IDEAという名の幻影~現代音楽思想~3「芸術について」

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芸術を定義してみる

芸術はほとんど定義不可能なものである。美術も芸術の範囲に含めるのであれば、それはあまりに壮大すぎるからである。この議論を結論づけるには相当な議論を必要とするだろうから、この記事において定義する芸術は狭義の芸術についてであることを断っておきたい。

僕は以前「芸術家になるには」という記事で芸術家を3つのカテゴリーに分類した。この分類は当の芸術にも当てはまるように思える。

さて今回定義するのは西暦2020年現在において最近生まれた、あるいはこれから生まれる芸術についての定義である。僕の結論のみを述べておく。僕はノエル・キャロルの定義を僕なりに噛み砕いて、芸術とは『挑戦』であると定義したい。なぜ『挑戦』なのかは以下の本を読んでもらえればと思う。

さてその『挑戦』とはどのようにも解釈しうる。
「芸術家になるには」で語った3つのカテゴリーがこの挑戦を網羅していると言い切れる自信はないが、しかし大枠を掴んでいるという自負もある。このフレームワークから逆説的に『挑戦』の意味を掴んでもらえればと思う。

IDEA的芸術

この『美学の探求者』『芸術の研究者』『哲学の表現者』という3つのカテゴリーのうちどの枠が優れているのかという議論は水掛け論であり、個別の時代である現代においてその議論は生産性が低いと言わざるを得ないだろう。
どのカテゴリーも芸術的な価値は確かに存在することは認めた上で、それらのうちのどれを選択するのか、そのスタイルの確立が重要になってくる。

『IDEA』という音楽思想は3つのスタイルの中から『哲学の表現者』という立場をとるところから始まる。

音楽の演奏者はその性質上、楽譜という1つの完成した芸術作品を演奏しなくてはならない。(芸術における音楽の特異性については別の記事で述べることとする)

その制約の上で『哲学の表現者』の立場をとる演奏者はもちろん曲の表層(音程やリズム、ハーモニーなど)を捉えるにとどまり、自らの哲学を”表現”するようなことも可能ではある。
しかし『IDEA』的には、演奏者はまず作曲家が曲に込めた哲学、すなわち楽曲のテーマを妥当らしい文脈の上で理解することからスタートしなくてはならないとする。それは作曲者のことを、たとえその場に居合わせなくとも同じ音楽を作る仲間だと考えるからである。

しかしその場にいない作曲家の楽曲に込められたテーマを正確に読み取れるのかという疑問は残ると思う。その話についてはまた別の記事で語ることにする。

さて作曲者の楽曲に込めたテーマを理解することは前提であり『IDEA』的な考えでは、この上で演奏自体を芸術とするためにはもう1つの作業が必要であるとする。それはすなわち演奏者自体の哲学を込めることである。

これは作曲者のテーマを正確に読み取った上で、そのテーマについてどのような主張をするのかを考えるということで、楽曲の主張を無視して好き勝手に自分の主張をすれば良いという訳ではない。この時、作曲者自身のテーマに対する答えに共感しても良いし、あるいは妥当性のある否定を表明しても良いが、必ず楽曲それ自体の持つ主張と地続きでなければならない。この作曲者の哲学的な表明をたたき台に2次的な意見を込めることに意義があるとする。

それは美術作品をテーマ性を持って並べ展示すること(たとえば表現の不自由展)と同様に芸術といっても過言ではないだろう。なぜならそこには元の作品以上の意味性(文脈)を生むための挑戦が存在するからである。

このようにして生まれてくる芸術(音楽の演奏)をIDEA的芸術と呼びたい。

どのようにテーマ性を読み取るのか、どのようにして自らの主張を妥当とするのか、どのようにその主張を楽曲に込めて聴き手に伝えるのか。How to的な疑問が多く浮かび上がってくることと思うが、それらは全てこの記事群で明らかにしていくのでそちらを参考にしていただきたいと思う。

まとめ

この記事群における狭義の芸術の定義は『挑戦』である。

『IDEA』において、音楽を演奏する際は作曲された曲の持つテーマ性をはっきりとさせた上で、そのテーマについての演奏者自身の主張を述べることを必要とし、その主張の挑戦を芸術とする。これをIDEA的芸術と呼ぶ。

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