スガちゃん

主観でモノを語ります。 エンタメではなくアートです。 迎合ではなく批評です。 共感はな…

スガちゃん

主観でモノを語ります。 エンタメではなくアートです。 迎合ではなく批評です。 共感はなくとも影響はあります。

マガジン

  • IDEAという名の幻影

    自分の連載記事をまとめています。

最近の記事

なぜミュシャの作品はジャパニーズカルチャーの文脈でオマージュされるのか

僕がミュシャに出会ったのは、僕が生まれたばかり、まだ一歳にも満たない時である。当時NHKで放送されていた『カードキャプターさくら』に登場するクロウカードというアイテム、そこに僕とミュシャとの出会いがあった。 もちろん僕がそれをミュシャのオマージュだと認識したのは最近になってからだが、改めて様々な作品を振り返ってみると、日本人とミュシャの関係性がどれだけ親密なのかに気づかされる。 それではなぜこれほどまでにミュシャはジャパニーズカルチャーで多用されているのだろうか。今回はそ

    • 木下牧子合唱作品が提示する音楽の空間性への挑戦

      僕にはまだ木下牧子さんの作品は捉えることができないと言いながら逃げてきたが、そろそろ挑戦できる程度には力量がついてきたのではないかと思いたち楽譜を読み始めた。 いざ楽譜を読み始めるととても面白い。読めば読むほど新たな発見がある。それら発見の中でも興味深い一つの気づきについて、今回は紹介したい。 それは木下牧子合唱作品の空間性への挑戦である。 音楽の時間的性質と建築の空間的性質音楽作品の基本は言うまでもなく音の変化である。もちろん例外はあるにせよ、音楽は複数の音程の変化と

      • 楽譜書評『レクイエム』三善晃

        音楽は、大きな意味で、戦争と平和が得意なのだとひしひしと感じます。 特に三善先生の思想は平和の一元論的なところがあるように思えてなりません。 前書きはこの程度に、早速書評をば。 作曲家三善晃三善先生は1933年に東京で生まれ、戦時中は集団疎開学童であり、12歳の時に敗戦を経験しています。 非常に優秀な頭脳と音楽的才能をお持ちで、東京大学に入学し、同大学文学部仏文科に在学中にフランス政府給費学生として、4年間パリ国立高等音楽院で音楽を学ばれました。そして帰国後は東京大学も卒業

        • 芸術と批評の関係

          はじめに僕が今まで生きてきて日々感じていることの中に、否定的な意見に耐性のない人が多すぎるというものがある。多くの人は批判を感情と直接結びつけるのだ。 理性の世界における『批判(Criticism)』を感情の世界における『負(Negative)』と同一視しないで欲しい。僕が批判をするとき、何もその対象に負の感情があるから批判する訳ではないのだ。 ある作品の『批評(Criticism)』という理性的な行いに対して「私の好きな作品についてそんなことをいうなんてひどい」などとい

        なぜミュシャの作品はジャパニーズカルチャーの文脈でオマージュされるのか

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        • IDEAという名の幻影
          3本

        記事

          IDEAという名の幻影~現代音楽思想~3「芸術について」

          前の記事 芸術を定義してみる芸術はほとんど定義不可能なものである。美術も芸術の範囲に含めるのであれば、それはあまりに壮大すぎるからである。この議論を結論づけるには相当な議論を必要とするだろうから、この記事において定義する芸術は狭義の芸術についてであることを断っておきたい。 僕は以前「芸術家になるには」という記事で芸術家を3つのカテゴリーに分類した。この分類は当の芸術にも当てはまるように思える。 さて今回定義するのは西暦2020年現在において最近生まれた、あるいはこれから

          IDEAという名の幻影~現代音楽思想~3「芸術について」

          IDEAという名の幻影~現代音楽思想~2「美術と芸術」

          前の記事 美術と芸術美学(Aesthetics)と芸術哲学(The philosophy of art)は18世紀に同時発生的に生まれた。思うにこれは芸術的作品が単に美しいものを示すものではなくなったことを意味しているのではないだろうか。 ヘーゲル美学が書かれた時代『美』にはある種の正しさがあった。それはアカデミーの規定した『美』であり、その『美』を模倣した作品を芸術と呼んでいた。美的性質を備えているということが、芸術であるための必要十分な条件であるというナンセンスな芸術

          IDEAという名の幻影~現代音楽思想~2「美術と芸術」

          IDEAという名の幻影~現代音楽思想~1「はじめに」

          まえがき 僕は一応合唱指揮者をやっている。 僕は音大を出たわけでもなければ、非常に優れた音楽的な才能に恵まれたわけでもない。僕が持ちうるのは『IDEA』という一種の”音楽的思想”とその思想を形にしようとする熱量だけである。 今回から始めるこの連載記事では『IDEA』に関する誤解を解くとともに、この僕の持つ思想がどのようなものであるのかを紹介していく。 間違ってもこれは僕の考えであって他人にこれを強要する意思はない。 ただただ知ってほしいという一心でこの記事を書いていく。

          IDEAという名の幻影~現代音楽思想~1「はじめに」

          鈴木憲夫『永訣の朝』【評論】

          本当は評論ではなく批評という言葉を用いたかったのだけど 批評と呼ぶには言葉の定義をいちいち説明したりはしないし 誰もを納得させるような論理を組み立てる気にもなれなかった。 評論という言葉を用いた方が気が楽だ。 これを読んでくれている人からしたら関係のない話ではあるが この評論は僕にとっては記念すべき第一回目の評論であるから 何を題材にするのかは非常に大きな問題だった。 いやでもまぁ今一番好きな作品を論ずるのが一番良い気がする。 うん、そうしよう。 というわけで現時点で僕

          鈴木憲夫『永訣の朝』【評論】

          芸術家になるには

          はじめに僕はしがない芸術家である。 僕はまだこれといった作品を世に披露してはいない。 それでも僕は芸術家である。 芸術作品を生み出していないのに芸術家と名乗ることは果たして正しいのか。 という意見に対して僕はこう反論したい。 それでは芸術作品を生み出せば芸術家たりうるのだろうか。 例えば僕が、五線譜の上にペンキを塗りたくり 「演奏者はこの色彩から連想する音を演奏すること」 と注をつけた作品を世に提示したならば、僕は芸術家になるのだろうか。 なんとも難しい。 もちろんこの反論

          芸術家になるには