチー牛だ」
「チーズ牛丼、おいしいですよね。日本に来てから何度も食べました」
 また全員がそろったところで、僕はみんなとこれからどうするかについて少し話した。
 このまま二次会をする流れになりそうだったので、
「もう間に合わないかもしれないけど、山田さん探してくる」
 僕は彼女も呼ぼうと、一旦その場を離れた。

 駅の改札を通り抜けてホームへ向かう途中、僕が気になっていたのはやはり先輩のことだった。
 仮に山田さんの言う『黒い傘の人』が飛蘭先輩だとして、これは一体何を意味するのか。
 そんなことを考えているうちに、ホームの隅に立つ山田さんの姿が視界に入ってきた。
「山田さーん」
「……中村くん」
 僕は彼女に走り寄ると、二次会のことについて説明した。
「よかった、間に合った。今、他のみんなと合流したから、この後一緒に——」
「私は帰るよ」
 山田さんは僕の言葉を遮って、いつものように無表情でボソリと言った。
「そっか。まあ、もう夜遅いしね」
 無理に引き止めるのもよくないか。
 僕は彼女が帰る前に、一つ聞きたいことがあった。
「あと、もう一度確認したいんだけど、さっき言ってた『黒い傘の人』って何のこと?」
「……」
 相も変わらず無言の山田さんに、僕はあまりにも軽率なことを口走ってしまった。
「これもただの思い込みかもしれないけど……、それって飛蘭先輩のこと?」
「……どうして?」
 これを聞いた彼女は露骨に顔を強張らせた。
「なんかさ、さっき先輩が黒い日傘を持って、誰かと電話してたんだよね」
 あ、ほら。先輩たちも来たよ。
 僕はなんの気無しに先輩たちの方を指差した。先輩はホームの人ごみの中を歩いていたが、こちらに気づくと笑顔で手の代わりに持っていた日傘を振った。
 すると、山田さんはみるみる内に青ざめた顔になった。
「まただ……」
 何を思ったか、山田さんは血相を変えてスーツケースを抱きかかえたままホームを飛び降りた
「な……、何やってるんだ!」
 突然線路を駆け出した山田さんを追いかけて、僕もホームを降りようとしたが、
「来るなっ!」
 普段の彼女からは考えられないほどの大声だった。彼女は長い髪を振り乱し、全速力で僕から逃げようとした。
「待ってって! 危ないよ!」
 そうこうしている内に踏切の警報音が鳴り、電車がこちらへ向かって接近して来る。
「線路内に人がいるぞ!」
「誰か! 非常停止ボタンを!」
 ホームは一時騒然となり、騒ぎに気付いた鈴木部長が首尾よく非常停止ボタンを押してくれた。
 途端に、駅構内にブザーが大音量でけたたましく鳴り響き、走行中の列車が激しいブレーキ音とともに停止しようとした。
 しかし——
「ダメだ、間に合わん!」
 部長の悲痛な叫び声が響き渡る中、僕はなんとかして山田さんに追いつき、彼女の手を引っ掴んで迫り来る電車を避けようとした。
「離して!!」
「いいから! 早く避けて!」
 全てがスローモーションのように感じられ、まるで現実感はなかった。
 よもや、常日頃愛好してきた電車に轢き殺されて死ぬなんて。
 まばゆいヘッドライトに目が眩み、いよいよ本格的に死を覚悟したそのとき——
 初めは目の錯覚かと思った。
 駅舎や電車の車両、踏切警標の色が赤になったり白になったりしているように見えた。
 何百も違うレイヤーが重なっている様は、まるでAIが生成した動画のよう——表面上はグニャグニャと歪みながらも、全体的な形としてはかろうじて同一さを保っていた。
 これは一体——?
「あかん!」
 飛蘭先輩がそう叫んだのを最後に、僕たち二人の周りの景色がバグったゲームのようにボロボロと崩れ出した。
 やがて僕たちは知らないどこかへ吸い込まれ——

 再び意識を取り戻したとき、僕はなぜか電車内に立っていた。
 ガタンゴトン、という揺れ。
 つり革に捕まってあくびをするサラリーマン。
 席に座って隣の人とおしゃべりに耽る女子高生に老夫婦。
 その全てがあまりにも普通で、僕は先ほどまで自分が電車に轢かれそうになっていたことを忘れたほどだった。
 そして、僕の隣にはスーツケースを抱えた山田さんが立っていた。
「山田さん……! 大丈夫? ケガはない?」
 彼女は一応無事のようだった。彼女はスーツケースを床に下ろすと、消え入りそうな声で呟いた。
「……大丈夫だけど……」
 彼女は僕から目を背けたまま、申し訳なさそうな顔で俯いていた。
 それにしても、僕たちは今どこにいるんだろう
 先ほどから感じていた違和感の正体はこの電車自体だった。蛍光灯の照明カバーやシートの感じが関東の私鉄とはなんだか違う。
 そして、次の違和感は車内アナウンスだった。
「『みなさま、ご乗車ありがとうございました。次は終点カナヤマーカナヤマー。お出口、右側すー』」
「金山って……、愛知県じゃなかったっけ?」
 僕が思い出せる限り、「カナヤマ」という駅名は関東近郊にはない。
 そして全ての違和感は駅についたときに頂点に達した——駅名標に「加奈山」という文字が見えたのだ。
 いても立ってもいられなくなって、僕は降りようとしていた人を捕まえて尋ねてしまった。
「すみません、加奈山(かなやま)ってどこですか?」
「どこて……、何やその質問」
「愛知県名古屋市の金山ですか?」
 するとそのおばあさんは顔をひどくしかめて、まるで常識と言わんばかりに諭して来た。
加奈山があるんは加奈山県加奈山市に決まっとるやろ。何アホなこと言うとるんや」
 ケッタイなやっちゃ、と言っておばあさんは足早に立ち去った。
「……ここはどこだ?
 加奈山駅(かなやまえき)に降り立った僕は、周囲を三百六十度ぐるりと見まわした。
 それは一見すると日本のどこかにありそうな、たくさんの電車が出入りするターミナル駅という感じではあった。
 が、地名や駅名、路線名含め、知っている固有名詞が何一つない。
「中村くん、巻き込んでごめん……!」
 隣にいた山田さんがとても悲壮な顔で泣き出した。

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