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短編:【春の訪れ、そんな今日此頃…】

「ママ、見て?」
「な〜に、あ…つくし?」
「これ、キノコ?」
娘は見たことがなかったようだ。
「キノコ…じゃないかな?これはね、つくし。春になると土から生えて来るんだよ。でもなんか久しぶりに見たかも…」
「つくしは食べられる?」
「食べる?ん〜どうだろう。昔は食べていたみたいだけど…ママは食べたことないかな〜」
確かに時代と共に変化している環境。食生活も大きく変わっている。かつてイナゴを佃煮にして食していたが、時代と共に見なくなり、しかし近年では昆虫食なる新たな文化が出ていたりする。

「なんか面白い形してる」
「面白い形してるね」
「マツボックリ…」
「ああ…色とか形は似てるかな。タケノコなんかにも色は似ているね?」
「いとこなの?」
「いとこ…じゃないかな…」
「この子たちは、なんで生えているの?」
「なんで?…なんで…」
子供の発言は時として凶器にもなる。
「この子たちは何をしているの?」
「春を知らせているのかな…」
「春のお知らせなら、桜がしてるよ…」

季節を知らせるモノ…春は桜。梅雨は紫陽花。夏はセミ、向日葵。冬はつらら、雪。昔のように俳句や短歌、時節のご挨拶が少なくなった現代は、誰もがわかる季語ばかりになってしまった。
「そうね。春を知らせてくれる植物は、色々あってね、つくしもそのひとつかな」
「そっか、色々あるんだ…」
「ママ、そんなに詳しくないから、わからないけれど、こうやって季節を教えてくれる自然が残っているって、なんか嬉しいな…」
「春を知らせるのは、桜だけじゃダメなの?」
「ダメじゃないけど…」
個性の時代、多様性の時代、ワークシェアの時代…ナンバーワンじゃなくてもイイ、特別なオンリーワンを称える時代。
「桜はキレイだから好き」
「つくしも可愛くない?」
「色が嫌い…」
「そっか…」
「何のためにあるのかわからない」
「そうね…」
「タンポポの方がまだ可愛い…」
感性というのは難しいものだ。生きる意味や、存在意義、それぞれをキッチリ教えてあげたいけれど、そこまでの知識も想像力もない。

「桜はね、ミッチャンみたい」
「ミッチャン?」
「保育園の人気モノなんだよ。可愛くて、明るくて…」
「そっか…」
「私はね…う〜ん…私は…つくしみたい…」
「なんでつくしみたいなの?」
「目立たないし、人気も無いし…」
「つくしも可愛いよ」
「う〜ん…」
色々考えているのだ。言葉にするのは難しいが、感受性は豊かなようだ。

「桜が好きな人がたくさんいても、つくしが好きな人もちゃんといる。タンポポが好きな人、菜の花が好きな人、チューリップだって華やかな春のお花よね…同じ春を彩る植物だってみんな同じじゃないし、春を知らせるだけではないの」
「菜の花は好き」
「タンポポも可愛いでしょ?」
「タンポポはヒナちゃんみたい」
「なんか春のお花畑みたいなクラスなのね?」
「ミッチャンもヒナちゃんも私と良く遊ぶし、いっぱいお話もするんだよ」
「そう」
「いっつもセンセイに、ちょっと静かにしましょうねって言われるの」
「そんなにウルサイの?」
「うん…楽しいから笑っちゃうの。みんな仲良しなんだよ」
「仲良しなんだ」
「でもねミッチャンは来年違う小学校に行くんだって」
「あらそう」

見た目や性格だけじゃなく、周りの存在を例える感性を持っている。冷静に自分をみつめ、他人を評価して尊敬している。そんな感受性に触れることができたことが、私は嬉しかった。

「これは?」
「ん、あ…ダンゴムシ」
「ダンゴムシ…あ、丸まった」
「触れるの?」
「ん…ちょっと怖いけど…」
子供の好奇心と無邪気さ。
「ダンゴムシはカズ君かな…」
「あのね…あんまり例えない方がイイかな…」
私は笑ってしまった。良いとか悪いとかは別として、例えられて嬉しいことと、嫌な気分になるという、大人な感覚に関しては追々教えてあげよう。

来春には小学生のお姉さんになるのだから。

     「つづく」 作:スエナガ

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