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境界性パーソナリティ障害のわたしが自分らしさを取り戻すために

スガカオルです。

境界性パーソナリティ障害でもあるわたしは今、迷走している。

何を迷走しているかというと、ひとつは洋服だ。
コロコロと洋服の趣味が変わる。
趣味が変わるというか、何を着るのが正解なのかわからないのだ。

言うなれば、自分というものがよく分からない。

何をするのが好きなのかは最近理解しているつもり。
例えば書くことやハンドメイドをすることや絵を描くことだ。

しかしながら、自分の洋服の趣味趣向はわからないままだ。
そのために服装が変わってしまうのだ。

今日は境界性パーソナリティ障害ゆえに自分を見失っている話をしたいと思う。

読者の方には、何だそれっていう話かもしれない。
少しお付き合いいただけると嬉しい。

自分がわからない私

恐らく、自分が何が好きなのかわからなかったのは幼少期の頃からだ。
自分が好きなものがよくわからなくて、手当たり次第に色々と試してきた。

人に合わせてきたために、人の好きな物を好むようになっていった。
自分が得意なことは分かるが、自分が好きなものがよくわからなかった。

成長するにつれて、やりたいことや楽しいことはわかるようになってきて、それが自分の好きなことだと思うまでになった。
それでもよく自己分析したし、何度も間違えたりして右往左往した。

やりたいことや楽しいこと、続けたいと思うことは、自分の限界から消去法で切り捨てて残ったものだ。
この方法はわかりやすく、色々と試す時間はかかったが今では自分がやりたいこと、続けたいことが分かった。

しかし、服装に関して言えば、いまだに右往左往どころか迷路の中を歩き回り疲弊しているのが現状である。

どうしてこんなにも苦労してしまうのだろうか。
おそらく幼少期の経験が影響していると思っている。

親の顔色をうかがっていた幼少期

幼少期のわたし、小学生ぐらいまでは自分で洋服を選んだことがなかった。
一緒に買いに行ったと思うが、選ぶのは母親だった。
今となっては、その理由は分からずじまいだ。
自分が何でもいいとか言ったのかもしれない。
たいして子どもの頃はおしゃれに興味はなかったし、着られればいいと思っていた部分があることは否めない。

母親は洋裁をする人だった。
当時習っていたエレクトーンの発表会や遠足や修学旅行などのイベントの際には、母が手作りしてくれた衣装や洋服を着ていた。
もちろんわたしがデザインなどを選んではいないし、生地も母親任せだった。

母親はすべてにおいて、唯我独尊の人だった。
わたしも兄も、何が食べたいとか、言ったことがなかった。

いや、言ったことはある。
しかし、その提案が通ることはなく、次第に言わなくなっただけだ。

おやつも買ってもらえなかった。
わたしや兄は手伝いをして、おこずかいを稼ぎ、駄菓子屋へ走った。
たった100円を握りしめて、浮かれ足で駄菓子屋へと向かった。

兄に教えてもらいながら、慣れない計算をしつつ駄菓子を買った。
当時は5円チョコというものがあったし、10円のものも多く、駄菓子屋は子どもにとっての夢のデパートみたいなものだった。
あぁ、懐かしき10円のうまい棒。

それとは別に、母が気が向いた時には手作りの焼き菓子などを作った。
それはそれは手が込んでおり、美味しかった覚えがある。

しかしだ、気が向いたときにしか作ってもらえない。
頼んだところでその気分でなければ作ってもらえない。
いつ頼むか、エスパーのごとく母のこころを読みながら、頼むタイミングを見計らっていた。
そう、これが世間でいうところの、顔色を伺うというやつだ。

顔色を伺うことは日常だった。
その術を身に着けたが、やっかいなのは雲行きが怪しくなった時だった。

まるで天気アプリの「雨雲が近づいています」みたいなときは、そーっと足音を消して立ち去るのが正解だ。
雨雲がカミナリ雲のことが多いからだ。

機嫌を損なわないように、顔色を伺うことは友人たちの中でも行われた。
当時いじめや仲間はずれを受けていたわたしがその中で立ち回るには顔色を伺うことは必須だった。

友人が良いと言ったものは、疑問ながらも自分に言い聞かせながら良いと思うようにした。
しかし、ドラマに夢中だった友人のようにはドラマは興味がわかなかったし、流行りのお笑い番組もどこか冷めた目で観ていた気がする。

友人が言うことが全て良いと思えなかった部分があったことは事実だ。
しかし、観ていなければ人間じゃないみたいな扱いを受けるために、頭の中に記録するためだけに観ていた(ちゃんと観れば楽しい番組だったのだろうと今では思う)。

