芸術と批評の関係

はじめに

僕が今まで生きてきて日々感じていることの中に、否定的な意見に耐性のない人が多すぎるというものがある。多くの人は批判を感情と直接結びつけるのだ。

理性の世界における『批判(Criticism)』を感情の世界における『負(Negative)』と同一視しないで欲しい。僕が批判をするとき、何もその対象に負の感情があるから批判する訳ではないのだ。

ある作品の『批評(Criticism)』という理性的な行いに対して「私の好きな作品についてそんなことをいうなんてひどい」などという感情的なコメントは全くもってお門違いだし。おそらくその批評を行った人の方がその作品に対する造詣は深いはずである。

もちろんここで個人的な趣味嗜好を持つことを否定したい訳ではない。ただ主観的な感想を同列の舞台にあげることは適切ではないと言いたいのである。

批評と感想

批評と感想は全くの別物であり批評は感想より優位にあるということをまずは述べておきたい。わかりやすい違いにはその視座があるだろう。批評は客観性を担保しなければならないのに対し、感想は常に主観的である。これだけで一般性という価値基準から批評が感想に優位なことはわかると思う。

さて、これに対しする反論として考えうるものは『大衆の感想』という感想の集合体と個人の批評とが対立した立場を取った時、一般性の観点から見ても『大衆の感想』の方が優位にあるのではないか。というものがあるだろう。

この主張は一見正しいように思えるが、その作品の是非を確定する判断材料が個人の感情のみである感想は、いくら集まったところで是非の判断材料に「この作品を良い(悪い)と思っている人の数が多い」という数量的なデータを増やすのみなのである。批評に置いてその作品の是非の判定には多くの文脈を用いる。その文脈の多さが一般性を生んでいるのであり、是非の判断材料が主観的な感情と数量的なデータの2つのみである『大衆の感想』に一般性で劣ることはないのである。

またここで1つの疑問が浮かび上がる。それは「大多数の人が良い(悪い)とするものに対して批評が対立するときに、批評が優位に立っていたとしても、それを聞き入れる人はいないのではないか」という疑問である。

この疑問は妥当である。この疑問を解決するには今まで保留してきた目的語を明らかにする必要がある。批評は「誰にとって」感想に対して優位にあるのか。それは「芸術家にとって」である。
もちろん感想を述べている者からしたら、感想の方が批評に対して優位に立つし、逆もまた然りである。客観性というのはその事象の外に立ったとき初めて意味をなすことであり、制作物についての意見に客観性を求めるのは制作する側であるとすることは妥当な考えではないだろうか。

それでは「芸術家にとって」批評の価値は高く感想の価値が低い理由を、芸術と批評との関係性の中から見出していきたいと思う。

芸術と批評の関係

芸術と批評には再帰性(Reflexivity)の関係がある。芸術があって批評があるのは当然のことであるが、批評が芸術に作用することもよくあるのである。
結論から言ってこの再帰性のあるなしが、批評が感想よりも比べるまでもなく芸術家にとって価値が高いことの証拠である。

それでは芸術と批評との間に本当に再帰性はあるのだろうか。個人的にはこの相互作用は自明であると思っていたのだが、案外そのような認識は広くされていないようだ。批評が芸術にどのような影響を与えるのか、この後確認していこうと思う。

批評における重要な要素に文脈づけがある。その文脈づけの方法論をアドルノの『美の理論』から見出そうというのが僕の研究であるが、まだ論証していないこの方法を今使うことは前後逆になるということを理解した上で、今回はそのアドルノの『美の理論』から一部を持ち出し、僕なりの文脈づけの例を付け加えて文脈づけに関して解説したい。

1芸術と社会との関係
文字通り、芸術は社会と関係しているということ。これを文脈づけに利用するのであれば、この作品は現代社会の問題点を浮き彫りしている点で評価できる。だとか、この作品は当時の社会状況を表す歴史的価値を持つ。などというように文脈づけできることだろう。

2伝統との関係
伝統に対してその芸術がどの位置を占めているのか。文脈づけに利用すると、この作品は伝統的な様式美を見事に踏襲しており、その上で新たな価値を伝統の上においている点で非常に評価できる。としたり、あるいは、この伝統から大きく離れた作品はこの分野に新たな角度からスポットを当てることに成功している。とすることもできる。

3表現と構造
文脈づけに利用すると、この作品はその他の作品に共通して見られる構造を逸脱することでそこに歪みを表現している。ということもできるし、この構造はおよそ300年前に多用されたもので、その構造を利用することで当時の話であることを暗に表現している。と文脈づけることができる。

文脈づけとはおおよそこのようなことである。念のために述べておくと、アドルノから引用した概念で僕が作った文脈のフレームワークをただ使えばいいというわけでなく、もちろん論拠には客観的な事実を用いなければならない。

さてここからが本題だが、これらの文脈づけは「芸術家自身も知らなかった特徴」を作品から引き出す可能性がある。例えば、芸術家が己の感性(美意識)にしたがって作った作品が、例えば構造の観点から文脈づけられ説明された時、それは他の芸術家にも利用可能な技術になる。さらに言えば製作者自身にとっても自分で説明できなかった感覚が言語化され、自身の感性を表すより良い表現を求めるきっかけになるかもしれない。また技術は言語化されることによって、そこからの逸脱という新たな芸術を産む土台を作ることにもなりうる。

このように批評家は少なくとも文脈づけの作業を通して、芸術家に影響を与えているのである。

芸術家と批評家の関係

ここからは私見になるのだが、芸術家と批評家はある意味では二人三脚のパートナーであると言えると思っている。かなり噛み砕いていうと、漫画家と編集の関係と同様の関係である。

芸術家は常に自らの美意識や哲学に向き合うという孤独な戦いを迫られている。そしてその苦悩の末生み出した作品も、自分のこだわりや工夫は大衆には理解されず、多くの場合その作品の表層のみが消費される。そんな日々を送る芸術家たちはふと、もしかしたら妥協してもバレはしないのではないか。大衆に売れる作品を作るのであれば表層のみを繕えば良いのではないかと魔が差してしまうこともあるはずだ。

そんな芸術家に対して「お前のやっている工夫や主張はわかっているし、それ以上にお前は、自分でも知らないかもしれないが、こういう良さがある」と言ってくれる批評家は芸術家の理解者であると言いたいのだ。

またある売れている作品、すなわち大衆にとって良いとされている作品を「表層を繕っただけの売れ筋を気にした駄作」という批評は芸術家に自分の美学を貫いて欲しいという批評家からのエールでもあることを述べておきたい。自分が気にもしていない芸術家の作品を酷評することがあるだろうか?自分がその芸術家を応援したいと思うからこそ、その作品を酷評するのである。

終いに

批評家見習いの分際でこのようなことを述べることには、大きな抵抗があったし、こんな偉そうなことを言える立場ではないのだが、最後に僕の願いを込めてこの記事をしめたいと思う。

どうか全ての芸術家が大衆の好き嫌いという感情に揺さぶられず、いつまでも自らの美意識を追い求め続けることができますように。

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