鈴木憲夫『永訣の朝』【評論】

本当は評論ではなく批評という言葉を用いたかったのだけど
批評と呼ぶには言葉の定義をいちいち説明したりはしないし
誰もを納得させるような論理を組み立てる気にもなれなかった。
評論という言葉を用いた方が気が楽だ。

これを読んでくれている人からしたら関係のない話ではあるが
この評論は僕にとっては記念すべき第一回目の評論であるから
何を題材にするのかは非常に大きな問題だった。

いやでもまぁ今一番好きな作品を論ずるのが一番良い気がする。
うん、そうしよう。

というわけで現時点で僕が最も好きな作品である
鈴木憲夫の『永訣の朝』について
つらつらと論じていきたいと思う。

愛は純粋であるほど美しい

この作品を一言で表すならば
それはひとえに『愛』である。
愛、愛、愛、愛、愛、愛、
その愛ゆえにこの曲は美しい。

この作品には目新しい音楽的な技巧が用いられてはいないし
作曲者特有の色彩も強調された様子もみられない。
この曲にみられるものといえば宮沢賢治へのリスペクトと
賢治の作品への狂信的なまでの愛でしかないのである。

もちろんこの楽曲に込められているものは
賢治の心象への鈴木の解釈ではあるのだけれど
その解釈は万人を納得させうる説得力がある。
というのも、驚くべきことにこの鈴木の解釈には
鈴木のエゴが一切介在していないように感じられるのだ。
その解釈者の存在を感じさせない解釈ほど
説得力のある解釈はないように僕は思う。
どうだろうか?

この楽曲は常にそのように解釈された詩の情感
それに寄り添うような音楽作りがなされている。
詩の情感よりも音楽を優先することは一切ない。
その献身的な作曲作業は自らの色彩が溶けるほどに純粋で
その純粋すぎる愛によってこの作品は芸術に昇華されている。

さて、この曲の詳細な構造解説をこの後しようと思ったけれど
一万文字をゆうに越してしまい
また読み物としての面白さは無に等しかったので
泣く泣く全文を削除した。

とても簡潔に削除した部分をまとめると
この曲は詩の情報をその時系列順に正確に伝えており
『永訣の朝』という偉大な作品を紹介するという点で
他の追随を許すことがない作品だということである。

また逆説的にこの楽曲の素晴らしさは
詩を読めば読むほどに理解できる。
というわけで詩を噛みしめながらこの曲を聴くことを
僕は強くおすすめする。

蛇足

ネットに、これ以上ないのでは
と思わせるほどの名演奏があがっている。
身内びいきのように思えるかもしれないが
騙されたと思って一度傾聴してみてほしい。
この演奏はどれだけこの曲が素晴らしいのか
僕が言葉で語るよりも多くのことを語ってくれているから。

しかしまぁこの熱量は男声であるからこその直接的なもので
混声版を含めていえばまだ『永訣の朝』の名演は誕生していない。
なぜなら最初に生まれた混声版こそ
鈴木憲夫がこの曲に最も求めた音像であるのだから。
混声でのより痛切な祈り、哀しさを伝え切れている演奏には
残念ながらまだ出会っていない。

そのような演奏を自らの手で演奏したいという欲求。
この楽曲が生まれて50年の節目を迎える2025年に
必ずこの曲を扱うという決意を込めて
この記事を締めくくりたい。

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