家庭でも学校でも、自分の好きを表現する場がなく、押し付けられたものの中で生きていた。
いつしかそんな自分が嫌になり、友達を変えていった。

好きだった絵を書いたり、マンガを貸し借りしたり、ラジオを聴いたりした日々は心から楽しかった。
彼女たちの中にいる時は自分のやりたいことを尊重してもらえた気がする。

そうして、少しづつやりたいことをやれるように成長していった。


髪型や服装の迷走

高校生になっても、服装はよくわからなかった。

当時流行っていたのはルーズソックスとラルフローレンのベストやセーター。
入学早々に母親が借金を残して姿を消したので、わたしは服装云々どころではなかった。

革靴はいちおう買ってもらったが、足も痛くなり、すぐにスニーカーに切り替えた。

ルーズソックスはあまり知られていないが両足1000円以上する品だった。
わたしの感覚ではルーズソックスは高級品!
流行っているからといって、簡単に手を出せるものではない現実の我が家の財布。

そのため、まだ当時は流行りではなかったが紺のソックス(ハイソックスではない)を主に履いていた。

セーターは3年の先輩から譲ってもらったSUPERLOVERSの赤いカーディガンを着た。
夏はベストを着たり着なかったり、運動着のTシャツや部活のジャージで過ごす日も多かった。

1番困ったのはなんといっても私服。
何が着たいのか、すでにわからなかった。

当時は自分など空っぽで、リストカットをする日々。
自己肯定感もなく、不安感に苛まれ過呼吸を起こしながら部活をしていた。
保健室の常連だったわたしはある時の中間テストも受けられず、全科目追試だった時もあるほどの不安定さを持っていた。

中学生もジャージや制服があったから救われた部分がある。
高校生の時もそれは同じだった。

しかし、高校生になれば学校以外の時間に私服で友人たちと会う時もある。
お金もなく、安い服ばかりでTシャツや、アジアンファッションも安めだったので、アジアンファッションを取り入れた。

時々、スカートを手作りしてスキニージーンズに合わせて着たりした。

コンセプトを持ってない服装であったが、夏はアジアンファッションをよく取り入れた。
理由は比較的安い品が多かったからだ。

高校を卒業して精神科に通うようになってからも、アジアンファッションは薬で太った身体にゆったりめのサイズだったためとても重宝した。

最近になって、一般ウケする服装をするようになって、髪の毛も長くした。
女性らしいと言えばそんな感じ。
そんな呪縛に取り憑かれていたw

定期的に会っていた(付き合ってはない)人が髪が長い方がいいよと言ったから、という理由がないような理由で伸ばしていた。

そんな自分に飽き飽きしていた。
誰かの言葉に影響を受けて自分を染め上げる自分は偽りの自分のようだった。
粘土をコネコネしながら作り上げた自分のようで、余計に自分自身をわからなくさせていた。

境界性パーソナリティ障害特有の、何が自分なのかわからない不安定さと脆さを抱えている自己像。

本質的に自分らしさを持たない自分。
そんな自分からの脱却がスタートを切る。

作り上げた自分ではなく、本来の自分らしさを、主体性を取り戻すために奔走することになる。

主体性を取り戻す日々

とはいえ、未だに自分らしさがよく分からない。

とりあえず、髪の毛をショートカットにした。

鬱々とした日々で、長い髪でいることにうんざりしたのだ。
長い髪であっても、演出した自分であり自分が好んでいなかった。

鬱々した気持ちを安全な方法で上げるため、言わば自傷行為的に美容室へと駆け込んだ。

美容室で切り終わり、学生時代のような自分自身の姿を鏡でみて、よしよしと少しにやけてしまった。
誰かが言った好みの髪型からの脱却。
作戦が良い方向へと進んでいることを実感した。

ヘアスタイルや洋服は自分自身を演出する小道具だ。
他人の目にどのように自分が映るのかを計画的に演出できる。
時に武器にもなり、鎧にもなる。

わたしはそんな武器や鎧ではなく、空気感が欲しかった。

人はファッション雑誌を片手にどんな自分になろうかと1人作戦会議をしている。
洋服を選ぶときもそうだ。
好きな色、好みの素材や形の服で自分を着飾っている。

それは時に自分らしさを演出していく。
一人ひとりが自分のスタイリストであるかのようだ。

わたしは学生時代の、かつての自分を演出することにした。

わたしはあの時から変わらずにいる。
あの時から時が止まったまま。
あの時置き去りにしたものを取り戻したいためでもあった。

未だに自分というものがわからない。
でももう武器や鎧は持たないでいいんだと、肩の荷を下ろした。

わたしはこれからも誰かに影響を受けながらも、自分というものを形作っていくだろう。

せめて、自分の行動や言動に責任を持てる自分になりたい。
そして、自分のやりたいことを続けていくことに自信を持って生きたい。

主体性を持って生きていく。
ショートカットの髪に風が触れて、少し笑みをこぼした。


今回はこんなお話。

ではでは、またね。

スガカオル

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